北斎の梯子

有智子

富嶽百景

己六歳より物の形状を写すの癖ありて、

半百の頃より、しばしば画図を顕わすといえども、

七〇年描くところは、実に取るに足るものなし、

七十三歳にして、稍々禽獣虫魚の骨格、草木の出生を悟り得たり、

故に八十歳にしては、ますます進み、九十歳にしてなお其の奥意を極め

一百歳にして正に神妙ならんか、百有十歳にしては、一点一画にして生きるが如くならん、

願わくば長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまうべし、画狂老人卍述


葛飾北斎「富嶽百景」跋文



 父は、天才だった。

 画廊の女主人に話を促した時、彼女は開口一番にそう言った。



 平成四年の冬だった。東杣谷の駅で降りて画廊に向かう途中についに雪がちらつくほどで、あまりに寒かったので構内を出てすぐそばのコンビニエンスストアに駆け込んで、貼らないタイプのカイロを買ってポケットにつっこんだことを覚えている。

 平成一五年から施工が開始された駅前の再開発計画の素案すら、当時はまだできておらず、今、東杣谷駅の前に聳えるデジタルサイネージのまたたく大型デパートなどは、影も形も見当たらなかった頃の話だ。

 北出口を出たところがメインストリートから直結する巨大なバスロータリーになっていて、団子のように連なったバスから順繰りに吐き出される乗客たちの人混みを横目に見ながら、そっけない駅前の地図を眺めて方向を確かめると、寒さに後押しされるように、足早に歩き出した。

 過去のある一点へ戻る時。記憶を辿るように文字に起こしながら思い出すと、ちゃんと見ていたはずの視界はいつも焦点のぶれたレンズのようにぼんやりとして頼りなく、黒と灰色と雪の白さだけが印象に残っている。

 とにかく寒かった。中学生の時の修学旅行で、二月に京都に行った時も思ったけれども、すり鉢状になった地域独特の底冷えというものは、平地のそれよりもずっと厳しい。市内からはバスで四〇分かかるような郊外の大きな寺を訪れた我々は、雪になりきらなかった冷たい雨に足止めされて、ケージの中に閉じ込められた小動物たちが広場に解き放たれたかのように、紫宸殿の中で思い思いに寛ぎはじめた。寺社仏閣の奇妙に人の気配のないしんとした廊下は、真昼だというのに異様に暗かった。吹きわたる風から身を守るように膝を抱えて縁側に座り、黒く濡れそぼった裸の木々を眺めていた。重たいコートを着ていてもしみこんでくるような寒気に、わたしはすっかり参ってしまっていた。もともと南国出身なので、寒さには弱かったのだ。それに、雨のしみこんだ靴下のせいで冷たい指先が、風に晒されて凍るようにどんどん冷えていくのにも、うんざりしていた。友人たちはそれでも、コンクリートの檻のような閉塞した校舎を飛び出して、友達と過ごす非日常の時間と空間に興奮しきゃあきゃあと騒いでいたけれども、それに混ざる気にもならずに、ぼんやりと物思いに耽っていた。同じ年ごろの少女たちとはいつもうまく馴染めない。はやく雨が止めばいいのにと願い続けていた、あの苦い気持ち。それに、寒くなると気づいたら思いをはせていて、コートの襟もとをぎゅっと合わせた。

 ギャラリーまでの地図は鞄の中にいれてあったし、何度も見返してすでに道順は把握していた。当時は携帯電話で地図を調べるような時代ではなかったので、そうするのは、誰も皆当たり前のことだった。実際昔の方がよっぽど記憶力がよかったような気がする。一度通った道なら雰囲気で覚えてしまっていたし、どこかへ出かけるときには必ずガイドブックを買っていた。訪れた街のことをひとつひとつのコンテンツで思い出す癖は、そうやってチェックした箇所をスタンプラリーのように巡った経験からきているのかもしれない。

