水に溶ける

まめつぶ

水に溶ける

 私は、あともう少しでいなくなる。いなくなるというと、引っ越すだとか、そういうことを考える人もいるかもしれない。でも、そういうのではなくて、ここにいながらにして、いなくなる。少なくとも、私の家族や、友人とっては。そして、彼にとっても、いずれ。



「水に触れると体が透明になっていく病気です」

 シャワーを浴びているとき、ふと違和感を感じて下を見たのが始まりだった。

「世界的に見ても数例しかない上に、わかっていることといえば体が透明になっていくという経過のみで…」

シャワーのお湯に、茶色でもない、赤でもない、オレンジでもない、それこそ肌色というしかないような色が細い線となって幾筋も混ざっていくのが見えたのだ。

「簡単に言うと、個体である体が水に触れることで液体となっていく病気です。体の色が流れ出て、人の目には見えなくなります」

 医者は本当に、本当に簡単に言ってのけた。

 私の体は、あともう少しで透明になる。



 ああ本当に、こんなことってあるだろうか。水に触れてはいけないけれど、ずっとお風呂に入らないわけにもいかない。どういうことか、汗は影響が少ないようだけど、空気中の湿度もあるし、突然の雨に降られてしまうことだってあるだろう。私の体から、どんどん色が落ちていく。夏の日焼けが気になるお年頃。将来はシミになるのかしらと心配していたのに、その影もどこへやら、だんだん白くなっていく肌に現実味はとても感じられなかった。

 医者も私の病気に困り果てていたけれど、調べられることはとことん調べてくれた。まあとことんと言っても、病名をググって数件、出てくればいい方だ。わかったことといえば、透明になってからも少しの間は生き続けられるということだった。色が完全に落ちて透明になっても、最初はまだ実体がある。ある程度硬さを保った固体のため、声帯を使って意思疎通ができるらしかった。その後も病気は進行していく。やがて透明な液体のようなものになるが、その時点でもパソコンのキーボードをタイピングすることができるということだった。だから、世界中で数少ない記録もここまでは残すことができている。

 まだ体に色のあるうちに病院に何度か通い、医者からそう説明を受けた。受ける度に信じられないのに、白くなる体を見て確信させられていく。私は、水に溶けていく病気。



 家族や友人、付き合って長い彼にも、病気のことを言わなければならなかった。家族は悲しみ絶望し、友人は信じられないと言って少しずつ離れていった。友人と同じように、彼にも離れてほしかった。

「最後まで、そばにいるよ」

何度別れを切り出しても、いくら八つ当たりしても、彼はいつも同じ調子でそう言った。

 彼は、おおらかで、穏やかで、優しくて、頭のいい人だった。病気のことを彼は調べてくれて、できる限り理解してくれていた。彼のおかげで、どうして自分だけがという不安や病気に対する怒りはいくぶん和らいだように思えた。

「色が完全になくなって、僕には見えなくなっても、少しの間は話せるみたいだね。僕は君の声が好きだから、いつでも話しかけて。たくさん、話をしよう」

体がうっすら透けてきた頃、彼は私にそう言った。でも、お風呂やトイレまでついて来ないでね、なんて笑っている。一緒に、会話するときの私の位置を決めた。一人暮らし用の低いテーブルの、一人掛けのソファ。彼が働き始めて間もなく買った、私のお気に入りの場所だった。彼は、たとえ見えなくてもそこに向けて話しかけてくれると約束した。

「見えなくたって大丈夫。僕は君の声を覚えているから」




 それから、私は完全に透明になってしまった。でも、なるほど、まだ声は出せた。約束していた通り私はソファに座り、彼と話をした。彼の部屋で、彼が仕事から帰ってきたら玄関へ走る(走るということがちゃんとできているのかさえも、もう見えないけれど)。ただいま、という彼におかえり、と返し、彼に抱きつく。彼も、大きな腕でそっと抱きしめ返してくれる。よかった。まだ私はここにいる。そう実感して、いつものソファへと向かった。

「君の声は変わらないね。かわいくて、明るくて」

 そういう彼の方こそ変わらなかった。冷静に私を見つめてくる、気がした。

「うん。これから、少しずつ液体のようになっていくんだね。でも、キーボードが押せるなら、まだしばらく会話はできるね」

君はタイピングが得意だったから、と彼は微笑む。果たして、私がまだちゃんと固体だった頃と同じようなタイピングができるかは疑問だけれど。



 そうしていよいよ、声も出せなくなった。不思議な感覚。私にも、私は見えない。声も出せない。自分で自分を触ろうとしても、なにか固形のものを掴めるわけでもない。でも、自分がまだそこにあるということがわかった。なぜって、だってまだここに、私がいるから。なんだかおかしな理論だけれど、液体になった今はそれがしっくりきた。それに、そんなおかしな理論よりももっと大きな問題があった。それは、この病気だと分かってからずっとずっと、私の心の大部分を占めていた不安。

