第3話 解決へ向けてスプリント
翌日。桂子は学校に来なかった。
まさかと思い、担任に聞きに行くと『風邪』とのことだった。電話口での彼女はひどく暗かったらしい。
風邪……ではないような気がした。軽々しい質問で里緒を泣かせてしまったのを気に病んでいるのだろうか?
その里緒は、昨日と比べるとだいぶ調子を取り戻しているようだった。あたしもある意味桂子の共犯になってしまっていたので、少しだけ安堵する。
それより、だ。あたしは捜査をしなければならない。そのために、今日学校へ来たようなものなのだ。
昨晩寝ずにずっと脳内写真を見ながら推理を重ねたところ、一つの疑問に到達した。
疑問、つまりそれは謎だ。謎は真実を覆い隠す。逆に言えば、謎を解けば真実が自ずと見えてくる。疑問の発見、それは真実への一歩前進を意味するということだ。
では、説明しよう。謎の提出だけだから間違う要素がなくて安心だね。
思い出すのは涼子を発見したときの状況だ。
あの時、あたしは鍵が掛かっていないのに閉じているドアを不自然に感じ、押し開けようとしたがどういうわけかそれはならなかったのが第二の事件の発端だ。
結局それは涼子の身体(具体的には足)が便器との間に挟まり引っ掛かっていたからなのだけれど、ここで満を持して疑問が浮出するのだ。
涼子を殺した犯人は、個室からいったいどうやって脱出したのだろうか?
まずドアから出て行くのは不可能だ、と思う。
どう頭の中で涼子の身体と犯人とドアをひねくり回しても、犯人がドアを開いて出て行って閉めた後、今度は二度と開かないように涼子の身体を挟み込むということはできなかった。死んでしまえば、人はもはや動かないんだから。
ならば、上部のスペースはどうか?
確かに普通体型の人間一人分ぐらいなら通り抜けられるぐらいの空間はあいている。多少の運動神経さえあれば、十分可能だ。
それにしても、やっぱりおかしい点は存在するのだ。
うちの学校の女子トイレの個室は狭い。あたしは飛び上がる際に数歩だけでも助走で勢いづけられたのだけど、個室の中では絶対無理だ。垂直ジャンプしか出来ないから、かなりの高さを乗り越えなければならない。そんな大変なことをするぐらいなら、便器の蓋を閉じてそこを足場にして高さを稼いだほうが圧倒的に楽だし、きっと誰でもすぐに思いつくだろう。
しかし便器の上には涼子の身体があった。その上に乗るのはさすがに足場が不安定過ぎるし、身体は床に落ちてしまうに違いない。上手くバランスをとれたとしても、なんらかの痕跡(制服に足跡や皺ができたり)が残ってしまうだろう。しかし、あたしが見た限りではそんなのはなかった。綺麗な後ろ姿だった。
決して脱出は不可能ではない。けど、極めて不自然なのだ。どうして犯人は、涼子をああいう形で現場に残したのだろう。こういう言い方はなんだが、死体を床に落としてしまえば簡単にドアから外へ出ることができるはずだ。
犯人はなぜ、困難な道を取ってまで彼女の身体を便器の上に残したのか? それを解くことができれば、自然と犯人の姿が朧気に見えてくるかもしれない。
だが、そこで行き詰まってしまう。今のあたしには謎の導出で限界だ。
それならどうする?
ヒントを探すのだ。ヒント。謎の難易度を下げるんだ。
とある休み時間、あたしは現場のトイレに向かった。
警察はいったいいつまで現場に居座るのか。そんなことは知らなかったけど、運良く今回はもう引き上げてくれていた。学校の中だからというのもあるのかな。
といっても普段と比べれば明らかに人影がないようだった。特に、化粧やら身だしなみを確かめるためだけにトイレに立ち寄るようなオシャレ系女子は完全に絶滅してしまっていた。こっちからすれば大助かりなんだけどね。
すぐ引き上げたといっても、後始末はきちんとしてくれたらしく、まるで昨日のことが夢だったかのように綺麗で綺麗なトイレとなっていた。血の臭いなど欠片もしない。正直ちょっと安心した。
でも、精神的にはやっぱりクルものがあった。涼子が倒れていた一番手前の個室を開いたとき、あたしはそこに死体を幻視した。うっと息が詰まる。
でも、幻は幻だ。目の前にあるものだけを見なければならない。踏ん、張れ!