 なにしろ今日みたいな日がくるなんて、ゆめにも思わなかった。東杣谷に来るのはもちろんはじめてではなかったが、自分とは縁遠い街だと思っていたのは確かだ。

 縁遠い。街にも、人に抱くようなそういう印象があるのはなんだかおもしろい。例えば京都は落ち着いていながらもお高くとまっているし、九州で言うと鹿児島は降り立った瞬間から人懐っこく感じる。けれど、結局どこへ行っても、わたしにとって馴染み深い土地こそあれ、最初から愛しく思う街などひとつもなかった。街に入れてもらい、街に貢献し、街に好きになってもらおうと努力しなければ、愛ははぐくめない。わたしはいつだってわたし一人分の空間を、間借りして生きているような気持がしていた。ほんの六畳ほどの部屋に仮住まいして、最寄り駅は何度目指したってただの最寄り駅だったし、部屋はただ仕事から帰ってきて寝るための空間だった。ひとつのところに、長く住んでもせいぜい二年ほどで、それが性に合っていた。何かにべったりとくっつくのは何事においても苦手だ。そのくせ街並みのことはよく覚えていて、数年後訪れて変わっているのに気づくとふと寂しく思うこともある。よく見知った記憶。

 もしかしたら、わたしがそこに投影しているのは、いつのまにか置き去りにした自分自身のかけらでしかないのかもしれない。街並みにくっつけて、記憶の中に置いて行った自分自身を再発見するために訪れて、街並みとともに消えていったわたし自身を惜しんでいる。ああ、きっとそうだろう。東杣谷にそういった感傷が及ばないのはむしろ好都合だった。

 調べたところ、東杣谷は昔から文化水準の極めてたかい街で、それは戦後まもなくこの地に美術学校ができたことからも伺える。もともと芸術家たちのアトリエ村が存在する地域だったため、土壌としては十分だったというわけだ。時代をさかのぼればそれこそ江戸時代からそういう土地柄で、自然発生的に画廊や画材屋がしのぎを削って、雨の後の筍のようにいくつも軒を連ね、目の肥えたコレクターたちが足しげく通う。東杣谷は金の卵を産むブラックボックスだと誰もが知っていて、皆、夢を見た。喫茶には芸術家を志す若者たちが、パトロン候補の来訪者のお眼鏡にかなうように日毎集いあっては、喧々囂々の美術論議を交わした……というのが、古き良き時代を知る人々がまことしやかに言い伝えている東杣谷の風景である。

 そんなわけで、歴史あるこの地区の名前を出してギャラリーといえば、ちょっと業界に足を踏み入れた人間ならば片眉をあげておやと思うような、有名な場所なのだった。

 プレタポルテは中でも名が知れた画廊の一つで、それは画廊の女主人、伊藤美子が、かの有名な日本屈指の画家のひとり、伊藤炎斎の娘だからである。

 伊藤炎斎は、一九三一年に鎌倉で生まれた画家で、著名な作品としては鹿児島の酒造メーカー「円酒造」の看板商品である「桜吹雪」のラベルだとか、新都国立美術館のエントランスに飾られている油彩画の「富嶽百景」などをあげることができる。他、文芸書の装画などで、誰しも一度は目にしたことがあるだろう。前述した油彩画は、金と銀の箔を大胆に使用した富士山と日の丸が、対峙した者を圧倒する。はじめて披露されたときはメディアにも取り上げられて、来場者数が減る一方だった新都国立美術館はかなり賑わったので、戦略としては成功したといっていい。入り口を入ってすぐの、殺風景なほどモダンな白い壁。そこへかけられている横五メートルに及ぶ巨大な色彩に、呆気にとられて立ちすくみ、ふと目線をやると絵の下にタイトルがちょこんと貼られている。


「富嶽百景」  伊藤炎斎


 とにかく大きな絵なので、飾られているインパクトに誰しも驚くのだ。わたしは新都国立美術館に行くたび目に入るこの絵がとても好きで、入るたびにドキドキする。何度も見ているのに、何度訪れても呆然と見上げていて、目当ての展示に急ぐ同行者に肘で小突かれたこともある。躍動感と生命力、それからデザインとして洗練された比類なき美しさがあった。

 絵画鑑賞というと思わず遠慮するような反応を見せる人ばかりが周囲にいたので、あまり趣味としてあげることはなかったが、わたしは美術館へ展示を見にいくのが好きだった。むかしから好きだったわけではないし、美術史に精通しているわけでもない。それに、どちらかといえば西洋美術の方が好きだった。単純に美しいものを見ると癒されるということに気づいたからで、人ごみはどちらかといえば体質上避けた方が無難だったし、あまり古すぎる骨董品に囲まれるのも好きではなかった。この趣味は今の仕事を始めようとなんとなく心に決め始めたころに、息抜きの一つとして考え出したものだ。頭を空っぽにして、美しいものを眺める。そうしているうちに少しずつ絵画にも詳しくなってきて、本邦初公開だとか、貴重な作品だとか、そういう目でも見るようになった。今年来た美術展でいえば、チェコの国民的作家の壁画二十連作なんか、生きているうちに拝めるかどうかもわからないほどの素晴らしい作品群だった。そういうのがわかるようになると、楽しくなる。何事も楽しまなければ損だ。

