最終話 再スタートはスタンディングで

 そして次の日。土曜日で学校は休みであり、部活も仮病で欠席した。

 あたしは桂子を誘い、始まりの海に並んで立っている。

 夜のそれとはまた違い、溢れる光を反射し輝く水面は死ぬ間際の誰かに願われた光景であるかのように生命力豊かな美しさを湛えている。

 少し前まで死体が横たわっていた地とは思えない、とまでは言う気はない。昼と夜における海は、豹変する二重人格の持ち主であるかに見えた。今にして考えれば、夜の海ほど死体が似合うシチュエーションもない。

 でも、今は昼だ。ここに死は似合わない。

 終わらせるならば、この海でしか有り得ないんだ、とあたしは思っていた。

 桂子は、あたしの用件にはまったく興味がないといった風に波をただ眺めていた。その心中推し量ることはあたしには出来なかった。

 でも、あたしの心を桂子は知っていた。

 だから……。


「綺麗ねー。家に近すぎたから日常風景になってたけれど、こうしてまともに相対してみるのも悪くないもんだ」


 と、桂子。あたしはただ黙っていた。


「どうしたの、美彌。なにか話あるんでしょ」

「話」


 桂子はこれからあたしが言うことを察しているのだろうか。なんとなく、そんな気もした。彼女はあたしなんかよりはるかに聡明で、将来有望な少女だ、いや、だった。

 意を決してあたしは口を開いた。


「あたし、考えてたんだ、ずっと。三笠さんが殺されたときのこと、それを見つけたとき

のこと」


 はっと息をのむ音が聞こえた。横目で見るとはっきりと顔を強ばらせているのがわかる。

 辛かった。でも、情に流されるわけにもいかない。あたしは一息に昨日の昼間までに導出していた準密室の謎を説明した。


「……なるほど。たしかに不思議だね。でもそれは事件の根幹じゃないっていうか、あんまり大事ではないところな気がするけど」

「ううん。むしろ、そこが一番大事なんだ。少なくとも、あたしにとっては」

「……」


 言い返す言葉はないようだった。やっぱり、もう悟っているんだ。

 あたしは推理を始める。筋道立てて話すのは苦手だけれど、逆算的に犯人を指名するのだけはしてはいけないと思ったから、出来の良くない頭をフル回転させた。


「糸口になったのは、三笠さんの両手足首に付いていたロープ状のもので縛られた痕だった。最初あたしは自由を奪うために犯人が縛ったのだと思ってた」

「違うの?」


 合いの手を入れる桂子。本心から疑問を抱いているような口調じゃないから、きっとあたしの話をアシストしようとしてくれているんだろう。


「うん。もし、犯人が三笠さんを縛ったのだとすれば、それはしばらくの間彼女を殺さなかったことを意味するでしょ。縛る余裕があるんだったら、ナイフで刺すことぐらい簡単だろうから。ここで、一つの仮説が立てられる。殺すこと以外になにかの目的があって、そのためにどうしても縛る必要があったんじゃないかという。でも、あたしが見た限りでは制服は乱れてなかったからそういう目的でもないはずだった。

 じゃあどんな目的があって縛ったのか。そこで、思い出すのはあの人為的っぽい準密室。もしかすれば、あれを作り出すために手足で縛ったんじゃないか。あたしはそう思ったの」

「……」

「ここまでなら、きっと誰にでも推理できるよね。あたしでもなんとかたどり着けたんだし。でも、ここからが問題なの。ここからは、きっとあたしにしか解けない謎のはず」

「美彌にしか、解けない謎」

「そう、きっと……。あたしね、三笠さんの死体を見た瞬間に思い出した光景があるんだ。それは、先週出会った歌うおっさんの死体なの。倒れてるポーズは一緒だったし、もっと言えばあたしが最初に二人の死体を見た時の角度もほとんど同じだった。最初は偶然か、ちょっと恥ずかしいけど私に宿った呪いのようなものなのかとも思った。けど、冷静に考えればおかしいよね。ただの妄想だったよ」

