知恵の実
言端
知恵の実
そしてことばがうばわれた。
生まれた時から僕は言葉を知っていた。その言葉は発音することができて、文字も存在して、特定の相手と話すことができる、れっきとした言葉だった。けれどもそれは言葉とは呼ばれなかった。僕を産んだ人も育てた人も、僕の声を理解しなかった。僕も彼らの声が理解できなかった。僕だけが持っていた言葉は、箱庭で生きていくのには必要のないもので、僕自身が言葉を棄てるか否かを選びとる前に、大人は僕を棄てる選択をした。
そして僕は今、棺の暗闇で眠りを待っている。
「可哀想に」
僕を包んだ暖かな体温に、最初の反応は天国という推察であった。しかし目を開けてみると、そこにあったのは棺が閉じられる寸前に垣間見えた景色と酷似していて、違うのは視界の中の、浅い空色の一角が柔らかな髪に切り取られていることだった。顔に落ちてきた一房の感触と、それに続く体温が、僕がまだ生きているということを確信させた。
「可哀想に」
耳元で同じ言葉を繰り返し呟いたのは、慈愛のこもった、中低音の少女の声だ。それは電撃が駆け抜けるように、しかし歯車が嵌ったような快楽で僕の中を満たした。今まで人から聞いたことのなかった言葉は、今まで聞いてきたどの言葉よりも自然と、脳に浸みこむ。
生まれて初めて、他人の語る言葉が理解できた。
やっと見つけた、と思った。
言いたかった。それ以外のたくさんの思いとともに、僕は声にしたい言葉が溢れていくのを感じた。僕の言葉は彼女と話すため、ただそれだけのために授けられた言葉だったのだ。
言いたい、言いたい。言いたい。
けれども。
錆びついていた。長年言葉を使うことのなかった僕の唇は錆びついて廻らなくなった糸車のように、言葉を紡ぐ方法を忘れていた。唇も舌も喉も潤って、今すぐにでも動かすことはできるのに、象るべきものが、もうなにひとつ残っていない。飛び立てないことを理解できない言葉たちは、それでも止まることなく僕の頭の中を犯し続け、ついに僕は、無意味な音声を張り上げることでしか言葉たちを追い出せなくなった。僕の出す声は、人の声を超えて音となり、いつの間にかただ静かに僕を見つめていた少女の双眸は慈愛から深い悲しみへと変わった。
僕の音は、僕よりも先に彼女を壊した。それは切り取られた絵画のように鮮やかに、現実味のない色で世界を変えた。とつぜん彼女の顔から飛び散った鮮血。大音声に堪えきれなくなった彼女の耳の奥が裂ける。地面に染み込んで黒くなったそれは、やはりまだ現実味がない。少女は僅か顔を歪めるだけで、苦痛をどこかへ放り去ったかのような眼差しで僕を見る。そうして揺さぶられた音は、今度こそ僕を壊した。
ぱきん。
あまりにも軽い音の、一瞬のち、世界は無音に包まれた。はぁ、と吐き出される自分の無声音を聴いて、痺れた脳髄が元に戻るとともに、僕は身に降りかかる雫がなんであるかを理解した。地面を黒く、少女の衣を赤く染めあげていくのは、僕の血だ。喉が裂けて、天に飛び散った僕の血が還ってきた。それはほんの数秒のことであったけれども、僕の瞳を潤すには十分であった。
かなしい。ただ、そう思う。
僕の言葉は、ただ一人の運命の人とだけ通じあえる至宝だったはずだ。血塗れになるのは僕だけでよかったはずだ。最初から知らなければ、あるいは特別なものなんかでなければ、平穏だった。なにも手に入らない代わりに、失うことはなかった。腐りきれず、食べられもせず、熟したまま揺れるだけの林檎を思い出す。宙ぶらりんな僕の言葉は毒になるしかなかったのだろうか。答えはない。
右頬に感じる冷たい土と、左頬に感じる手の暖かさが融和して僕を塵に変えていくようだ。目の先に小さく、転がり落ちた林檎が映る。血塗れの懺悔を抱えて、なお、僕が生まれ変わるまで、せめて彼女には僕らの言葉を守ってほしいと、僕は思った。
そしてことばはまもられた。
【了】
知恵の実 言端 @koppamyginco
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