 そんなわけで、新都国立美術館で知った伊藤炎斎についても、わたしは随分前からプロフィールを調べていたし、画集も集めていた。鎌倉で生まれた炎斎は武蔵野の美術学校を出て、今でいう広告代理店に就職した数年後に退職し、フリーランスの画家として活躍し始める。のちのインタビューで彼はそのころを振り返って、自分は顧客のニーズを満たすデザインという仕事に本当の意味では惹かれなかったと語っていた。画家としての活動を中心にしはじめて初の個展をひらいたのが、この東杣谷だったという。彼はそれから一気に才能を周知させて、多くの仕事を請けた。書店に並ぶ文芸書の新刊が、炎斎の装画ばかりだった頃もあったほどだ。

 巧みな腕を持って精力的に絵を描き続けた巨匠ながら、一九九〇年、彼が五十九歳の時に突然行方不明になって、いまだに消息がわかっていない。これは当時かなりセンセーショナルに報道されて、警察による大規模な捜索も行われたが、自宅兼アトリエで絵を描いていたはずの炎斎は、一切手掛かりを残さないまま――まるでちょっと買い物に出かけているかのような部屋の状況で――姿を消し、最初の三週間が過ぎ、やがて半年が経ち、誰も話題にのぼらせることなく、事件は迷宮入りとなった。何者かに誘拐されたのではないかとか、自宅そばに川があったことから足を滑らせて溺死したのではないかとか、いろいろな憶測が飛び交ったが、今なお真偽のほどはわからない。

 わからないほうが、いいのかもしれない。

 もちろんそんなことはないのだけれど、わたしは、時々そのように思っていた。たった二年前だ。消えた日本美術界の巨匠。まるで不可解なミステリのよう。

 わたしが伊藤美子にこうして会う機会を得たのは、ほとんど冗談みたいに在籍していた大学の美術部の同期が、まさにその伊藤美子と知り合いだったからである。一体どんな縁が作用するものかわからなかったが、仕事柄人探しには余念がないわたしがいつでもなんとか目的の人物に直接会うことができるのは、お膳立てしてくれる上の仕事でもあったが、自分の伝手に頼ることも多かった。炎斎が三十五歳の時の子供だった美子は当時二十四歳、画廊の主人としてはまだ年若い女だった。

 プレタポルテは、東杣谷の駅から歩いて十分ほどのところにある。ギャラリーが並ぶ星見通りの真ん中よりすこし西寄り、黒く塗られた壁の町屋風の建物で、看板はかかっていない。不親切に思えるが、界隈で知らないものはいないので、これで何ら不都合はないのだろう。入り口を入ってすぐ、小石を敷き詰めたちょっとした道があって、奥まった母屋へ向かうにはその一本道を通らなければならない。大きなガラスの花瓶に蒲がたくさん活けてあり、それがひとつのオブジェのようで素敵だった。蒲の穂を見るといつも因幡の白兎のことを思い出す。大国主命が、触るとまるで綿毛が湧き出るような蒲の穂を指して、鮫に皮を取られた兎に応急処置を教えてやるのだ。それにしても絵面を想像しただけで痛い。

 引き戸の扉を開けると中は梁が露出した吹き抜けの天井で、思っていたよりも広々と開放感がある。ギャラリーを訪れてはじめて伊藤美子に会った時、わたしは彼女が歓迎するように笑みを浮かべているのにもかかわらず、どこか人を近寄らせることを拒むようなその美しさに面食らった。

「ようこそいらっしゃいました」

 結婚はしていないと聞いていたが、まるで未亡人のような佇まいだ、と思った。

 長い黒髪を髷にして結い上げ、白地に黒のサテンリボンをあしらった上品なボレロとワンピースを合わせて、唇には品のいい色の口紅を塗っている。随分物静かな人物だった。

 手短に挨拶を述べ、自己紹介を済ませると、あらかじめ用意していたのだろう客間へ通された。アンティークなテーブルセットの上にいつでも淹れられるように茶器が重ねられており、勧められるまま着席する。

