第3話
初めに目に留まったのは、指先だった。
チャコールグレイのニットの袖口から顔をのぞかせたほっそりとしなやかな指先は、弦楽器を爪弾くような滑らかさで手にした雑誌の頁をめくる。
骨ばった指先、ロングカーディガンの袖口から僅かに姿を現したぱりっと糊のきいた白いシャツのカフス。
尖った骨の形がいやに目立って見える華奢な手首には、どこかアンバランスにその存在感を主張する古めかしい腕時計が巻きつけられている。
どこか不可思議な引力に誘われるまままに視線を辿るようにすれば、いつか目にしたのと同じ、思慮深さの奥に微かな光を宿したあのまなざしに出会う
――ああ、あの時の。見間違うはずもない。
ばつの悪さを隠せないままに視線を泳がせるようにして遠ざかろうとしたその瞬間――切れ長の瞳を縁取る睫毛を震わせるかのような繊細な仕草とともに、くすぶった冷たいまなざしは静かに僕を捕らえる。
まるで、カメラのシャッターを切る、その瞬間にもよく似たそんな確かさで。
「あぁ、」
如何にも彼らしい、縫い止めるかのような繊細な瞬きと共に告げられるのは、ひどくありきたりなこんな一言だ。
「こんにちは、奇遇ですね」
「――ええ」
片手に持った本の束を、滑り落としてしまわないようにと、きつく握りしめながら僕は答える。
「……本当は、少し不安でした。答えてもらえるのか」
「どうして」
「――さぁ」
呆れたように薄く笑うその表情には、どこか不可思議な無邪気さが漂って見えるのだから不思議だ。
「あれから、また」
ぱたり、と音を立てて本を閉じるようにしながら、彼は続ける
「あなたの店へいつ行こうかと、そう考えていて。それなのに、不思議と足が動かなくて」
夜空に浮かぶ月のような、なだらかに弧を描くカーブを口元に浮かべながら彼は答える。
「だから嬉しかった。こうしてまた、あなたに出会えて」
「……お売りできるものはありませんよ、きょうは」
「そんなつもりないのに」
くすり、とどこか得意げに笑ってみせる姿に、ぶざまなまでに心をくすぐられてしまう。
「……それで」
遠慮がちに目を伏せるようにしながら、僕は尋ねる。
「同居人の方はそれからどうされてるのかを、お聞きしても」
「……元気にしています」
力なく囁くような口ぶりで、彼は答える。
「良くも悪くも、としか言いようがなくて。情けないなとは思うんですが、こればっかりは。僕にできることなんて、見守ることくらいしかないので」
「充分じゃないですか、それで」
「そうかな」
「あなたが気に病む必要は少なくともないはずでしょう」
「――僕のせいでも?」
自嘲めいた響きが漏らされた途端、僅かに音も立てず空気が震えるのを肌で感じる。
「……ごめんなさい、おかしなことばかりを」
「いえ」
言葉を遮るように、囁き声に被せるような調子で僕は答える。
「話したいと思ってくれたのなら、それでいいんです。聞かせてもらえるだけで、じゅうぶんだから」
「……優しいんですね、あなたは」
「勿体ないお言葉です」
答えながら、目に見えない澄んだ棘がにぶく胸の奥を突き刺すかのような、そんな錯覚に襲われる。
わざとらしく目をそらすように壁時計を一瞥したのち、僕は答える。
「引き留めてしまってごめんなさい、帰らなくても大丈夫でしたか?」
「……あぁ、」
きつく握り込むようにした本の束をいまいちど持ち直すようにしながら、彼は答える。
「ごめんなさい、こちらこそ気づかないままで」
お得意の、精一杯の愛想笑いを浮かべるようにしながら告げる返答はこうだ。
「よろしければ、また。お待ちしておりますので」
「ええ、もちろん」
綺麗な弧を描く口元を目に焼き付けるように、そうっとまばたきをする。
「……では、」
僅かに唇を震わせるようにして答えたのち、くるりと踵を返す。これ以上、ぶざまな感情を捨て置いてしまわないようにと。
(また会いましょう)
なんて甘美な響きだろうかと僕は思う。それだけで、花売りの職務に就いたことを誇らしく思うほどだ、なんて言えばなんて大袈裟な話だと笑われるだろうけれど。
――花びらのように千切れたふたつの影は、こうしてまた遠ざかっていく。束の間の再会の儚い約束だけを残して。
(待っているから、いつでも)
ぽつりと胸の奥でだけ、かすかな声で囁く。
待っている。ただそれだけしか出来なくとも、それが僕にできるすべてだから。
たとえそれが、あなたを待つ「誰か」のための訪問に過ぎないのだとしても。
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