第46話


 扉のノックはしなかった。鍵がかかっていないことは分かっている。

 部長は彼のいる部屋に入った。

 窓際に行き、カーテンを開ける。

 月に照らされて中庭の木々の姿が良く見えた。


「毎日ここに来てたときは、カーテンをとりあえず開けるのが俺の仕事だった」

 話しかけても、頭に大きな傷のある彼が反応する様子はない。


「ごめん。あんな別れ方したのに、まだ死んでなくて」

 部長は照れくさそうに頭を掻いた。

「なんか、俺、もうちょっと死なないみたいなんだよね」


 部長は返事がないことを確認すると彼のベッドの足下に腰掛けた。

「山口さんがさ、もう少し“オマケの人生”を楽しみなさいって、解放してくれたんだ。気が利いてるだろ?」

 彼のとは別の、窓側に置かれた空のベッドを見つめる。

「シズカはツヨシと一緒に山を下りたよ」


「あいつの兄貴はよく泣くな」

 軽くため息をつく。

「でも、妹が死んだときくらい泣いて良いことにしような」

 

 部長はしばらく目を閉じていた。



「おまえさ、“カッコウの巣の上で”っていう映画知ってるか?」

 思い出したように部長が彼に問いかける。

「その映画の最後で、インディアンの患者が、床の噴水を投げて窓を叩き割るんだ」

 ゆっくりと立ち上がり、彼女がいつも座っていた窓際のロッキングチェアに近づいた。

「こんなふうになっ!」

 そういうと、ロッキングチェアを掴んで窓の方に放り投げた。

 大きな音を立てて、ガラスが四散した。

 警報装置のベルも鳴らないし、看護師も飛んで来ない。

 夜の湿気を帯びた冷たい空気が入り込んできた。

 

 昨日の大雨が嘘みたいに静かな夜だ。

 虫の鳴く声だけが響いていた。



「それから、脱走する前に、手術で口も利けなくなった友達を哀れんで、枕で口を塞ぐんだ」


 部長は彼の顔をじっとみつめた。


「おまえはどうしたい?」

 彼女のベッドに置かれていた枕を手に取る。

 彼から返答はない。


 彼のすぐ脇に近づいた。


「俺はこうしたい!」

 部長は枕を投げ捨て、彼を肩に担いだ。

 

「あのインディアンみたいに格好良くないけど、俺はおまえを見捨てない」

 そう話しかけると部長は彼を肩に担いだまま、窓ガラスを抜け、中庭へゆっくり歩き出した。

 

 風が吹き、中庭の木々が鳴った。

 部長と肩に担がれた彼の姿が遠くなり、闇に紛れ見えなくなっていく。


 ベッドの下から、一匹の犬が這いだしてその背中を追いかけて行った。 

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α空間の狂ってない彼女 @mutuiw02

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