「本日はこのような機会をいただけて、光栄です」

「いいえ、そんな。東くんのご友人だそうですもの、断る理由がありません」

 にこやかに、かつ手早く紅茶の準備をして彼女は向かいに座った。熱いお茶の湯気がティーカップから立ち上るのを見て、途端に有難くて両手を合わせたくなった。なにしろ先ほどまで、手袋をした指先までかじかむほど寒かったのだ。

「今日はまた一段と寒かったでしょう」

「ええ。この冬一番の冷え込みだとか」

 ギャラリーは、今は展示の準備期間中らしく、作家の作品は一枚も飾られていなかった。客間に設えられた石油ストーブが煌々と燃えて部屋をあたためていた。

「作家さんだって伺ったけれど」

「あ、ええと、そうですね。一応。まだ本は二冊しか出していないんです」

「二冊も出されてるんだったら、立派に作家さんだわ。こういう場所だから、絵を描く方にはよくお会いするんですけど、文章の方に会うのははじめて。お恥ずかしながら、著作を拝見していなくて」

「ああ、いいんです。今日はそういうビジネスで来たわけではなくって……」

 二年前の炎斎の失踪から、マスメディアの取材はうんざりするほど受けたはずだった。その彼女の胸中を思うと、自分が物を書く人間だということはできれば伏せておきたかったが、他に都合のいい言い訳も思いつかず、結局そのような理由で面会を希望した。

 直接本の題材にするつもりはないが、芸術家の身内の話をぜひ今後の作品の参考にしたいと。

「引き受けておいて今更こんなことを言うのは気が引けるんですけど、私なんかの話で本当によろしいのかしら」

「もちろん結構です。個人的に、伊藤先生の絵はとても好きで、国立美術館の『富嶽百景』、何枚もポストカードを持っています」

 その絵の話を持ち出すと、美子は嬉しそうに微笑んだ。

あの絵、わたしも大好きなのよ。初めて飾られているのを見た時、うるっときてしまったくらい。



 わたしの父は、天才だった。はじめて国立美術館の壁一面を覆う父の絵を見た時、わたしはそのあまりの偉業に、思わず泣いてしまった。金と銀の筆致のダイナミクスの雄大さ、それを褒めそやす集まった業界関係者たちの賛美の声、それらに無関心そうに、壁に配置された自分の絵をいつまでもじっと見ている父の背中。興奮した会場の喧騒とともに、香りが立ち上るように思い出す。父は、天才だった。

 自宅の二階をアトリエにしていたので、わたしと母は、父がアトリエに籠ることを『セッション』と呼んでいた。文字通り、絵の具とキャンバスと父とのセッションだったからだ。あの家では、すべての中心は父にあり、なにもかもが父のために回っていた。

 父は寡黙な人で、なによりも絵を描くことが好きだった。両親はわたしが大学へ進学するころに離婚したが、母は後にその理由を語ったことがある。あの人、絵さえ描いていられればいいんだと思ったから。離婚を切り出した時にも、表立って反対する素振りなど見せなかった。

「君の好きにしてくれて構わないって。それを聞いた時、わたし、疲れちゃったって、やっと認められたの。この人は、絵を描いていられれば……これまでわたしがこの人のために尽くしてきたものすべて、そりゃあ、表立ってどうだっていいなんて言わないでしょうけど、根本のところでは、どうでもよかったのよ。いてもいなくても。それを、見ないように、信じないようにしていたけれど、それはただのわたしの都合だった」

 母のその独白を聞いた時、わたしは同情すると同時に、腹立たしさをも味わった。この人は、こんなにも素晴らしい父を、こんなにも素晴らしい絵を描くわたしのお父さんを、置いて出ていくのだ。わたしは父の戸籍に残ることになった。

 わたしが一体いつから父をそれほど尊敬していたのかは、正直あまりよく覚えていない。ただ、本を読むのが好きだったので、訪れた書店に父の装画した書籍が並んでいることに、幼心にいたく感激していた。父の絵がずらりと並んでいる、新刊の平積みコーナー。父の描いた絵がテレビに映る。見知らぬ他人の家の壁を飾っている。その仕事を見るたびに誇らしく思った。これを描いたのは、わたしの父なのだ。

