ソーダの中の蒼い空
中原 緋色
ドラゴンと吸血鬼
小瓶に入れた1枚の白い鱗が、サイドボードの上で朝日を反射してきらりと光った。
17年。ふと浮かんだ数字に郷愁のような懐かしさと愛おしさがこみ上げて、小瓶と言うには僕の手には少し大きな硝子製のそれを持ち上げてみた。
片手で包みこめないくらいの瓶に収められた、光を反射していろいろな色に上品に光る鱗。
硝子越しにも感じられるあの人の匂いが、胸の奥を掻き乱した。
それは息をするのも苦しくなるような、甘く胸を締めつける香り。
幾年経ってもあのころのまま鮮やかに蘇るこの感情は、色褪せるどころか年々彩度を増して。
透き通ったビー玉のあの瞳を、思い出す。
細かな泡の浮かぶ、波打ち際の海みたいな、あるいはもっと淡い……そう、炭酸水みたいな。
飲めないんだけどさ。
でもわかる、……ラムネの瓶の色だ。
綺麗なまま切り取られた時間はあのときから止まったまんまで。
好きなのに別れなきゃいけなかった恋って、どうしてこんなに深く心に刻まれてしまうんだろう。
長いこと生きてきたけど、忘れられない恋なんてあとにも先にもあの一度きりだ。
思い出したくなかった。
あんなことがあったから、僕は恋なんてしないって決めたのに。
今でもはっきり覚えてるよ。僕を庇ってくれたキミのその温もりを。
キミはソーダが好きだったね。
夏の早朝、静まり返った家の中に衣擦れの音をたてながら、僕はベッドを飛び下りた。
無造作に括ってもお洒落しているように見える天然パーマの髪は、キミが褒めてくれたからアイロンもかけないんだよ。
窓を開けて、まだ涼しい澄み渡った空気を肺に取り入れてから、きっと1本や2本くらいはあるだろうと思って冷蔵庫の扉を開ける。
お目当ての品はすぐに見つかった。この家の子はみんな炭酸が好きだからなぁ。
丸くないグラスに氷といっしょに入れて、ペットボトルをしまってから、グラスを持ったまま玄関のドアを押し開けた。
朝露に濡れた深緑のなか、やけに皮肉げに透き通る抜けるような青空が目についた。
白い雲を追いかけても、その先にキミはいないってわかってるのにな。
グラスにそぉっと口をつけて、舐めるように中身を飲む。
……やっぱり、痛いや。
瞳の輝きも鱗の煌めきも翼のはためきも飛膜の模様や長い髪の匂いまで、ぜんぶ覚えてるよ。
あの春は僕にとっては短すぎた。
飲み足りないままに走り去っていった青春の後味はきっと群青色のソーダ味。
「……飲み干せない、よなぁ、」
「…………会いたい、なぁ」
思いがけず喉から溢れたか細い願いは、果たして、聞き届けられた。
涼やかな風に、
ばさり、
と 翼を打つ音が交じった。
視線を上げた先には、
どれほど思い焦がれたかわからない、
白い鱗の1頭のドラゴン。
「…………うそ、」
からん、と氷がグラスとぶつかって音を立てる。
僕の初恋はドラゴンだった。
絶滅危惧種の純白のドラゴン。
蜃気楼を掻き消すように彼は人型へ姿を変えて微笑んだ。
「……きみは炭酸が苦手じゃなかったっけ」
「……いつかキミが好きだって言ってたから」
騎士然とした佇まいは、あぁ、懐かしい。
両手でグラスを持っていたところに差し出された白い手袋の手に左手を明け渡せば、手の甲に軽い口づけが降る。
「……傷は平気?」
「……もう痕も残ってないよ」
どれだけ時間が経ってると思ってるんだい、17年だよ、とキミは笑った。
口には出してないけれど、そう思ってることが伝わってくるんだ。
いつかも云ったね。キミはわかりやすいから。
「…………。…………ねぇ、」
キミの声が甘くなる。
きっと今から大事なことを云おうとしてるよね。
キミは甘い台詞を云うとき声色まで甘くするから。
「…………好きだったよ」
「……………………今も、好きだよ」
からら、とグラスのなかの氷が鳴く。
僕の右手にキミの左手が重なる。
仄かな熱を宿した淡い蒼色の濡れた瞳が斜め上から僕を見つめる。
ぎゅ、と右手が圧迫されて、夏の日射しの降るなか唇が触れあった。
それはまるではじめてみたいな、弾けるソーダの味のする口づけだった。
やっぱり、嫌いになんかなれないや。
僕を嫌いになってもいいから、キミをずっと好きでいていいですか。
ソーダの中の蒼い空 中原 緋色 @o429_akatsuki
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