第3話 一緒に飛ぶこと

 「行くって…私がですか? 何に?」

 ぽかんとしているのは雪代本人だけではなく、つむじと、そしていつの間にかあらわれていた、雫と呼ばれる亜麻色の髪の女性である。そんな三人の表情を気にも留めず、晴見はぐいぐいと説明を続けた。

 「うむ、雪代クンに早速業務にあたってもらいたいのだ。スー策に入って初の仕事だよ。喜びたまえ! まずは、簡単なやり方を雫ちゃんに教わっておいで」

 晴見は、雫の方を指で指し示す。

 雫は、おおよそ雪代と同じくらいの年齢の女性だった。女優のように綺麗な亜麻色のロングヘアーは、前髪が流行りの雰囲気に切り揃えられていて上品な印象だ。薄手の青色のVネックセーターにタイトなジーパンといった格好が、細身のスタイルの良さを際立てている。死者に寒さも暑さもないけれど、覗く鎖骨に、近付く春が感じられた。

 「教えるって…彼女、ここに入ったばかりじゃないんですか?」

 焦って飛び込んできた一方で、雪代の困惑ぶりも目の当たりにした雫も戸惑いを隠せず呆然としてしまう。雫がそんな調子なので、雪代も最早、誰に何を質問したらよいのか分からない。

 すると、こんな状況を見かねたつむじが口を開いた。

 「雫さん、そもそも命令しろってのは“見かけた”ってことですよね? あられも出払ってる今、死に先の仕事飛び出してまでスー策に戻ってくるということは、即時こっちの業務をやる必要がある、ということでしょうし」

 「え、ええ…その通りよ」雫は思い出したように語り出す。「たまたま死に先の方で案内した死者が、天界に来る途中でトラブルを見たらしいの。自分の遺族を見守ってる中で偶然見かけたみたいね…ちょっと急ぎの必要があるかと思ってここに飛び込んできちゃったけど、その様子だと、つむじの方でももう観測出来てたりするのかしら?」

 「そうですね…ちょっと前から少し気になるところはありました」つむじは、白箱に向かい高速でタイピングのような動きをする。「誰かさんがうるさいんで、観測が半端になっちゃいましたけど」

 言われた張本人の晴見は、何のその、と言った様子で「特定ヨロシク!」と高らかにつむじに告げた。つむじの表情には顕著にイラつきが見られたが、彼の手の動きは止まらず、寧ろ自信ありげな様子にすら見えた。

 「雪代さん、地球儀を見てください」

 つむじに言われるがままに、ローテーブルの地球儀を眺める。くるくると回っていたそれは、いつの間にか静止しており、その代わりに一か所だけが小さな点になって光っていた。どうやらその点は、日本の関東や首都圏辺りに位置しているようだ。

 「触ってごらん、雪代クン」晴見が眼鏡の奥から楽しそうな表情を覗かせる。雪代は、言われるがままに、光る点に触れようとした。

 触れるって、どんな感じでだろう、指でピンポイントに触ればいいのかな、などとぼんやり考えながら手を伸ばしているうちに、なんとなく指先が、“太平洋”の位置に当たる。

 その瞬間、目の前に膨大な色の渦が現れ、引き込まれるような感覚に陥った。走馬燈なんてものではない、この世の全ての情報量を一緒くたに凝縮したような奇妙なそれは、不思議と心地悪くは感じなかった。

 まるで白昼夢のように自然と情景が浮かび上がってくる。それは、灰色の空がよく見える場所で、灰色の街もよく見下ろせる場所だった。髪が乱れた陰気そうな青年が、汗だくになりながら何かを叫んでいる。彼の近くには、彼と手錠で繋がれ、泣いている女性…。

 「大丈夫!?」

 いつの間にか近くに来ていた雫の声に引き戻される。生きている頃には決して得られなかった異常な体験に少し戸惑いはしたものの、肉体が無い今となっては眩暈などの疲労や負担を感じないことに気付く。

 「大丈夫です」

 「なら良かった。点じゃない場所に触れてたから、不意打ちで初めての“アレ”を喰らっちゃったのかと思って」雫は胸を撫でおろした後、晴見に「点に触れなくても“見えちゃう”ってちゃんと先に説明してあげないと」などと言った。

 「つまり、たぶん、なんですけど」雪代は、今までの会話の流れから、今見えたものの正体を察して問いかける。「今見えた男の人がビルから飛び降りるのを、なんとか止めればいいんでしょうか」

 「その通り! 察しが良くて助かる」不安そうな雫の視線を跳ね返すように、晴見は指を、パチン、と軽い音で鳴らす。「それじゃあ、“習うより慣れろ”ということで、雫ちゃん、連れてってあげて」

 「え、本当にいいんですか? というより、あなたもいいの?」

 動揺と焦りの声をあげる雫の言葉を聞いても雪代は、正直、何を返したらいいか分からない。上司の無茶な采配に戸惑っているのは先輩である彼女達なのだが、もう未経験のことをひたすら心配されても「やるしかないんですよね」と、それなりで適切な返答をするしか話が進まないことは目に見えていた。