「これから、君はもっとさらさらになっていくだろう。そして、その後が問題だ」

私が言えなかったその後について、彼がやっと口にした。そう、キーボードも押せなくなってしまったら。つまり、液体となって、その後。

 私はいつ、死ぬんだろうか。

「僕の考えでは」

 しばらく考え込んだ後、彼は言った。

「物体の状態は、固体、液体、そして気体の三つがある。君は今液体になった。この病気が進行性ということを考えると、次は…」

私は、気体になる、のだろうか。

「君は気体に、空気中を漂うものになるのかもしれない。でもここで一つ、疑問がある」

彼はまたしばらく考え込んだ。私はソファでゆらゆらと揺れている。

「液体の君は、その辺に流れたりしていない。見えなくとも触れた感触はまだ微かにあるし、君という存在がまとまったまま、そこにある。つまり」

彼の目が、きらりと私のいる場所へ向いた。

「君は気体になっても空気中に拡散することなく、君としてのまとまりをある程度保ち続けるんじゃないかな」

さすがに、参考にできる文献もないんじゃ根拠のある仮説とは言えないけれど、彼は彼なりの確信を持っているように見えた。

「まあ、それもこれも、僕が話している相手が、君が、まだそこにいるという大前提があるわけだけど。これが、もし君がいなくなったことを信じられない僕の作り出した幻想というならまた違う話になってしまうね」

彼は穏やかに笑った。彼はそのよく働く頭を駆使して、私の存在を証明しようとしているようだった。本当に、優しい人。



「おはよう」

 ある朝、彼が起きてそう言った。それは、見えなくなった私に向けての挨拶で、私も同じようにキーボードを打つ。もうここ最近はお互い癖になっているようなものだった。それなのに。

「あれ、まだ寝てるかな」

彼が一瞬戸惑ったようだった。それは私も同じだった。おはようと、いつもと同じようにキーボードを叩く、はずだったのに。

「まあいいや。準備を始めるけど、もし起こしたり踏んじゃったりしたらごめんね」

そう前置きして彼は仕事へ行く準備を始めた。

「行ってくるよ」

玄関へ漂い、彼を見送った。

 そう、私は漂うものとなってしまった。とうとう。

 兆しがなかったわけではない。最近はキーボードもしっかり打とうとしなければ動かせなかったし、なんだか妙に体が軽い気がした。見えないからもともと軽いも重いも関係ないようなものだけど、それにしても軽くなっていくような。

「ただいま」

 その日、彼は帰ってくると、真っ先にパソコンを覗き込んだ。そして何も示さない画面を見て、納得したように頷く。

「やっぱり、もう打てなくなったみたいだね」

一人で一日中、あれこれと動き回ってみたものの、やはり動かせるものなんてなくて、私は疲れてソファの辺りに漂っていた。ああ、彼はもう私のことがわからない。会話ができないのでは、触れられないのでは、もう。

「でもね、君がまだここにいるのがわかるんだ。どうしてだと思う?」

こちらを見ながら、彼が微笑んだ。その理由がわからず、私はもやもやと揺れた、ような気がする。

「君の匂いが、まだここには残っているんだ」

彼は目を閉じて静かに呟いた。

 最初は色が。次に声が。そして文字さえも、私を表すものがこんなにも無くなってしまっても、彼はまだそこに私を見ていた。



 





 ねえ。気体になった君が、それからさらに症状が進行して、最後には何が残るだろう。それは心じゃないかって、僕は思うんだ。聞いたことあるかい?心は電気信号だっていう説が、世の中にはあるらしい。これは僕なりの解釈なんだけれどね、脳の電気信号が心を形作っているのなら、目に見える体はなくなっても最後に心がそこに残るんじゃないだろうか。気体になってもそこにあり続けた君は、その後心になって生き続ける。その可能性だって、ゼロじゃあないだろう。

 こんなことを聞くと君は、終わりの見えない生に不安になったり絶望したり、恐怖を感じたりするかもしれない。僕は今、たった一つ、それだけが心配だ。

 そんな心配な君を残して去ることなんてできない。病気がわかったとき、君から何度も別れようって言われた。僕も、そうした方が君のためにもなるんじゃないかと思ったことだってある。でも、それでも僕は君のそばにいたい。もし、君が僕のそばにいてくれるというのなら、僕は君の存在を信じ続ける。体は見えなくなっても、君の優しい心がそこにあると信じている。

「だから、いつか来るかもしれない最後のときまで、僕と一緒にいてくれますか。」

ふわり、甘い匂いが近くで香った。



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