「呪い、か」


 腑に落ちたように、あるいは納得したように、桂子は頷いた。一応、今あたしが否定したつもりなんだけどな。


「偶然だというにも出来すぎている。偶然を偶然として終わらせたら、解ける謎も解けなくなると思ったあたしは、普通ならすぐ否定してしまうはずの突拍子もない推理が立った。そして、きっとそれは正しかった」

「……」


「犯人は、あの格好をあたしに見せたかった。ただ、それだけのために三笠さんを殺したんだ」


 ハッと鋭い息を吐く桂子。そして、海に来て初めてあたしを真正面から見据えた。そして反論を始めた。でもそれは本気のものではなく、なんとなくミステリー小説の登場人物を演じるかのようだった。


「そんな動機……意味解らないよ」

「でも、そう考えるとあの現場は不思議なくらいに都合が良かった。あたしにおっさんと同じ死体を見せようとすると、必要なのはポーズだけじゃない。ある程度の高さから見下ろすことが必要なの。だからあの準密室を作りだし、あたしにあの上方の隙間から三笠さんの身体を発見させた。……まったく、すごい発想だよ。あたしはそれに気付いてから色々考えたけど、このやり方以上のは思いつかなかった」

「大事な部分が抜けてるよ。犯人はどうやってその準密室とやらを作り出したのさ。そこがないと、今までのは全部絵空事だよ」


 絶妙なアシストパスだった。おかげで、スムーズに話を進められる。


「そこで、あの縄の痕。あれは動きを封じるためじゃなくて、準密室を作るためのトリックの痕だったんだ」

「トリック……」

「そう。まず犯人は、早退してトイレに向かう三笠さんを見つけ、自分もトイレに行くと先生に告げて後ろを追った。そして、どうやったかはわからないけれど後ろからナイフで襲いかかった。あたしの予想だと、たぶん三笠さんが入った個室の隣に犯人も入って、用を済ませて水道に向かったところを……って感じだと思う。ともかく、そうして犯人は三笠さんを刺した後、一番手前の個室へと運んだ。血がポタポタ垂れてただろうから、勿論それは綺麗に拭き取った」

「警察に調べられたら、ルミノール反応ですぐバレちゃうだろうね」

「あたしにさえ血を発見されなければいいんだから、それでいいんだよ」


 ルミノール反応というのは、なんか特殊な薬品をかけると血液の中の成分が反応して青白く光るってやつで、ミステリーでよく捜査の手段として使われているらしい。

 あたしは続けた。


「ここからがトリック。犯人は死体をドアの開閉を妨げない適当なところに俯せで置いた。そして手首を縄で固く縛って、余った長い部分を上方の隙間から外に垂らす。で、犯人は外に出てドアを閉めた。ここまでだと、まだ全然密室じゃないのは明らかだよね」

「そうだね」

「そこで犯人は縄を思いっきり下へ向けて引っ張ったの。それはもう、全身全霊の力で。するとちょうどドアの上の隙間が滑車のような役割となって力の向きを変え、三笠さんの身体はじわじわと持ち上がり始める。そのまま引っ張り続けると、手首まで上から外へ飛び出してきて、若干海老反りのようになってくるわけ。

 で、タイミングと場所を見計らって一気に手を離す! すると身体は足から床に落ち、必然的に膝がカクンと落ちて足裏がドアの部分に引っかかる。上半身は前に倒れ、洋式トイレの上に乗っかり、両腕はだらんとその脇に垂れ下がる。……これで、準密室の出来上がり」

「よく考えたね。凄いよ、ほんとに」

「一連の作業を行ったのが二限目の授業中で、昼休みまでは二時間ぐらいの時間があったから、きっと犯人はドアに『故障中』とでも張り紙をしておいたんじゃないかな?」


 ちらりと桂子の顔を見るが反応はないようだった。それを無言の正解合図だと受け取ることにする。


「で、犯人は何食わぬ顔で教室へ戻った。たしか十五分ぐらいだったかな。トイレにしてはちょっと長いけど、怪しまれるほどではなかった。で、いよいよ昼休み。パンを買いに行くと嘘をついて、いや、嘘じゃないか。全速力でパンを買ってから、また全速力でトイレに行って張り紙を外して教室へ戻ってきた。息が荒くても、行列ができるパンを買いに行ったわけだから怪しくはないって寸法だね。そしてすぐにトイレに行くと宣言して、のこのこついてきたあたしに死体を見つけさせた。これが三笠さん殺害事件のすべて。犯人は……言うまでもないよね。桂子」

