第2話
「エディブルフラワー?」
「ええ、なんでも苗があれば欲しいと言われて。ほら、すこし前に園芸雑誌にも取り上げられていたでしょう? その影響かとは思うんですが」
定期購読している誌面の片隅を思い起こしながら、取り繕うように僕は答える。
『同居人』と彼の語る――おそらく特別な間柄にいる相手に食べさせるためだ、という事実に触れずにいたかったのは確かなのだ。
ぎこちないこちらの口ぶりに気づいたかのように、薄く笑いながら告げられる、雇い主からの返答はこうだ。
「まぁ、考えてみても悪くはないんじゃない」
「要はハーブや家庭菜園と同じでしょう? レシピ本なんかも合わせて置いておけば、物珍しさもあって目にとまる可能性はあるわけだし。ただ、いまからの時期に合うものがあるかどうかだけれど。まぁ、前向きに検討してみるとしか」
「……ありがとうございます」
ぽつり、と吐き出した言葉を前に返されるのは、もうすっかり見慣れてしまった気の置けない笑顔だ。「また来て欲しかったのね?」
「……」
答えられず口をつぐむこちらを前に、すっかり手慣れた様子で差し伸ばされたすこしかさついた掌は、ふわり、と掠めるようなやわらかさで僕の髪をなぞる。
敵わないのだ、と、そう何度もこうして思い知らされるのだ。無力感ではなく、ただありのままの愛情と敬意を込めて。
「いい報告がしたいものね」
「まぁ……」
聞かせてほしい、とそう願う気持ちももちろんある。あの花がどんな風に食卓に上ったのか。『同居人』はそれを喜んでくれたのか。
うつむいたまま言葉を探す僕に、続けざまに告げられる台詞はこうだ。
「―聞いてもいい? どんな人だったのかって」
「ええと、」
思案に明け暮れるこちらを見透かしたかのような一転した明るい声色に、相反するように心の内ははすぶった色で煙る。
頬の上を滑らかに滑りおちるやわらかそうな細い髪、使い込まれた様子の長財布を取り出すほっそりとした指先の滑らかな動き、ちら、とこちらを遠慮がちに伺う思慮深いまなざし、花びらを落としたようにほのかに赤い唇と、それを震わせながら紡がれる、湖面に響き渡るささやきのような静かな声。そのすべてが鮮やかな色を落としていった、そのはずなのに――
それらひとつひとつを繋いでいったその先で例えられる言の葉は、なぜか僕の中には浮かび上がらない。まるで、花びらを残さず落としてしまった朽ちかけた茎のように。
「……なんて言えばいいんだろう」
首を傾げたまま、それでも力なく僕は答える。
「寂しそうに見えた―なんて言えば、無礼なのかもしれないけれど」
「……そう」
やわらかなその響きは、隠しきれないためらいすべてを静けさの中へとそっと溶かして行く。
「それを見つめてあげるのも、大切な仕事だから」
答えながら、荒れた指先は色を変えつつある葉先をそうっとなぞる。
もう一度、引きちぎられた花びらを口元へと運ぶあの仕草を僕は思い返す。
滑らかな指先に誘われるままに飲み込まれて行く花びら、それらを飲み込むあかい唇、咀嚼のために動かされる白いのどの動き―ひとつも無駄を感じさせない、機械仕掛けの人形のような一連の仕草。その不思議ななまめかしさ。
そしてなによりも――手の中の花束に落とされた、冷たい色をたたえたまなざし。あれだけの幾重にも重なり合った感情の色の宿された瞳を、僕はついぞ目にしたことがあるだろうか。
そこに何か絶望めいたものを感じた理由だって、わかっている。
彼の瞳は―決して、目の前にいたはずの僕を映しだそうとはしなかったのだから。
ねえ、あなたはどう思っているの?
答えなど返ってくるはずもない問いかけは、胸の奥の暗い湖へとただ深く沈んで行くだけだ。
「また来てくれるといいわね、ひとまずは」
いつも通りの明るい口ぶりで告げられる店主の言葉を前に、僕もまた、いつものようにお得意の愛想笑いで答える。
それでも見せかけの表情とは裏腹に、唇が紡ぎ出す言葉はひどく冷たくくすんでいる。
「……来なくて済む方が、ほんとうはいいのに」
ひとりごとめいたあやふやな響きで洩らした言葉を前に、軋んだ心をやわらかにくるむような返答がぽつりと僕の手の中へと落とされる。
「お疲れ様、ね」
目を合わさないまま告げられるやさしい響きに、やわらかに心を掬われるのを感じる。
とん、と肩に手を置いたそののち、店主が僕へと告げるのはこんな一言だ。
「留守番ご苦労様、貴重な意見をありがとう。参考にさせてもらうわ。せっかくのお客様なんだから、期待には応えられた方がいいに決まってるもの、ね?」
「……ええ」
唇を震わせて紡ぐ言葉は、自らの鼓膜へと滑らかに落ちて行く。
また会えた時には、花の知識をより蓄えておこう。彼の期待により一層に応えられるよう――この店を訪れる必要が一日も早くなくなることを願うことは、忘れないままに。
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