打ち上げ花火
野沢 響
打ち上げ花火
「もう、やってらんねえよ。ちくしょう!」
花火が上がった。
怒りの花火だ。
のろのろと打ちあがって、俺の頭の上で爆発した。
怒りが、この部屋に降り注ぐ。
兄貴はきっとこの瞬間を待っていたんだ。本当はずっと。
俺と兄貴は三つ違いの兄弟で、特に仲が良いとか悪いとかはなく、普通の兄弟だった。
兄貴は昔から勉強が出来る方で、テストの点数も良かったし他のヤツの勉強も見たりしていた。セイセキユーシューだったから周りからも期待されていた。
俺はといえば、勉強はからっきしだったし、運動も出来る訳じゃなかった。
親はいつも兄貴ばかり見ていた。俺と兄貴を比べて、「何であの子はこうも違うんだろう?」、とか抜かしてた。
中学も二年に上がるとすぐに、俺はガッコーに行かなくなった。行っても兄貴と比べられたし、授業も怠かった。一時間近くもイスに座ってられるかよ!
最初の十五分くらいは起きていられるけど、それ以上はいつも寝落ちした。まわりのヤツらも寝てたし、別に気にならなかった。
それでも、先公は決まって俺を起こしに来た。
若い女のキョーシなんかは見て見ぬ振りをしてたけど、男のキョーシは違う。そいつの性格にもよるんだろうけど、恐る恐る起こす奴からいきなり大声でキレるヤツまで色々いた。
そういうことが続いて俺がガッコーに行かなくなった。
ある日、着信音で目を覚ました俺は近くにあったスマホを掴んでそのまま出た。
「もしもし、この前の件だけどさ」
けど、相手の声は聴いたこともない声だった。
「はあ? この前?」
寝ぼけたまま俺が答えると、そいつは気にもしないでそのまま続ける。
「今度は三万な? それから、写すんならもっと分からないようにやってくれよ? この前、隣のKにばれそうだったんだけど」
三万? ばれそう? 何だよ、それ?
俺は一度スマホを耳元から離した。
「うわっ! マジかよ?」
気付いたら声に出していた。俺が持っていたのは自分ののスマホじゃなくて、兄貴のスマホだ。
俺は居間と廊下を挟んでいるドアに顔を向けた。兄貴はちょうど風呂に入っている。
「何、どうした?」
独り言を聞かれていたらしい。俺はとりあえず、「ああ、分かった」とだけ答えて、着信を切った。
その後は、もうどうしていいか分からなかった。兄貴はまだ風呂から出て来ない。この日は親父もお袋も家にはいなかった。
さっきの会話が頭の中でぐるぐる回っている。さっき写すって言ってなかったか? 何を?
その時、風呂場のドアの開く音が聞こえた。俺は慌てて兄貴のスマホを持ち直して、起動したままになっている電話アプリから今の履歴を消した。
そのまま元の場所に置いてから、俺はさっきと同じようにソファに横になった。
足音が近付いて来る。自分の心臓の音が大きくなっていくのを感じた。
※※※
その三日後、俺は兄貴が出掛けたのを確認してから兄貴の部屋に向かった。階段を上がって左側の部屋だ。
最近、兄貴は親父やお袋からよく金をもらっていた。参考書を買うためだとか何とか言って。
俺は兄貴の部屋に入ると辺りを見回した。机の上に置かれている参考書の数は増えてなんかなかった。本棚や押し入れなんかも見たけど、新しい参考書なんか見つからない。やっぱり俺の思った通りだった。
じゃあ、兄貴はあの金を何に使ってたんだ? 部屋を見ても特に目立つようなものはないし、最近何か宅配便で届いた物もない。
(この前、電話かけてきたあいつ……)
俺は電話でしたやり取りを思い出す。
——今度は三万な――
(あいつに金渡してんのか?)
そこで俺の思考は完全に止まった。そういえば、この前話したやつとの会話は兄貴に言ってない。
「まあ、別にいいや」
俺は充電してたスマホをポケットに突っ込んだ後、家を出た。ダチから連絡が来たからだった。
※※※
俺が家に戻って居間に入ると、兄貴がソファから立ち上がってこっちに近付いて来た。
俺を睨んでから、
「お前、いくら欲しい?」
「なんだよ、いきなり?」
目の前の兄貴はなんだか焦っているように見える。
俺が呆然としていると、
「三日前、俺のスマホに出たのお前だろ? あの日はお前と俺しかいなかったんだから」
俺が黙っていると、兄貴はポケットから札束を出して、俺の前に突き出してむりやり俺に握らせた。
「これはお前の分だ、持っとけ。あと、頼むから父さんと母さんには言わないでくれ」
兄貴は顔を伏せてそう言った。
俺の手に握られているのは三万円。あの電話の男が要求してきた金額と一緒だ。
「へえ?」
俺は顔をあげて兄貴を見る。
「兄貴さあ、あいつに金渡して何してたわけ?」
兄貴の体が大きく震えた。
「お前には関係ないだろ?」
「写すならもっと分からないようにやってくれって言われたんだけど? なんか隣の席のやつにばれそうだったんだってさ?」
自分の口元が笑っているのに気付いた。なんか分かんないけど、気分が良い。初めて兄貴に勝っているように感じているからだと思う。それ以外に理由は知らない。
「なんで……。 なんで、お前!」
兄貴が俺の胸倉を掴んだ時、玄関が開いた。
「二人とも、何してるの?」