 あえて言わなかったけれど、多分桂子はあたしが第一発見者となることはそこまで狙っていなかったと思う。あたしが桂子にくっついてトイレに行ったのは偶然だし、そもそも涼子が早退したというのも偶然。普通にトイレに行くだけだったら、なかなか戻ってこない彼女に不信感を抱いたクラスの皆が騒いでいたことだろう。

 あたしが最初に見つけるのが最高の結果だけれど、そうならなければ桂子自身が第一発見者になるつもりだったと思う。誇張を交えてわたしに説明すれば、きっと同じ効果を得られると考えたはずだ。

「はずだ」「と思う」が繰り返されることから判るように、この推理が確実に正しいものだという根拠はない。物的証拠に値するものは現場のドアの上で見つけたわずかな傷と指に付いた黄土色の粉ぐらい。あたしの推理を支えているのは、おっさんと涼子が同じ格好で死んでいた、ただそれだけだ。それだけにすぎない。けど、あたしはそれが正しいとしか思えなかった。論理ではなく直感、予感。やっぱり探偵にはなれないな。

 桂子はとっくのとうに覚悟を決めているようだった。犯人として名指ししたその瞬間も、表情は一ミリたりとも変わらなかった。

 しかし、あたしには桂子が同じ人間でないようにさえ思えた。頭の中だけで考えてるうちはまだいい。それが口からでた言葉となって、目の前の桂子と同一化した瞬間、彼女はあたしにとって冷酷非情の怪物となったのだ。

 そして、桂子はその口を開いた。


「……あたし、さ。ずっと美彌と親友でいられるんだと思ってた。思ってた……いや、信じてたんだ」


 少しずつ言葉は感情的になってくる。いつもの余裕は完全に消失していた。


「覚えてる? ……いや、そんなわけないよね。たしか小学一年生の時だった。運動会、全員参加の徒競走で練習の時いつも私はドベばかりだった。あの時はそれが悔しくて悔しすぎて、いつも泣いてたんだよ。でも運動会前日、同じレースでいつも一着ばっかりだった美彌が私にこう言ってくれたの。

『遅いとか、早いとか、どうでもいいんだよ。走り続ければいつか、どこかには行けるんだ』って。私が『どこかってどこ』って聞いたら『わかんない。でも、ここじゃないどこかならどこでもいいじゃん』だって。意味わかんないよね。でも、それが私には嬉しかったんだよ。この子となら、これから一緒に走って行ける気がした――ごめんね、なんか上から目線で」


 違うんだよ、桂子。あたしはその時からきっと、心の深い深いところで……。

 そして、解放。バッと両腕を広げ、全身を震わせた。いつもはいたずらに流れる目を精一杯に広げる。


「でも美彌。美彌! どうして、何でなんだよ! どうして……」

「桂子、違うよ」

「何も違わないよ! なんで。なんで、私に何も言わず自殺なんてしようとしたの!」


 やはり、そうだった。桂子は致命的な思い込みをしていたのだ。

 あたしが自殺しようとしてた、と。

 涼子がおっさんの死と重ね合わせられるために殺されたのだと直感した時、動機としてまず最初に思いついたのは、あたしをどこかに行かせないためだと思ってた。だから桂子が一番の容疑者に浮かび上がったのに少し納得していた自分がいた。

 んなわけないよ! 人ひとり殺してまでして家出をさせないようにするなんて、桂子がするわけない! だって彼女は、あたしが困っている時も困ってない時さえもいつも近くに居て助けてくれていた。支えてくれていた。名目ともに唯一絶対の親友だ。きっと桂子なら、あたしを説得して引き留めようとしてくれてたはずだ。

 説得することすら躊躇われるようなことをあたしがしようとしている。桂子がそう思ったのだとすれば、それはもう自殺ぐらいしかない。

 深夜の海岸に独り佇むあたし。理由を聞いても答えない。翌日、思い詰めたように黙り込んでいる。おっさんのことを差し引いても、自殺しようとしたと考えても無理もないのかもしれない。