 

 雫は、スー策の空間の端まで行くと、雪代としっかりと手を繋いだ。本当はそんなことはないだろうに、誰かと強く手を繋ぐのは、とても久しぶりに感じられて、雪代は少し複雑な気持ちになる。

 「いくつか、注意点がある」へらへらと高みの見物を決めるつもりに見えた晴見が、不意に雪代の肩を強く掴んで言う。思いの外しっかりとした感触に、雪代の表情は少しだけ強張る。

 「君の仕事は、昔の体罰教師のように説教をかますことじゃない。ワタシ達はもう死んでいるのだから、生きてる命に気安く触れてはならないよ。あくまで、雪のように、そっと地上に舞い降りて、何かを報せるに過ぎない存在であること。いいね?」

 「そんなんで、止められるんですか」

 あまりにも自然と口から出たその言葉は、まるで言葉そのものが生きているみたいだ、と雪代は思った。もっとお喋りだった、生きていた頃の自分を、思い出しそうになる。

 晴見は、一瞬何かを言いかけたように見えた。しかし、すぐに口を噤み、優しい笑顔を“作る”。人間が一番よく知っている表情だ。当たり障りがないのに、思わず後ろ暗いことを質問してしまいたくなる優しい笑顔。

 「困ったら、雫ちゃんに助けてもらえばいいから」

 それだけ言うと、晴見はソファの方へ戻っていく。

 「気にしなくていいわよ。課長、いつもああいう感じだから」雫がひそひそと雪代に耳打ちをしてくれた。細いのによく通る、くすぐったい声だった。

 そのあと雫は、今から雪代が地球儀で見た場所に降りていくことを説明してくれた。やり方としては、今の自分たちがそうであるように、地上に降り立つための自分の姿をイメージすることがまず必要になる。ただし、これは生前の自分の姿とは引き離す必要がある。死人が街を歩いていたら大問題になるので、当然のことでもある。問題は、第二段階だった。

 「さっき地球儀で見た場所を思い浮かべるの。わたしはわたしで、さっき”死に先案内中”に教えてもらったイメージがあるんだけど、これをあなたとわたしの二人で共鳴させないといけないの」

 「私達死者の外見が、お互い認識出来るのと同じ原理ですか」

 「そうね、それにかなり近いかな。…というか、わたしが初めて地上に降りた時は、もっと練習させてくれたんだけどね。なんであなた、あんな変な上司のところに―」

 雫は、眉を潜めてつらつらと語り出したいような雰囲気だったが、すんでのところで止めると「ちゃんと帰ってきたら、ゆっくり聞かせてね」とだけ言った。

 「色々話すよりも、まずはやってみましょう。特別なことはしなくていいから、目を閉じて、イメージして…」

 雪代は、灰色の空と、灰色の街並みを思い浮かべる。握り締めた雫の手の感触が、少しずつ強くなっていくのが感じられた―。



 雪ちゃん―


 そんな風に、呼ばれていたっけか。最期に聞いた言葉は、呼び捨てだったような気がするけど。

 真剣な時だけ、しっかり名前で呼んでくるんだ、あの人は。





 「ごめんね雪ちゃん、僕、雨男だから…」

 「ほんとだよ、まったく」

 章介は、心底申し訳なさそうにうなだれている。雪代が敢えてへそを曲げていることを、彼はいつも見破れない。もう付き合って結構な日数が経つのに、彼はいつも雪代のことを気遣ってばかりいる。

 もっと高いタワーが出来たというのに、今更「赤い方のタワーに登りたい」という雪代の願望を叶えてくれた結果が大雨とくれば、綿密にスケジュールを立てた彼氏の立場としてはやはりショッキングなのかもしれない。一方で雪代は、そういうことが起きてもあまり揺さぶられる性格ではないので、「服が濡れてちょっと面倒」くらいにしか思わないのだが、こういうロマンティックを目指す場面では、この性格が損なのか得なのかよく分からない。

 展望台は高かったが、重く分厚い雲が空一面に広がっていて、絶景とは言い難い。流石に休日の今日でも人は少なく、カップルで来ているのは雪代と章介のペアくらいなものだった。

 「雪ちゃん、あれだったら、再来週とかまた…」

 「なんでそんな短いスパンで来るの」章介の控え目な新提案を容赦なく一刀両断するのは、雪代のいつもの役目だ。章介も章介で「ご、ごめん…」とすぐに引き下がるのも二人の日常である。

 「でも、章ちゃんが頑張ってお休みとってくれたのは凄いと思ってる、から、それはありがとう、ね」

 そんなやり取りをしていても雪代は、未だにお礼をちゃんと伝えるのは少し照れ臭かったりする。誤魔化しとして平静を装いそう言った後に、ちらり、と横目で見ると、章介はあからさまに照れ臭そうな笑顔を見せていた。眼鏡のフレームの端を、まるで頬を掻くみたいにしていじるのは、彼が動揺している時の癖だ。そんな彼のなところが、今の彼の職場でとても嫌われていることを、雪代は知っていた。それでも雪代は、そのが好きだった。

