第4話
「ただいま」
ずっしりと肩に重くのしかかる鞄を下ろしながらいつものようにつぶやけば、すこし間をおいていつもどおりのあの、ややかすれ気味で間延びした「おかえり」の声が返される。
「宅急便、受け取ってあるから。あと、手紙がいくつか届いてる。テーブルにまとめてあるよ」
声の主に導かれるままにリビングへと歩みを進めれば、つけっぱなしにされたままのラジオのニュースの声に混じって、からん、と澄んだ高い音が耳に届く。
「ああ、おかえり。寒くなかった?」
ドアを開けてすぐさま、卓上に置かれたガラスのボウルを目にした途端、思わず安堵のため息を洩す。その中身は綺麗に空になっている。
「食べてくれたんだね、ありがとう」
「礼を言われる筋合いはないけれど」
銀のスプーンを手にしたままぽつりとそうつぶやくと、すぐさま目を逸らされる。おきまりのそんな仕草にもすっかり慣れてしまっているあたり、すこしばかり情けなくもなるのだけれど。
「そのまま出しておいてくれればいいのに」
「味気ないでしょ、それじゃあ」
そのまま口にするよりは、幾分かはよりカロリーを取れた方がいいに決まっているはずだし。
答えながら、かけらひとつも残さずに綺麗に食べ尽くされた花びらのゼリー寄せで満たされていたガラスボウルをそっと手に取る
肉や魚料理に添えれば、当然のごとくトッピングの花びらだけを口にしてメインディッシュには口をつけようとしない。サンドイッチに挟んでみれば、綺麗にはがした花だけを口にして、残された無残なパンの処理係に回される羽目になる。
―すこしくらいは食事らしい食事を、と創意工夫を凝らしたうえで苦肉の策として選んだ手段がこれだった。
「パティシエにでも転職するつもり? あんがい流行るんじゃないの」
「冗談じゃないよ」
吐き捨てるように答えながら、冷たい流水で食器と手を洗う僕へと続けざまに、冷ややかな言葉は投げかけられる。
「あんがい根気強いよね、あんたも」
「……凝り性だったみたいで、こう見えて」
知ってるでしょ、そのくらい。皮肉まじりにつぶやく言葉は、叩きつけるような水音にあっさりとかき消されてしまう。
「電話があったんだよ、大学から」
血管の透けて見えるようなほっそりと頼りない白い指をかかげるようにしながら、彼は続ける
「こないだの論文が選考を通ったんだって。これでまた暫く生活には困らないかな。あと、講演の依頼も来てるらしいよ」
「受けるつもり?」
ぴくり、と僅かに眉根を顰めるようにして尋ねるこちらへと返される言葉はこうだ。
「あんた以外の人間と顔を合わせるチャンスかなって」
「僕の顔なんてほとほと見飽きたって?」
「……言うようになったよね」
うすい唇をゆがめて告げられる言葉に、ぞわりと胸の奥を痺れさせられるような錯覚をおぼえる。
「あなたには勝てないけれど」
「勝ち負けだなんてナンセンスな」
冷ややかな言葉は、鼓膜をやすやすとすり抜けて胸の奥へとにぶく突き刺さる。
「打ち合わせがあるんだって、来週木曜の二時」
「スーツならクローゼットの右奥だよ」
「モーニングコールとリマインドは?」
「僕じゃなくてSiriに頼んで」
「なんのために居るつもり?」
わざとらしい挑発的な言葉に、それでも心はぶざまなまでにきりきりと軋む音を刻む。
「……着替えてくるね、それから食事の支度にとりかかるから。何か食べたいものは?」
「あんたの爪」
「悪い冗談はよして」
はぁ、とわざとらしくため息をつくこちらへと投げかけられる、いつもどおりの無彩色の言葉はこうだ。
「アスピリンならまだあるよ、いる?」
「お気遣いなく」
乱暴に手を拭い、ガチャリと冷たい音を立てるようにしながらドアノブへと手をかけるこちらの背を縫い止めるように、彼は尋ねる。
「ねえ、ひとつ聞くけど」
「なあに」
「あんたなら食べられるって本当にそう言ったら、叶えてくれるつもりはある?」
「何言って」
僅かに声を震わせてみせるこちらを前に、悪ふざけめいた声色がかぶさる。
「信仰心を確かめて見たくて」
「悪ふざけはよして」
ぴしゃりと跳ね除けるように答えるのと同時に、わざとらしく音を立てるようにしてドアを閉める。
―言い返す言葉が他に見つけられない理由だなんて、そんなの。
「とても頭が良いんです。それ故にいつも孤立していて。――いつだって平気なフリをしたがるのに、本心はそうじゃない。そうやってすぐに自分を追い込んでしまうタイプなんです。あとはそうですね……興味があることとないこととの温度差がすごく激しいところがあります。総じて、扱いにくいと思われがちなようです。