「……桂子」

「相談してくれればよかったのに。どうして、どうして」


 桂子は膝から崩れ落ちるように地に墜ちた。

 言えない、言えないよ。今更『家出しようとしてただけ』なんて。そんなことを言ってしまったら、桂子を拒んだと言うのと同義じゃないか。桂子の行為は無駄だったと言うのと同義じゃないか。辛い思いをさせるだけじゃないか。。


「ごめんね桂子。許して」


 意味ない言葉だ。でも、あたしにはそれしか……。


「あたしがおじさんを殺しちゃったから、桂子も」


「み、美彌!」


 愕然とする桂子。なんで憶えてるの!? 目は口ほどに、ではないがそう思っているのが手に取るように判った。

 すべては、やはりあの夜の海で始まったのだ。


※※※


 そして、あたしはふと気配を感じ首を曲げた。

 男が立っていた。知らない、中年の男だ。暗闇で表情は窺えないが、双眸に秘める尋常じゃない光があたしを射すくめた。


「……なに」


 それだけしか言葉にならなかった。恐怖があたしのすべてとなった。

 男は懐からなにかを取り出した。

 白い月光がたちまちそこに集中し、きらりと閃く。

 それは、刃だった。ナイフなのか包丁なのかは判別できない。どっちにしたって一緒だ。あたしは本能的に命の危険を感じた。

 二三歩後ずさると、二三歩距離を詰めてくる男。荒い、下卑た呼吸が断続する。

 男の声が低く響いた。

「騒ぐ、騒ぐなよ。そこでと、止まれ」

 あたしの足は言うことを聞かず、さっきまでのように自由に動かなかった。この役立たず。いや、あたしがびびりなだけか。


「安心しろ。静かにしてれば怪我はさせん。ちょーぴり痛いが、徐々によくなってくる」


 欲望がそのまま口から飛び出してきたよう。押しつぶされる。

 押しつぶされる!

 男の横に広い影が動いた。あたしは反射的に腕を無茶苦茶に振り回した。まるで赤ちゃんがイヤイヤをするかのように。

 ぐちゃぐちゃになった。判らなくなった。

 気がつくと、あたしはおっさんのナイフでその背中を突き刺していた。

 よりにもよって、それは一撃で急所を貫いていたのだろう。おっさんは短く断末魔の声を上げると、そのままゆらりと海岸へ倒れ墜ちた。


※※※


 これが、真実だ。決して男――おっさんに襲われたこと自体を忘れていたわけではない。ただ忘れようと、思い出すまいと、ずっと頭の隅の隅に押しとどめていただけなのだ。

 我に返ったあたしは無意識に近くの桂子の家を頼った。幸運でもあり不運でもあるのだが、その日両親は旅行に行っており、兄弟のいない桂子は一人で家を守っていた。もし誰か他に居れば、こんな狂ったことにはならなかったかもしれない……駄目だ。こんなことを考えても意味はない。

 桂子はあたしの血に濡れた両手を見ると驚き、それでも冷静にあたしから事情を問いただした。しどろもどろになりながらなんとか一部始終を伝えると、すぐさま外に飛び出していき、数分もせずに戻ってきた。そして誰かに目撃されなかったかを聞き、あたしが頷く(確証はなかった。動揺にうち拉がれる中でそうであってほしい、ととっさに出たのだと思う)と、安堵したように息をつき、あたしを自分の部屋に上げてくれた。

 そして言う。


『美彌、落ち着いて聞いて。私は美彌が正当防衛なのを信じてる。あのおっさん、ここらで有名な不審者だったしね。でも、たぶん警察は信じてくれない。美彌に怪我一つないし、背中にナイフが刺さってほぼ即死っぽいから……。そっくり殺人罪が適用されることはないだろうけど、過剰防衛と判断される可能性は高いと思う』


 ミステリーマニアである桂子はそれ関係の法律にもそこそこ通じているらしかった。


『大丈夫。美彌をそんな目に遭わせない。私に任せて。きっと上手くやってみせるから』


そしておもむろにスマホで時間を確認する。


『十二時半、か。じゃあ美彌は今すぐ家に帰って、お母さんに叱られて、全部忘れて寝ちゃうのよ。あ、そうだ! 二人だけだけど、適当に作り話を演じちゃおうよ。すれば、気も紛らわせられる』

