第4話 バラの香り散る空
男は、灰色の空を背に叫んでいた。着ているスーツをぐちゃぐちゃに乱して、座り込む女性の後ろから覆い被さるようにしている。その左手は女性の左手と手錠で繋がれており、空いた右手で女性の首元にナイフを突きつけていた。女性も見たところOLのような格好をしており、雪代の目の前に集まって彼らと対峙する人だかりから察するに、一つの会社の中で起きたトラブルのようだった。
「ねえ、ちょっと」
そんな強烈な光景を観察していると、隣から低い声が聞こえた。あまり声の雰囲気に似合わない、妙な口調を感じる。
隣を見ると、武骨な大柄の男性が、この場にそぐわないラフな服装で立ち上がりながら声をかけている。ひげ面で、レスリング選手のような逞しさである。
「その格好、どうしてそうなっちゃったの?」武骨な男は、少し声を潜めて言う。
雪代は、自分の格好を見渡した。
服装は、薄手の春物のコートに、洒落たデザインのレインブーツ。だが、男が言っている問題はそこではない。
「外見は生前の姿と引き離さなきゃダメって言ったでしょ!」男は潜めた声のまま強い口調で雪代に話す。その一言で、この男の正体が雫なのだと察した。あの女優のような清楚な外見からこの姿になるのは、疑問以上に面白みすら感じる。
しかしその一方で、雪代の外見である。鏡がないから確認しようがないが、今の服装は紛れもなく、生前の自分のクローゼットにあったものたちであり、顔は雪代のものがそのままイメージ化されてしまっているのだ。これも全て、降りてくる時に“余計な事”を思い出してしまったせいであるのだが。
もう今更どうしようもないこととは分かっていながら、取り敢えずは新人のミスということで、雪代は小さな声で一言だけ雪代に謝った。しかしその瞬間、まるで呼応するかのように、耳に響くがさがさした大声が放たれた。
「ごめんで済む問題かよ!? お前らいっつも俺をバカにしやがる。心の底では死んでほしいって思ってるんだろ? …ほら、お前もどうなんだよ!」
男は、雪代ではなく、十数人の社員らしき集団と口論している。社員集団は「早まるな!」「君にはちゃんと居場所があるから」などとお決まりの台詞を放っているが、その度に男は敵意に満ちた表情を見せ、女性から執拗に自分を侮辱する動機を引き出そうとしていた。女性は、謝罪の言葉、もしくはナイフに怯える小さな悲鳴を上げるだけである。
「これ、まずいですよね?」雪代は、神妙な面持ちの武骨な男―もとい雫に問いかける。雫は、心ここにあらずといった感じで単調に相槌を打っただけだった。雪代はその不安げな雫の様子を見て、なんだか拍子抜けしてしまった。
“雪のように舞い降りて、何かを報せる”。そんな漠然としたイメージで、人の死を止められるわけがない。本当なら、今までどのようにスー策として仕事をしてきたのか教えを乞いたいところだが、生憎、その暇はなさそうだった。
男が、女を引き摺りながら、屋上の手摺に腰掛けた。
周囲はよりざわめきに包まれる。みな一様に声を上げ、彼が後ろに倒れるのを阻止することで精一杯の様子だ。
男は眼を血走らせ、食いしばった歯の隙間から息を漏らしながら、全身を震わせていた。
気が付くと雪代は、雫が野太い声で引き留めるより早く、歩き始めていた。男の方へ、人だかりを緩やかにかき分けながら歩みを進めていく。不思議なことに、焦りと緊張が渦を巻く人だかりは、水鳥が泳いだ水面のように、場に不釣り合いなテンポをもって雪代に道を作った。見た目は生者と見分けのつかない容姿をしていたが、薄手の春物のコートに洒落たレインブーツをまとったその人物は、オフィスビルの屋上で異様な雰囲気を放ち、しんしんとその場を静寂へと誘う。
「あの」雪代は男に語り掛ける。場違いな服装と、全く見たことのないその人物の姿に、男は戸惑いと焦りを隠せない。自分が支配していた空間が、突如として他の者に支配されてしまうという焦りである。
「死にたいんですか、あなた」
「だからさっきからそう言ってんだろ! 俺はこいつと死んでやるんだよ…誰だお前!」刃物を女性の首に引き寄せながら声を荒げる。女性はか細い怯えた声を出していたが、男も堂々たる雪代の存在感に場のテンポを乱され、震えたように喋っている。
「どうして、死のうと思うんですか」