僕たちの関係性ですか? 特別なことはありません。なにひとつ。ええ、そうです。もとを辿れば古い顔なじみで―いまではそうですね……強いて言えば利害関係の一致です。それもいまではどうなのかわかりません。今回のことだって、元凶を担っているのは僕ですし。いえ、良いんです。ありがとうございます。ええ、気をつけますね。共倒れにでもなれば元も子もないでしょう?」
台詞かなにかを口にするように上滑りしていった言葉のひとつひとつを思い起こし、むなしくため息を吐き出す。
自らの行いすべてが正しくないことを知っている。本当にすべきことが何なのかなんてことだって。終わらせるべきなのだ、きちんと手を離して。それなのに。
(この手はきっと、花の根を腐らせてしまうだけなのに)
冷たくなった指の先をじっと目を凝らすように見つめながら、ふかぶかと息を吐く。
視線の先、すっかり見慣れてしまったインクで汚れた節くれた指先に、花屋で出会った青年のそれの姿がいつしか重なる。
無数の切り傷だらけの赤いあの指―花々ひとつひとつを慈しむようにたどるあの手つきは、どれだけたくさんの花をそれにふさわしいように、誇らしく咲かせてきたのだろう。
「花の、苗」
思い出したように、ぽつりと僕はつぶやく。そう、あの時いちばんに口にした言葉がそれだ。
育ててみたいと、そう願ったのは本当だった。
何かできることがあるのならと、真っ先に思いついたのがそれだったから。ただの自己満足に過ぎないことなどわかっていても、それでも。
(ああ、行かなくちゃ)
ぽつりと胸のうちでだけつぶやいたその途端、わずかにあたたかな思いがこみ上げるてくるのにただ身をまかせる。
不躾に投げかけた問いかけに真摯に答えてくれた彼の姿を目にしたあの時から確かに、僕の心の幾ばくかはあの場所、あの時間に縫いとめられたそのままなのだ。
咲かせよう、きっと。
なんならこの部屋いっぱいになるまで。彼の欲しがる花を幾らでも惜しみなく与えられるように。
(そのためには君の指先が必要なんだ、きっと。君みたいになれないのは知ってるよ。花にとっての僕は死神みたいなものだからね。でも、いつまでもそこにいたいわけじゃないんだ)
ぽつりぽつりと浮かんでは消えていく言葉を目で追うようにしながらベッドの上へと投げ出した部屋着へと手を伸ばそうとした、その時だ。
「ねえ、居るよね? よかったらドア越しでいいからこのまま話せる? 謝ろうと思って。さっきのこと。別にご機嫌とりのつもりはなくて――あんたがそう思うんならそれでもいいけど」
頼りなげな言葉が耳に届いたその瞬間、ひび割れた胸の奥では名前も知らないちいさな花が、音も立てずに軽やかに花開く。
「……らしくもない言い方しないでよ、調子が狂うんだけど」
精一杯の無愛想を貼り付けて答えながら、いつもよりもすこし乱暴な手つきでよそ行きのシャツを脱ぎ捨てる。
(ねえ、また行ってもいいよね? 花の咲かせ方を教えてほしいんだ。)
囁くようにやわらかに胸のうちでそう答える。ただそれだけで、地面に縫い付けられたように重く塞がったはずだった心はふわりとやさしく舞い上がる。
着古したパーカーに袖を通すかたわら、ドア越しに投げかける答えはこうだ
「ありがとう、わざわざ。気にしないでいいよ、わざときつく当たったのは僕の方だからね。話したいこと、他にもあるんだよね? だったら食事の時でも構わない? 君が食べられるものにするから。きょうはスープにしようと思うんだ、君の好きな花がのっていればすこしは食欲も湧くでしょう?」
ドア越しに、息を飲む音がかすかに聞こえるのを確かめたその時。きつく閉じたまぶたの裏でまたひとつ、名前も知らない花のひとひらがゆらりと旋回し、胸の奥底へと舞い降りてくるのを感じる。
ああ、この花はなんて名前なんだろう? 君に聞けば教えてくれるのかな。
それよりも先に、聞かないと――あなた自身の名前を。
心にそうっと蓋をするような心地で、握りしめた指先にかすかに力を込めてみる。
冷え切ったはずの指先にはいつしかかすかに赤い火が灯されていて、そのさまはまるで、花弁を落としたかのようにも見える。
ごくりと、と息を呑み、ドア越しに待つ彼へと投げかけてみるのはこんな言葉だ。
「ねえ、花を咲かせる方法って君は知ってる?」
Dead Flowers 高梨來 @raixxx_3am
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