居間に入って来たのはお袋だ。買い物から帰って来たらしい。手には買い物袋が二つぶら下がっている。
兄貴が俺の胸倉を掴んでいるのを見ると、
「何してんのよ、ケンカ? ちょっと、お兄ちゃん試験が近いのよ? あんたの相手してる時間なんかないんだから……」
「うるせえ! 試験だあ? じゃあ、兄貴が何してんのか知ってんのかよ?」
お袋は怪訝な顔でこっちを見ている。
「やめろ! お前、母さんの前で……」
その時、また玄関が開いた。今度は親父だ。
なんで、今日に限ってこんな早く帰ってくんだ? いつもはもっと遅いのに。
目の前にいる親父は汗だくだった。なんでか顔色は悪い。ゾンビみたいに青い。
「お前、何てことしてるんだ?」
一瞬、どっちに言ってんのか分かんなかった。
けど、すぐに気付いた。親父が兄貴の方に顔を向けていたから。
「え? 何のこと?」
お袋は訳が分からないみたいで、親父と兄貴を交互に見ている。
「いつからあんな真似してたんだ?」
親父はどんどん俺達に近付いて来た。
「電話があったんだ、学校から。お前のクラスメイトが担任の先生に話したそうだ。お前が試験の最中にカンニングしてると」
お袋は短い悲鳴を上げた後、兄貴を見た。
兄貴は固まったまま、顔を上げようとしない。兄貴の額に汗が滲んでいる。たぶん、暑いからじゃない。
部屋はクーラーの作動している音しか聞こえない。冷たい風が俺に当たる。たぶん、兄貴にも。
「ねえ、嘘でしょ? だって、あんなに勉強頑張って……。なんで、そんなこと」
突然、兄貴は近くに置いてあった丸いパイプ椅子を掴んで窓に向かって投げつけた。
「もう、やってらんねえよ。ちくちょう!」
勢いよくガラスが割れる。その時、誰かの悲鳴が聞こえた。丸椅子は砕けたガラスを浴びながら、そのまま庭に落ちる。
俺は兄貴がブチ切れるのを初めて見た。
こんな兄貴を今まで一度だって見たことはなかった。
親父もお袋も、アホヅラ下げて兄貴を見つめてる。
次の瞬間、兄貴の顔はどんどん真っ赤になっていった。口は閉じられてて、何かを我慢してるみたいに見える。
その時だけ、時間が止まったような気がした。
沈黙が続いた後、兄貴は突然走り出した。
「兄貴!」
俺が追い駆けた時には玄関の閉まる音が聞こえた。
兄貴の後を追いかけている時、川の向こうで何かがでかい音を立てた。驚いて振り返ると、夜空にはこれまたでかい花火がいくつも上がってる。
我に返って兄貴に顔を向けた。俺と同じように、夜空に打ち上がる花火に見入っている。
「兄貴……」
俺は少しずつ兄貴に近付いて行く。
兄貴は生気のない顔を俺に向けている。目なんか死んだ魚みたいだ。
「俺が頑張らなきゃ、お前がギセイになると思ってさ」
「ギセイ?」
兄貴が花火を見ながら、
「嫌だったんだよ。お前まで父さんと母さんの願望押し付けられるの。俺だけでいいじゃん、二人も頑張る必要なんかねえよ」
「……」
「覚えてるか? あの時もこうやって一緒に見ただろ?」
「あの時?」
俺の記憶はゆっくりとガキの頃の自分にたどり着く。確か小三の時だから、俺が九歳、兄貴が十二歳。
じいちゃん
「あの頃は良かったな……。 なあ、俺どこで道間違えたのかな?」
「兄貴……」
「お前はさ」
兄貴に近付いていく俺の足が止まる。
「俺みたいになるなよ?」
「は? 何言ってんだよ? 俺、兄貴みたいに勉強出来ねえもん。ふざけたこと言ってんじゃ……」
言いかけた時、兄貴は怒ったような顔で俺を見てから、
「覚えておけよ。限界が来ると俺みたいになるってこと」
今まで見たこともないくらい、俺を見る目は真剣だった。机にかじりついて勉強している時よりも真剣かもしんない。
兄貴はそう言った後、俺に背を向けて歩き出した。
「待てよ、兄貴! どこ行くんだよ?」
俺が近付いていくと、兄貴は感情のない声で、
「別に、このまま失踪しようなんて思ってない。でも」
「でも?」
「このままじゃ帰れない。学校に行って来る。全部話して来る。お前が電話に出たFのことも。父さんと母さんにそう言っておいてくれ」
俺は動けなくなった。今、何をしなきゃいけないのか分からない。
ぐだぐだ考えてる間に、兄貴の背中はどんどん小さくなっていく。
今頃、親父は項垂れて、お袋は泣き崩れてるのかもしれない。けど、そんなことどうでも良かった。
俺は兄貴に向かって走り出す。
「兄貴!」
俺は兄貴の項垂れる肩を掴んでから、
「俺も一緒に行く。それぐらい良いだろ?」
振り返った兄貴の顔に血の気はなかった。それでも、俺は必死に兄貴に訴える。
「今度は有名なとこの花火見ようぜ! このへんで上がってる花火じゃなくて、なんとか名所とかそういうところの!」
兄貴は何も言わずに頷いた。兄貴が顔を伏せた時、涙が頬を伝うのが見えた。
その時、アナウンスが最後の花火が上がることを、どこかのスピーカーから知らせた。一番でかい花火が打ち上がる。赤とオレンジの鮮やかな花火が、兄貴と俺を照らしていた。
(了)
打ち上げ花火 野沢 響 @0rea
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