全体的にピンクを基調とした造りとなっている個室は、まさに女子トイレオブ女子トイレ。床のタイルから壁やら天井やら便器やら、なんら個性が見当たらない普通のトイレだ。
閉じられた便器の蓋はツルツルとして傷一つない。念のため開けてみて中も確かめたが同様である。さっき仮説として立てた、『便器を足場にした』という証拠は残念ながら出てこない。
駄目だ。辺りを見渡しても何も見えてこない。意を決して這うように床へ顔を近づけてみたが、なんかすっごい嫌な気持ちになっただけだった。
半ば諦め、どさりとトイレに腰掛けたその瞬間だった。
「あ」
思わず声が出た。見つけた、かもしれない。かけがえのない手がかりを。
便器に座るその瞬間。我慢に我慢を重ねた硬直から解き放たれた人間が目にするのはもちろんだけどドア。
その上方、手を掛けられるふちのところに傷があったのだ。
傷、といっても至って小さなものだった。ちょうど真ん中が薄らと削れている。
後になって考えてみれば、経年によって自然に出来た傷と見た方が自然だ。でも、今のあたしにはそれが闇を解き放つ聖痕であるかのように思えた。
慌てて立ち上がり、その聖痕に触れてみると指に黄土色の粉が薄らと付着した。
これ、なのか? これがヒントなのだろうか? 謎を解くために欠けていたピースなのか?
結局、トイレでの収穫はこれ一つだった。でも、それは確かなる収穫に違いないとあたしのどこかに囁くものがあったのである。
あたしは駆けている。そして、駆けている。まだ、駆けている。駆けて、駆けて、駆けまくっている。駆けている。まだ駆……駆けて……。あ、やばい。呼吸のリズムが乱れ……。一気に辛さゲージが急上昇。息が荒くなる。胸に多大な圧迫感。視界が赤く染まっていく錯覚。汗の大洪水。薄らいでゆく意識。
あ、あ、あ、あ、あ。
そして全身の力がみるみる内に抜けていった。同時に湧き出る安堵感。苦痛は乗り越えた。あーしんどかった。と、
ドサリ。その音は聞こえなかったけど、そんな感じであたしは倒れた。
「あ、やっと目が戻った」
気がつくと、あたしは校舎の日陰で横になっていた。枕としてタオルが何層にもなって頭の下に敷かれていた。けれども首より下は冷たく硬いアスファルトの上だ。寝心地は悪いが、火照った身体にひんやりとした刺激は心地よかった。
「まーったく、一年生期待の星がこんなんじゃ困りますなあ」
声の主は、陸上部マネージャーの笹岡あかりだ。彼女曰くぽっちゃり、客観的にはグラマラス。陸上部には向かない体型をした彼女は、その体型故か、あるいは単純に運動が苦手だった故か、入学当初から選手として陸上部の一員にはならず、選手達を影からサポートする役割を担い、満足な日常を送っているようだった。
そんなあかりはあたしのすぐ脇に体育座りして、ちゃかちゃかとせわしなく動き回る部員の姿を眺めている。
「あたし……」
「過呼吸。ふらふらふらーってなってドサリって倒れちゃったのよ。よかったよ、周りに他の人がいなくて」
あかりはほい、とスポーツドリンクを投げてよこした。あたしは慌てて起き上がり、そのキャップを回し開けて口に流し込んだ。
ちょっと温くて甘い液体が喉をぬらぬら通っていく。爽快とは言えないが、心地よい感覚。
「なんか、悩みでもあるの? ほら、過呼吸って精神的な部分も関係してるらしいしさ」
まだ一年生にも関わらず、すでに部内の母としての貫禄を得ていたあかりは流石に鋭かった。
「まあ、ね。ちょっと考え事」
「……昨日のことでしょ」
「え? どうして」
やっぱり鋭い。
「学校中その話題で持ちきりだもん。美彌が第一発見者だってことも聞いたよ。たぶん、本人の前ではみんな控えてるんだろうね……あ、私言っちゃった」
慌てて口を押さえる。部内の母は結構抜けてるところがあった。男子部員からは天然キャラとしてウケがよいようである。たしかに完全無欠の人間よりはちょっと欠点があったのほうが可愛く感じられるよね。それは解る。
「気にしないで。あたしは大丈夫だから」
あかりは安堵したように肩をすとんと降ろした。
「そっか。私も三笠さんと同じクラスだから、だいぶショックだったよ。ほとんど接点はなかったけど、やっぱり身近な子が死んじゃうのは悲しいね。大泣きしちゃった」
「同じクラス……そうだったんだ」
思わぬ偶然に目を丸くする。でもまあ、一年生だけで男女合わせて二十人は在籍してるからそりゃ一人は居てもおかしくないよね。
「でも、一晩寝たらケロっとしちゃったから、私結構薄情者かもしんないな」
自嘲気味な薄い笑みを浮かべるあかり。
事件当日のことを訊かなければ。まだまだ真実を発見するには情報が足りなすぎる。推理力も足りないかもだけど。
とはいえ、非常にデリケートな問題だ。探偵もどきのことをしてると悟られたくはないし、要らぬダメージを与えてしまう危険もある。慎重に言葉を選ばければならない。
次の言葉を色々考えていると、あかりの方から話題を進めてくれた。
「でも、やった奴誰なんだろ。絶対許せないよね」