 「ゆ、雪ちゃん、雲、すごいね!」途端にはしゃいだように章介が言う。会話を盛り上げたいつもりなのだろうが、はっきり言ってまるでなっていない。

 「子どもの頃さ、雲の上に乗れるって思ってたよ、僕」

 「そんな時代もあったねえ」

 「それでさ、飛行機とか乗ってさ、すり抜けちゃった時、すんごいびっくりして騒いじゃったんだよな~」

 「それはなかったかなあ」

 ちょっと温度差のある、いつも通りの取り留めのない会話をする。傍から見ると、はしゃぐ彼に対しての雪代のリアクションは淡泊に思われることも多いが、雪代としては、章介が楽しそうにしていてくれればそれでいいという気持ちが常にあるつもりだ。

 「なんかさ、今となってはそういうことも考えなくなっちゃったっていうかさ、こうしていつも見たことのない景色を見ることで、ようやく気付ける何かが…」

 饒舌に語り出した内容を聞いて、雪代は気付く。章介は、なんとか彼なりに、ロマンティックな方向性の話にしようとしているのだ。あからさますぎるし、デートの相手が雪代でなければ、なめられていると受け取られてもおかしくはない。もちろん、雪代はそんなことは感じずに、内容はともかくとして、ただ楽しそうにしている彼の言葉を聞く時間として楽しむだけだったのだが。

 「それでさ…」突然、章介の言葉が失速する。不意に、雪代は片手に温もりを感じる。章介のいる側だった。

 「いや、なんていうか…特に重要なことではないんだけど」

 「何、はっきり言って」ちょっとだけ、目を合わせづらいまま、章介の手を握り返す。

 「こう、夢なんだけど、ずっと前のね。…恋人と、雲に乗って旅行するみたいな夢ね。わ、笑えると思うけど…なんか楽しくてね。急に思い出したというかなんというか」章介は、空いている方の手で、また眼鏡のフレームを掻く。「出来ないんだけどさ、雪代と一緒になんか、そういうの、してみたいなって急に思ってね」

 「えっ、何それ」口から滑り出た言葉と、彼の瞳に吸い寄せられた眼差しは、まるでそれぞれ生きているみたいだ、と思った。雪代が無意識に、感じていたそのものであるのだという証拠。

 「いいかもね?」

 雪代の突然の好感触なリアクションに、章介は少し戸惑いを見せるも、今日一番の雪代の嬉しそうな顔を見て、つられて笑う。

 「雪ちゃん、ツボ、全然分かんないよ」

 「分かんなくていいよ」雪代は、展望台の大窓に近付いて、上を見上げる。「新しく出来た方のタワーって、雲より高いんだっけ?」

 「えっと…どうだったかな」

 「すごいね、人工物でそんなところまで行けるなんて。宇宙も一部は人間のものに出来てるし、その内天国とかにも自由に行けるようになるんじゃない?」

 「雪ちゃん、それは天国の意味ないよ…」

 「そうだ! 章介」雪代は、今度は街を見下ろしながら言う。

 「今度はもっと高い方のタワーに連れて行ってよ!」

 「いいけど…多分雨だよ?」章介の下がり始めたテンションを、雪代はばっさりと断ち切った。

 「だからいいんじゃん! 雲の上に乗れるみたいなもんでしょ」

 章介と固く繋いだ手を、雪代は更に力を入れる。最早、男性の章介よりも強く思われるくらいだった。

 「下が透ける床とかあるんだっけ? そこで飛んでみればいいよ。雲に乗る気持ちでさ」

 「ええ? それはちょっと怖い…」

 「絶対、安心安全だってば。ジャンプするだけだよ? ほら、こんな風に…せーのっ!」





 「いたっ!」

 その声は、雫のものでも、雪代のものでもなかった。

 雪代のすぐ隣には、少し武骨な見た目の男性が尻もちをついている。名は忘れたが、有名な柔道家に少し似ていた。どうやら声は彼のもののようだったが、少し雰囲気がおかしい。

 不意に、背後で言い争う声が聞こえ、雪代の思考を呼び戻した。

 

 振り返ると、右腕と体ごと縛られた女性が、汗まみれで髪を振り乱している男と左手を繋がれている。男は空いている手にナイフを持ち、女性の喉元に突き付けていた。

 「うるせえええ!! こいつを殺しておれも死ぬんだよ!!」

 雪代の周りには、十数名の人が集まっていたが、彼らは五、六メートル程距離を置いたまま近づけず、一触即発の状態を保っていた。

 雪代は周りを見渡す。遠近感が混乱する一面灰色の空は、まるで男の背後にすぐ迫っているように見える。

 ここが高層ビル四十階立ての屋上だと知るのは、少し後のことである。

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