「だから、さっきから言ってんだろ…こいつら、どいつもこいつも俺をバカにしやがる。この女も…俺の気持ちなんざ考えちゃいなかった! 弄びやがったんだよ!!」
女性は「そんなつもりじゃ…」と何かを言いかけるが、男が一喝するとすぐに口を閉じた。
雪代は、恐らく幾度となく行なわれてきたであろうこういったやり取りを自分も続けることを想像して、また同じことを一番飽き飽きしているだろう男本人に繰り返させるのも辟易した。男は、自殺しよう、あわよくば意中の女性らしき者も巻き込んで心中しようなどと考えている人間の割には、有り余り過ぎている元気に見える。しかし、何かを間違えれば、一瞬でこちら側へ来てしまうことも十分に危惧出来た。事実、彼は今まさに、腰掛けた屋上の柵を乗り越えようとしている。普段人が入らない場所なのか、柵は彼の身長よりも低く、男は女性を引き摺りながら跨ろうとしていた。
「これで…これで本当に終わりだ…!」男は目を血走らせながら、ナイフを女性の細くて白い首にあてがった。今度こそ本当に、彼の言うように終わりがきてしまうかもしれない。全員が息をのみ、あまつさえ野次馬の女性社員達の中には顔を覆うものさえ出た。
おいおい、ちょっと待て。感情の揺らぎにくい場違いな死者は考える。ここにいる人達は、本当に彼が何をしようとしているか、理解しているのか? 張り詰めた感情の糸が今にも切れてしまいそうな彼に、確かにまともな会話は通用しないかもしれない。
しかし、こうなった経緯は知らないとはいえ、死ぬ間際にわざわざ手錠まで用意してここまで騒ぎになっているのは、男も男なりに意図があった筈だ。恐らく目の前で死んでやることで、野次馬になっている彼等への報復とし、女性も巻き込むことで爪痕を思いきり残していくつもりだ。だったら、飛び降りるのをやめさせるというよりは、その野望自体を挫くのが重要なのではないか。
なるほど、スー策とはそういうことか。雪代はようやっと分かってきた。男にしてみれば、憎しみと報復の対象である野次馬の彼等の言うことなど、最初から聞く気はないのだろう。
それならば、全く関わりのない私の口から、言うべきなのである。
「死んだら、どうなると思います?」
また再び、雪代のペースが作られた。場違いに思える質問。それでも、何故か耳を傾けてしまう言葉だった。硬直する男に、雪代は躊躇いなく続ける。
「もし、そのままあなたが死んだとして。あ、繋がれてる彼女も、かもしれませんけど。でも死にたがっているのはあなたなので、あなたに聞きますが…死んだら、その後のことって一体どうなると思ってますか?」
「どうって…知らねえよそんなの。誰も分かんねえだろ」
「あ、聞き方が悪かった。そうじゃなくて、あなたがいなくなった、この世界のこと」
「はあ? そんなの俺の知ったところじゃない。俺は…俺はもう誰に迷惑かけようがどうだっていい。もうここまで来たんだから思いきり死んでやるしかねえんだよ! お前には分かんねえだろ、俺の気持ちが!」
「あー…いや、うん、分かりませんね、確かに」背後で低い声が制止しようとする様子が感じられたが、この言い訳や謝罪はスー策に帰ってからしよう、と思っただけに留まった。
「迷惑はまあ、確かにかかるけど。でも、考えてみて欲しい」
男は、神妙な面持ちで雪代を見つめる。野次馬ともども、張り詰めた空気に呑まれ、いつの間にか雪代の言葉の続きを待っていた。
「あなたが思ってるほど、みんなあなたのこと、考えたりしない…と思う…」
「…は?」
武骨な男は唖然とした表情で雪代を見ている。野次馬も、この場違いな突然として現れた何者かも分からない彼女が、説得するでもなく説教をかますでもなく、淡々と言ってのけたその台詞に、ただ違和感を感じるのみだった。言われた当の本人ですら、ぽかんとしている。
「なんだよそれ…どういう意味だよ」
「や、だから…彼女を連れて死ぬのはいいけど、それだとあなたはただの殺人犯っていうか…あなたが死ぬことに意味があるんじゃなくて、彼女が殺されたという殺人にしかならないと思うんです」
「…何が言いてえんだよ」
「つまり、あなたが爪痕を残した気になっているものは、あなたが自殺したことによって得たものではないというか…」
「俺が死んでも誰も悲しまないとかそういうことかよ? そんなのとうに承知の上だっての」
「いや、流石にそこまでは言ってませんよ。あなたの親くらいは…」
