魔王
人の気配を感じて、彼は重いまぶたを開く。
気分は最悪といってもいい。何年も前の事なのに、まるでつい先ほど傷を負ったかのように、失った両足と右腕が焼けるように痛む。
ダレ……ダ?
暗闇のその先にいる、一人の男をじっと見据える。光一筋入らないその部屋でも、彼はその招かれざる客の姿をはっきりと視ることができた。
暗い青の髪、金の瞳、そして、銀灰色の翼……。
アア……オマエ……ハ……
男が『誰』であるかを確信した瞬間、自然と、口元に笑みがうかんだ。
溢れる歓喜と高揚感、そして、悲哀と憎悪。
相反しながらも、高ぶる気持ちが止まらない。
マッテ ……イタヨ……
先ほどまで苦しんでいた痛みを忘れ、彼は男にその先の無い腕を伸ばした。すると、部屋に満ち満ちた「闇」が集束、「人」の手足とは似ても似つかぬ禍々しい手足を形作る。
ふらり……と、彼はゆっくりと立ち上がった。痛みと気だるさは相変わらずで、少し動くだけで呼吸が乱れる。
それでも、彼はゆっくりと男に近づいた。
ツカマエタ
「ガハッ」
彼と男の間にはまだ距離はあったが、突然男がのけぞった。男の首には触れることができない「闇」が絡みつき、苦しそうに己の首を抑え、掻きむしっている。
イイ気味ダネ
男を見下ろし、彼は微笑む。男は苦悶の表情を浮かべながらも、ジッと彼を見上げた。
この男は、「彼」の大切な人間……妻と主人を彼から奪うきっかけを作った張本人。
男の事情など知らない。ただ、その「事実」だけはどう足掻いてもひっくり返らないし、許せない。
だから、こちらを「勝手に」値踏するような、この視線は気に入らない。
かすかにムッとした彼は、男に絡みつく闇に力を込める。それまでミシミシと悲鳴をあげていた男の首が、バキリと大きな音を立てた。
だらり……と、力を失った男の身体が崩れる。しかし、まとわりついた闇は、男を離さない。
コノ程度デ終ワラセテヤルモノカ
彼の腕を形成する闇が、形を変える。それは、鋭く大きな刃となって、男の腹部を切り裂いた。
ツンっと、彼の顔に飛び散った男の血液が、彼の鼻腔を刺激する。とたん、長く忘れていたある感覚と欲求を彼は思い出した。
アア……腹ガ、減ッタナ……
彼は乾いた唇を舐めた。切り裂いた男の腹部に左手をつっこみ、男の内臓を引きずり出す。そして、躊躇うことなくかぶりついた。
口の中に、なんともいえない刺激が広がる。まるでマタタビに酔う猫のように、彼は恍惚とした笑みを浮かべた。
彼は、「その日」の数年前からアリストリアルの総督となり、かの地に妻子と共に赴任していた。
命じたのは彼の主人。大切な彼女と離れることは心苦しかったが、彼女の言葉を否定することもできず、不安を口にすることもできぬまま、着任していた。
そして、「その日」は訪れ、彼の不安は現実のものとなる。
同盟国であるクシアラータの反乱と攻撃。それにより、彼の母国ラディアータは壊滅。彼の主人であるイリス=ラジスティアの戦死……。
同時にアリストリアルも攻め込まれ、彼は妻子共々囚われ人となった。
そして、忌まわしく屈辱的……あっさり処刑されたほうがまだマシとも思えるあの無意味な拷問と、数人の男による、自分への陵辱、妻の自害……。
そして……。
「目が、覚めたか?」
自分の間近にある顔に驚き、ひぃっと彼は声をあげた。
いわゆる「姫抱き」の状態で、彼は男に抱えられていた。細く男性にしては小柄な身体に似合わず体力があるのか、はたまた痩せた彼が軽すぎるのか……男はスタスタと、夜明けの近い回廊を歩く。
長い癖のある銀の髪に、銀の瞳……色こそ違うが、男は自分に……否、自分の若い頃にそっくりだと、彼は思う。
「……どうした?」
眉をひそめ、その男は彼に問う。
「いえ……あの……その……驚いただけで……」
しどろもどろで答えながら、彼は状況を把握……しようとして、思い出した。
ぐったりとうなだれる彼に、男はもう一度、「どうした?」と問う。