 残念ながら、絵の方はからきしだった。ある程度の写実性をもって紙の上に対象物を描きとることはできたが、ただそれだけだ。何を考えても、ただ父の模倣のようで、そこに自身の独自性を見出したいとは思わなかった。一度だけ、わたしはパパの子供なのにちっとも絵がうまくかけないと癇癪を起こして、宿題の画用紙を引き裂いたことがあった。確か小学生の自由研究の題材で、橋を描いていた。真っ二つに割いた拍子に茶色の乾きかけた絵の具が垂れて落ちた。小学生のころは、怖いもの知らずにアトリエにも無邪気に出入りしていて、その時も父の背中を見ながら、絵の具と筆を拝借して好き勝手に絵を描いていた。制作中はいつでも寡黙で、ただ絵に取りつかれたようにキャンバスに向かっているはずの父が、その紙の引き裂かれる音を聞いて立ち上がった。不意に大きく響いた椅子をひく音に、まるで断罪でもされたかのようにおののいた。

「美子」

 怒られるのではないかと怯えていたわたしは、父の思いのほか優しい声に驚いてしまった。練習だよ。およそ絵を描くことにおいて、練習は決して無駄にはならない。そう言って、またくるりと背を向けて、自分の絵に没頭していた。わたしは放心したようにその背中を見ていたけれど、ふと握りしめた画用紙の切れ端にむなしくなって、大人しく、新しい紙を取りに部屋へ戻った。

 そんなわけで、技術的な面で父の仕事を手伝ったことは一度もなかったけれども、世界で一番父を尊敬し、尊重していたのは、自分だけだと思っていた。父に比べたら、どんな男性も色褪せてみえたものだ。完璧で完全無欠な、調和のとれた美しい世界。それを生み出せるのは唯一無二で父だけだったし、わたしは父の作る世界も父もとても愛していた。

 父はそれはものぐさな人だったから、アトリエはいつも手の付けようがないほど荒れていた。父と絵だけがその空間にあった。父が美術大学へ客員教授として出かけている間にそっとその部屋をのぞくたびに、まるで、教会で祈りを捧げる信者みたいな気持ちになったわ。そうね、夢殿みたいだと思った。聖徳太子が斑鳩につくらせたあれよ、八角形の。なんだか似ているの。

「美はすべてを凌駕する、って、ご存知かしら」

「それ、聞いたことあります。画集の末文のタイトルで……」

「そう、一時期、父の口癖だった。父のことを話す時、この話はどうしても外せないの。わたしは……美しいということについて、この頃、よく考えるの。わたしの名前ってね、父がつけたのよ」

 彼女は形の良い瞳を伏せ、長い睫毛が影を落とした。

「ちょうど、『富嶽百景』を描いた時くらいだったか、父の中でもあれは大きな転換点だったのよね。芸術というもの、美というものについて、考え抜いていて……ひとつの到達点だったんでしょうね。何か、悟りをひらいたみたいで」

「悟りですか?」

「そう。忘れられない言葉があるの。いいか美子、美はすべてを凌駕する。お前の名前は、この世で最も素晴らしい力の名前と同じだ。よく覚えていてくれ、って。それで、言われたままに、覚えてるのね。『ひとは矮小だ。だが美は、一瞬であり永遠だ。息を止めるほど美しい絵は、間違いなく人の時を止める。美の女神がわずかに微笑む時、わたしは永遠になれる。その一瞬のために、生きているんだ』って、ねえ、芸術家っていうのは、他の人は知らないけど、普段からそういうこと、考えているのかしらね。

 当時、父は、あの国立美術館のプロジェクトにかかわって、やっぱり、かなり疲弊していたわ。時間も労力もかかる大きな絵だったし、大きな名誉の重圧だった。絵を描くということについて、自分なりに半生を振り返って、思うところもあったんでしょう。時には批判だって受けただろうし、父は結構あれでいて気にしいな人で、完成した絵にも手を入れることもよくあった。でも、自分の信じるもののことは疑わなかった。

 あなたもきっと、作る人だからそうなんでしょうけれど、あなたにとって、美ってなんだと思う? 芸術家って、時々突拍子もなくって、母のような人にとっては、父は失望してしまうような、どうしようもない男だったのかもしれない。いくら美しいものを生み出せても、それって、実際には、部屋を綺麗にもしないし、夫婦をつなぎ留めもしなかったのよ。