『……桂子、どうするつもりなの』

『どうもしないよ。ただ、ちょっと世界線をずらすだけ』


 そして有無を言わせずあたしを帰路につかせた。翌朝になるまでその意味深な言葉の意味は想像だにできなかった。

 世界線をずらす……なんのことはない。桂子は死体発見時刻をずらし、知らぬ顔をして自分が第一発見者であるフリを警察に対して行ったのである。と同時にあたしには歌唄いのおっさんという架空のコミカルな人物像を作り出し、別な種類の悲劇を騙った。警察もあたしも、桂子によって創られた偽の物語を信じ込んだというわけだ。あたしの場合は信じたかった、という方が正しいだろうが。


 桂子は声を震わせながら言った。


「そうだね。やっぱり意味なかったか。でも、それでも、自殺なんて」

「あたし、生きるから! ここで、強く、強く、誰にも負けないように、強く生きるから! だから、一緒に警察へ――」


 その時だった。背後に尋常ならざる気配を感じ、あたしは思わず振り返った。

 二人組の警察官だった。あたしと桂子の関係を承知しているのかいないのか、神妙な表情で黙ってこちらを見つめていた。

 そうか。そりゃあ気づくよね。桂子の使ったトリックは警察の方をまったく向いていなかった。あたしのためだけのトリックだ。むしろ今日まで見逃されていたのが奇跡だったかもしれない。

 桂子も特に動揺した様子は見せなかった。そして一言。


「よかった」


 そして今までにないほどの巨大な包容力を持った笑顔をあたしに見せた。

 あたしはそれを、どうやって受け止めればいいか解らなかった。


※※※


朝。あたしはしっかりと準備を終えいつものように家の外へ出ると、あたしは全身を地面に向けて沈めた。いや、沈めようと思いつつやっぱり立ち上がりポーズを作った。スタンディングスタートのポーズだ。あたしは長距離専門。やっぱりこっちの方が向いている。

 さん、に、いち――。

 ぱあん。

 今度は前みたいに爆発的なスタートダッシュではなかった。そうだ、それでいいんだ、たぶん。急ぎすぎるとろくな目に遭わない。といって、ただ歩くだけの毎日もまっぴらだったけど。

 あたしは制服を着て自分が女子高生であることを示し、そして職場である学校へと向かった。今日からまた朝練だ、気を引き締めてゆかねば。

 結局あたしは桂子の必死の主張もあり、正当防衛が認められた。客観的にいえばどうしても過剰防衛は避けられないと思っていたが、思いの外おっさんに対する悪い下馬評が響いたらしい。人を裁くのはやっぱり人なんだな、と思った。

 桂子の判決はまだまだ出ていない。少年法はあるし、再犯する可能性も(たぶん)ほとんど認められないだろうからきっと罪状は軽くなるだろうが、それでも罪のない人間を殺したのはたしかだ。しっかり償ってきてほしい。

 とはいいつつ、あたしはそこまで桂子に怒りを感じていないし、犯した行為に対する恐怖を抱くということもなかった。あたし自身殺人を犯してしまったせいでどこか狂ってしまったのだろうか?

 でも、いいんだ。あたしはあたしだけに依って生きていく。社会から逃げ出すことはとりあえずやめたけれど、この考え方は捨てない。もちろん考え方なんていつか変わることもあるかもしれない。けど、捨てるのだけは絶対にしない。

 息は全然切れない。速度は大したことないしスカートで荷物も持ってるからあまり爽快感はない。けれどあたしは走っている。

 この世界は解らないことばかりだ。特に人の感情は複雑怪奇。殺人のトリックなんかより遙かに難しい。もしかしたら、感情を解き明かそうと試みるのは出口のない迷路を彷徨うことになるだけなのかもしれない。

 でも、あたしは考えよう。人はなぜ人を愛すのか。桂子はなぜ、あたしを愛してくれていたのか。あたしはなぜ、桂子を憎まないのか。それは、愛が故なのか。

 解らない。解らない。

 その答えを探し続けるために、あたしは今、ここを走り続けようと決めたのだった。

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あたしにしか解けない謎 瀬田桂 @setaK

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