「オレ……また、やってしまったんですね……」
彼は、自らのおぞましい行為に、身震いをした。同時に吐き気も感じ、左手で口を抑える。
「気に病む必要はないと、いつも言っている」
そんな彼に対し、男は実に淡々と答えた。
「しかし!」
「捕食者が対象を食した。……ただ、それだけのことだ」
しれっと言い放つ男に、彼はぎゅっと、唇を噛む。
「だけど父上!」
ふと、男が歩みを止めた。
「何度も言うが……我はそなたの父ではない。確かにこの肉体の元の主はそなたの父なのかもしれぬが、それこそ、捕食者の我がそなたの父の魂を喰らい、そのまま肉体を使っているにすぎぬ」
「……相変わらず、嘘が下手ですね」
顔に、書いてあります。苦笑する彼の言葉に、男はふいっと、顔を背けた。
「どう思おうと、事実は変わらぬのに……」
好きにせよ……男は無表情ながらも不機嫌そうに、再び歩き始めた。
クシアラータに攻め込まれたアリストリアルだったが、状況は予想外の方向に進むこととなる。
約四十年前、人類を絶滅寸前にまで追い込んだ『妖魔』と交わされたある約束。
ラディアータの皇女を妖魔の王の花嫁に差し出すことで人類側が得た、仮初めの平和。
約束を反故にされた妖魔……否、妖魔の王と、彼に嫁いだ皇女自らが、大量の妖魔を率いてアリストリアルに侵攻し、かの地をクシアラータの勢力から奪還。かつて滅んだアリストリアル帝国の再建を宣言するとともに、鎖国の道を歩むこととなる。
かの地に生きるヒトは、妖魔に生気を提供する義務を持つかわり、強大な力と生命力を持つ妖魔に守られ、妖魔は決してアリストリアルの民に危害を加えてはならず、クシアラータの侵攻から全力で守る義務を持つ。
そして、ヒトと妖魔、双方の主として君臨する皇帝。それは……。
「気分はいかが?」
あれから、男に別の部屋に運ばれてしばらくして……日が昇るとほぼ同時に、彼の元に女性が訪ねてきた。
「あまり……」
正直に、今の気持ちを彼は答えた。そんな彼に、女性は優しく頬ずりし、幼子をあやすように頭をなでた。
「大丈夫。あの子は生きてる。時間はかかるけど、ちゃんとジュテドニアスは再生、回復するわ」
ぎゅっと自分を抱きしめる女性の行為に、彼は思わず苦笑する。妖魔となり、成長の止まった彼女よりずいぶんと老けてしまったが、彼女にとって、自分は別れた当時と同じ……赤子であるらしい。
視力がない彼女からすると、成長した自分が想像しにくいのかもしれない。
「ジュッドには、本当に悪いことをしました……」
自分が自分でなくなるような感覚……否、「あれ」もまた自分であり、主人や妻を失った怒りと悲しみの感情を持ち合わせている自覚もちゃんとある。ただ、暴れる本能を抑える理性が、歳を重ねるごとに弱くなり、完全に本能を押さえつけることができなくなってきている。
「ねえ、母上」
「なぁに?」
彼の言葉に、女性は笑いながら問う。彼は小さくため息をはき、呼吸を整え、そして……。
「ジュッドに、「ありがとう」と、伝えてください」
とても複雑ではあるが、自分の理性が、あの男のおかげでかろうじて繋ぎとめられているという状況はわかっている。
そして、どんなカタチであれ、まだ、ヒトを守れる立場でいれることも……。
そのことは、素直に感謝している。
わかりました。優しく頭を撫でながら、女性はにっこり微笑んだ。
ワタル=セレニタス。
ラディアータ武帝イリス=ラジスティアの従兄であり、皇位継承権第五位……イリスの子供達の所在がわからない現在では、最もラディアータの皇位に近い男。
そして、妖魔たちが担ぎ上げた、新政アリストリアルの現皇帝。
クシアラータや距離を置く他の国からは、妖魔に魂を売り、妖魔を従える存在として、恐怖の対象として彼を呼ぶ。
「魔王」と……。
精霊の子/魔王 南雲遊火 @asoka4460
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