 それでも、父の絵は、多くの人々に何かを与えることができた。

 絵の具とキャンバスと、父の頭の中の想像が、他人にとって、価値のあるものとして、時にお金を対価としたり、あなたのように、いつまでも頭の中に残って、愛してもらえることがある。父の言っていたことは、そういう意味じゃないかと思っているの。美は、すべてを凌駕する。時として、お金で買えないような素晴らしい体験をもたらす。そして、それは絵にしかできないことなのよ。創造によってしか。人がひとり、絵筆を走らせた、その創造物によってしか、できないことなの。それってとても、とても、素晴らしいことだわ。それって、本当にすごいことなのよ。

 だから、わたしは父を愛している。また会えると信じているの。

 それが、どのような形であっても」


 柱時計が、ボーン、ボーンと時を告げる音を聞いてはじめて、すっかり話し込んでしまったことに気づいた。カップを持ち上げると、すっかり紅茶が冷めてしまっていた。

「ねえ、あなた、本当は聞きたいことがあるんでしょう」

 束の間の沈黙ののち、彼女は言った。

 核心に触れられたと判断した瞬間に空気が一気に変わる。先ほどまでの奇妙な熱は息をひそめ、場が緊張した。

 わたしが何かを言うのを待っている。

 言葉にも導火線がある。間が場を支配する。

 いま、わたしの番が来ている。

「なぜですか?」

「なんとなく、そんな気がしたの。あなたが思いつめた顔でこのギャラリーへいらした時から」

 鼻の頭を赤くして、悲壮な顔で。実は、結構びっくりしたのよ。

 そういわれて、自分がそんな顔をしていたなんてちっとも思い至らなかったことに気づいた。今度からは気を付けなければ。

「ええ、その、実は。お父様のことを、お尋ねしたかったんです」

「父のこと?」

「正確には、伊藤先生の、二年前の失踪について」

 それを聞いて彼女は美しい顔を曇らせ、わたしは慌てて言い繕った。

「最初にお約束した通り、あなたから聞いたことを、直接文字にすることは決してしません。それにわたしは報道関係者じゃあありませんから、今更あの時の詳細な状況についてあなたに根掘り葉掘り聞く気はありません。そうではなくて……なんと言ったらいいのかわかりませんが、あなたにお会いして、やっと確信したことがあるんです。伊藤先生の失踪のことと、もうひとつ」

「父のことと……?」

「伊藤先生は、亡くなっていますね」

 彼女はため息をついた。

「どうしてあなたにそんなことがわかるの? 確かに、もう捜査は打ち切られているけれど、わたしはまだ――」

「そして、伊藤美子も亡くなっている」

 そう言うと、彼女の目を見た。



「誰って……」

 彼女は明らかに困惑していた。

「仰っている意味が、よくわからないわ。わたしは伊藤美子よ?」

「こちらへ伺う前に、ちょっとした伝手から、その事実は既に確認しているんです。伊藤美子はもう亡くなっています。海で溺れて死んだ。その時、入れ替わったんですね? それに、いまあなたが仰ったほどには、父親のことを好きでもなかったようです。どちらかといえば母親の味方でした」

「…………」

「うまく言えませんけど、別に責めるつもりはないんです。真実が知りたかった」

「……どうしてあなたに、そんなことがわかるの? ずっとこのまま、生きていこうと、思っていたのに?」

 泣きそうな顔で笑った。どこか安堵したようにも見えたのを確認して、張り詰めていた呼吸をほっと緩めた。この段階で、もし逆上されでもしたら、無理矢理ねじ伏せなければならなかったからだ。主義信条に反するので、それはできれば避けたかった。

「東杣谷に近づかないのは、境目が曖昧だからです。わたしのような目のいい人間には、見分けるのが難しい……いや、むしろ逆ですね。目の悪い人間には区別がつかないような地域だから、余計足を踏み入れたくないんです。土地柄ですかね」

「あなた……」

「伊藤先生は間違いなく素晴らしい芸術家でした。それに、一種の能力者でもあった。美しいものはそれだけで力を持つ、わたしもまたそれを知っているだけです。

 〈境界〉は、実は以前、接触したことがあるんです、先生と。けれど、絵を描くのに忙しいのでといって断られてしまいました。まあ、たしかに胡散臭いんですけどね。メイン部隊が除霊ばかりしているし……」