唇を噛みしめる。まだ「ケロッと」しているようには見えなかった。
「……そうだね。侵入者はまだ見つかってないらしいけど」
「あー嫌だなあ。もしかして近くに人を殺すような人間がいるかもってことでしょ。うちのクラスにはいないけど」
最初の言葉にあたしの心はズキリと疼いた。でも、続く言葉が気になり一瞬にして吹き飛ばされた。
「クラスにはいない? なんでわかるの」
「だってさ。三笠さん、あの日早退したんだよ。二限目の授業中に。うちのクラスメートはその時全員教室に居たから、有り得ないってこと」
早退! まったく知らなかった。だとすると色々前提というか、思い込みというか、今まであたしがしていた推理がガラガラ音を出して崩れていった。
「たしかにあの日、すごい調子悪そうだったんだよね。といっても、先生が心配して声掛けるまで気付かなかったんだけどね。席だいぶ離れてるし……ってのは言い訳だけどね」
「そうだったんだ……」
ということは、仮病説は却下されるということか。犯人が涼子を手紙かなにかでトイレに呼び出し、個室の中にでも隠れてやり過ごし、不意打ちで後ろから襲いかかった……という推理が思い浮かんだが、『すごい調子悪そう』と思わせられるほどの演技をできるとは思いにくい。そもそも、呼び出しを受けるぐらいなら早退じゃなくてトイレに行くとでも言ってそっと抜け出せばいいことなのだ。
たまたま早退したから涼子が狙われる羽目になったってことなのか。つまり、犯人からすれば特段涼子に対して絶対的な殺害動機を持っているわけではないということになる。
! いや、いやいやいや。動機がどうとかいうよりも、もっと確かに犯人を絞り込めるじゃないか。
不在証明だ。
ミステリー小説が苦手なあたしだけれど、それでもこの言葉ぐらいは知っている。動機なんてのは所詮外からは見えない心の問題だ。あたしがなぜ逃げ出したかったのかということぐらい、不確実で不可解な問題だ。そんなのを考えるぐらいなら、現実的に犯行が可能かどうか、つまりアリバイを真っ先に検討するべきじゃないか。こんなことにも気付かないなんて。つくづく探偵はあたしに合ってない。
「? 美彌、どうしたの」
「大丈夫。ごめん、もうちょっと休むね」
「う、うん」
よほど凄い顔をしていたのだろう、あかりは唖然とした様子でこちらを見つめる。でもお構いなしだ。考えろ、あたし。
そして思い出す。今までは昼休みに事件が起きたという先入観があって、すっかり脳味噌から消えてしまっていた記憶。それは、絶望的な記憶だった。
涼子が早退したという二限目の授業中。あたしのクラスでも、トイレを口実に授業を抜けた生徒がいたのだった。それは……。
桂子だった。
まさか。そんなはずはない。たまたまだ。どうして桂子に涼子を殺す必要がある? いや、誰も良かったのか? そっちのほうが有り得ない!
あたしは強くそう思い込もうとした。でも、駄目だ。まるで天啓に打たれたかのように、思考が桂子を犯人前提として進んでいく。
い、いったん中止だ。犯人がどうこう言っても、結局あの半密室問題が立ちふさがる。桂子が犯人だとしても、他の誰が犯人でも、どうしてどうやって密室から脱出できたのかがわからない。まずはそこからだろう。
脳をリセットしようと、練習風景に目を転じた。いつの間にか、あかりはそっちに居て部員に向け声かけを行っていた。
運動場は様々な運動部の共用となっていて、その中でも陸上部は部員数の多さとそこそこの実績が相まって比較的広めに使わせてもらえている。
一番こっち側、つまり校舎に近い方には短距離走用、その少し奥には長距離用の楕円形のトラックがあり部員は赤い顔をして必死に汗を撒きながら走っている。もちろん、あたしもその中の一人だ。
長距離用トラックの内側には走り高跳び、棒高跳びなどのフィールド競技の練習をやっている。一見すると人間離れしたような高いジャンプ、凄まじい飛距離で飛んで行くボールなどなど……。派手で目が楽しいのはこっちの方かもしれない。もちろん競技間に優劣なんてのはないけれど。
トラックの外側、運動場の隅っこのほうでは走り幅跳び、立ち幅跳び、砲丸投げなど特別な土の上での競技である。これ以上ないほどに上半身を反らし、その反動で信じられないほど前方に跳躍する選手が目に入る。
一瞬、身体が震えた。走りたい、ただ純粋に、走りたい。逃げ出したいというのではなく、走りたい。そう、思った。
そして。
あたしは一本の線の形をした解答を手にした。
線……いや糸だ。細い細い、今にも途切れそうな細い糸。かろうじてその寿命を長らえさせているのは、やっぱり動機だった。
それは、たしかにあたししか解けないものに違いなかった。
※※※
部活終了後、あたしは教室に戻り自分の席の隣に腰掛け、ドアに付いたガラスから廊下を見やった。
予想通りだった。そこからは、女子トイレの入り口を容易に視認することができたのである。
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