ここまで言うと、雪代は思い出してしまった。自分の両親が、自分の遺影から離れて食卓を囲む風景…。自分の未来のことを考えることだけに精一杯な彼等の情景を。そして、哲学的な屁理屈をやめ、たった一言、率直な感想をぼやく。
「…親も、別に悲しまないかもな」
「はああああ!? 何が言いてえんだよお前!?」男が絶叫するのも無理はない。突然、どこから降ってきたのかも分からないような人間に、何やら自分に自殺する価値がないようなことを諭されているのである。先ほどまで硬直していた空気は、変な方向へ緩み始めた。
しかし、それは逆に男へのきっかけを作ってしまったようだった。
「もういい…もういいお前ら、俺は死ぬって決めたんだ!!」
男は、自棄になったようにナイフを放り出した。そして懐から小さい鍵を取り出し、女性と繋がれた手錠を外す。
解放された女性は、ナイフを拾って歯向かうでもなく、ただ逃げるようにして野次馬の一部に入っていった。そして、男は息を切らしながら、柵の上によじ登る。
「これで本当に、さよならだ」
男は、そのまま灰色の空の向こうへと倒れ込んだ。
走り出した雪代に、コンマ数秒遅れて武骨な男が続く。
雪代は、全身を乗り出して男の足を掴んでいた。その雪代の足を、更に雫ががっちりと掴む。
「ごめん、重いですよね」
「そ、それはいいけど…レインブーツはまずい」雫は低い声のイメージとは裏腹に、情けない悲鳴を上げた。彼女(彼?)に掴まれたレインブーツは、今にも雪代の足が滑り出しそうである。
野次馬の男性諸君が総出で引き上げた後、遠くにパトカーの音が聞こえ始める。
数分後に警察に連行される羽目になる汗だくでへたり込む男に、雪代がかけた言葉は二言、三言だけだった。
「落ちるあなたを助けようとしたのは私だけだったでしょ」
男は、命を取り留めたものの、魂の抜けたような顔をしていた。雪代の言葉が届いたからなのか、それすら聞けていないのか。雪代に足を掴まれ、ビル壁に体を打ち付けた衝撃に戸惑っているのかは分からなかった。
「もっと幸せになれる場所を探しなよ」
こうして雪代は、初めてのスー策での仕事を終えたのだった。
あの男が一体どのような境遇で今まで生きてきたのかは分からない。あの展開が自業自得だったのか、それとも彼自身がとても不幸な人間であったのかは分からない。それでも、目の前の死を回避させた事実には変わりなかった。
これが残酷な仕打ちになるのかどうか、雪代には判断がつかないが、悩むなら、女性の命を危険にさらした本人に頭を冷やしてもらってからだ。
「あっ、すみません」
事情聴取を免れるため、警察がやってきた瞬間のどさくさに紛れて雫と屋上から抜け出そうとした時だった。不意に、野次馬の一人の女性とぶつかった。
彼女は走り去る時に、何やら香水の香りを残していった。
「アロム・デ・ローズ?」
「え?」
武骨な男、もとい、雫が問いかけた。「バラの香りってこと。まあ、そういう名前のブランド香水でもあるけど。知らない?」
「私、あんまり詳しくなくて…」それよりも雪代は、格闘家のような男に香水の説明をされる状況から早く脱したかった。
「そう。ちょっと強くてあまり好きではないんだけどね、わたしは」
「そうですか。というか、匂い、感じるんですね」
「ああ、ここに降りてる間はね。生前と五感もほぼ変わらないから、ちょっと戸惑うわよね」
雫は、屋上からビルの中へ入る階段を降りながら、雪代とさりげなく手を繋ぎながら話す。不思議な外見と中身の不一致に、未だに笑いそうになる。死んでからこんな体験が出来るなんて、駆け出しの作家でも思いつかない展開である。
人気のないところを探し、繋いだ手をそのままに、雫は雪代に問いかけた。
「スー策に戻る時も、同じようにスー策のことをイメージしてね」
雪代は目を閉じる。遠くに、再びパトカーのサイレンが聞こえた。
体の輪郭が、風に削り取られていくようにぼんやりしていくのが分かる。数秒後か、数分後か、はたまた数時間後なのか。新しく出来た雪代の居場所は、少し騒がしく、彼女を出迎えるのであった。
しかし、雪代はその後もあの上司から、天界にきて更なる衝撃の報せを受けることとなるのである。
もう一度、雪よ。 みぞうら泰弥 @mizourataiya
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