 〈境界〉。

 この世のあらゆる複雑怪奇を収拾する、という名目の極秘機関。

 はじめにこの話を持ち込んだのは、〈境界〉の判断ではなく、不本意ながら、自分だった。結局怪異は怪異に惹かれてしまうし、見えてしまう人間のところに、見てほしいものが来てしまうのは致し方ないことなのだ。

「あなたは、先生の作品だったんですね。今やっとわかりました」

 彼女はゆるく首を振った。伏せた瞳から涙が落ちるのが見えた。

「あの人が……」

 それは何年も伊藤美子だったものだ。最も崇敬する創造主の下へ、自分を捧げにきたもの。

「あの人が筆を滑らせるだけで、美の女神は微笑んでくださった。なにも要らなかったのに、行ってしまった」

「あなたが何者か確かめたい、と仰ったのは、伊藤先生なんです」

「え?」

「どうしてよりによってわたしの前に現れたのか、全然わかりませんでしたけど……それくらい、心残りだったんですよ。あなたのこと」

 それを聞いて、彼女は嗚咽を漏らした。

「お父さん」

 美の女神の垂らした衣に、ひっかかって。

「行ってしまったのね」



 低気圧が通過したらしい。

 ちらついていた雪が止み、不思議と空気も軽くなった気がした。

「満足しましたか」

 わたしは彼に話しかけた。

 駅に戻る途中、大通りの信号待ちをしながら、いつのまにか隣に立っていた彼に。

 彼は何も言わなかった。背中を丸め、いつでも絵筆を握っていた手を所在なくポケットに突っ込み、一張羅の背広を着て、並んでいた。もうここにいない人間であっても、記憶を引っ張り出すと自然と一張羅を着ていることが多いのが、おかしくもあり、また当然のことのようにも思われた。

「はは、今回の事件のせいで、〈境界〉の師父試験を受けそこなってしまいましたよ。いや、そんな恩着せがましいことを言うつもりは全然ないんですけど、スウェーデン支社、行きたかったなって……」

「百合子さん、ありがとうございました」

 伊藤炎斎は、ぼそりとそう言った。

 それ以上に言うべき言葉が見つからないと、そういう声音で。

「……死んだら、どこへ行くのでしょうね、先生。最もあなたは、これからですけど」

「ご存知ではないんですか?」

「残念ながら。わたしはまだ死んだことがないもので」

 眼鏡のフレームをくいとあげながら、街にばらまいてきた、失ったわたしのかけらたちのことを思い出していた。もう見つからない自分の記憶たちのことを。人ならざるものだった伊藤美子が消えた今、伊藤炎斎のことを真実傍で見てきたものはもう誰もいないのだった。それを、自分に置き換えて、少々申し訳なく思っていた。もう死んだ人間にそんなこと、考える余裕なんかないだろうか。もう誰も自分のことを覚えていないだなんて?

 わたしと先生の逆隣に同じく信号待ちのサラリーマンが立ち止まり、ひとりで喋っているわたしに気づいてぎょっとしたように間を開けたのを感じた。

「人は、死んだら、頭の中に」

「え?」

「残された人々の記憶の中に、行くんじゃないでしょうか? できれば、そうありたいものです」

 それを聞いて、一瞬呆気にとられ、その後、わたしは微笑んだ。

「さすが。ではあなたはきっと、永遠に生き続けますよ。新都国立美術館にあの絵が飾られている限り」

 視界の端に青信号をとらえて、わたしは歩き出す。彼はしかし、立ち止まったままだった。こそこそと自分を抜き去っていくサラリーマンの背中が見えて、すこし愉快な気持ちになった。

 美はすべてを凌駕する。一瞬であり永遠。

「あなたもまた、時を止めたひとりというわけだ」

 はるか遠い曇天の隙間から、陽光が天からの階のように降り注ぐのを、目を細めて眺めた。それはまるで梯子のように見えた。今日のような日にはぴったりの。

 信号を渡り切った後で振り向いたが、彼の姿はもうどこにも見当たらなかった。それでよかった。死者はいつも突然現れて、突然去っていく。

「『それは、創造によってしか、できないことなのだ』」





(本作品はフィクションであり、実在の個人・団体などとは一切関係がありません)

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北斎の梯子 有智子 @7_ank

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