第2話 血と涙のインターバル

 次にタイミングが訪れたのは、それから大体一週間後のある日のことだった。


 ちなみにあたしや桂子が遭遇したおっさん殺人事件の続報は、どこにも入ってきていなかった。さすがの警察も、容疑者の絞り込みに相当苦戦しているってことなのだろう。

 よって、これからのことは事件とはまったく関係のない話だ。


 きっかけは夜、我が家で起こった。

 その日は、地方銀行で働く父親が珍しくノー残業で早めに帰ってきていた。

 両親と妹、家族全員が揃って夕食を摂り、その後デザートのぶどうを早い者勝ちで貪っていたその時である。ほろ酔いで顔を赤くした父が、何気ない調子であたしに言った。


「美彌、大学のことは考えているのか?」


 軽い感じの台詞だった。今はまだ高一の冬。聞いてはみたが、父自身そこまでまだ深刻には考えてなかったってとこだろう。

 でもあたしは即答する。


「ううん。というか、大学は行く気ないかな」

「え?」


 呑気だった父の声の調子が一変したことに、あたしは全然気がつかなかった。

 あたしの通っていた高校は、県で一番とは言えないまでも大学進学率ほぼ百パーセントのそこそこ偏差値が高い進学校もどきだ。


「東京に出て、働きたいなって思ってるんだ」

「それ、本気で言ってるのか」

「え? 本気だけど……」


 父は黙り込み、次の言葉を探しているようだった。不穏な空気を察知したのか、食器を洗っていた母もこちらへやって来た。中学生の妹は、傍観を決め込んだようにぶどうをつまみながらスマホをいじっている。

 やがて重々しく口を開く父。


「東京で、したい仕事があるのか」

「何をするのかっていうのはまだ考え中。とにかく、東京に行きたいなって」


 東京というのは方便である。あたしはどこか特定の場所へ行きたいという欲求はなくて、とにかくどこか離れた場所であえて孤立してみたいと思っていた。でも、そんなことを正直に言えるはずもなく、なんとなく東京の名前を出しておけば、口実にぐらいはなるだろうと考えての発言だ。

 だが、父にはまったく通じず、むしろムッとしてしまったようだった。


「東京に行きたいのはいいが、それなら東京の大学へ進めばいいだろう。このご時世、高卒、それも普通科の出で、ちゃんとした仕事に就くのは難しいぞ」

「いいよ、別にちゃんとした仕事じゃなくても。お父さんが『ちゃんとした』って言うのは、正社員ってことでしょ? あたし、派遣でもバイトでもなんでもいいよ。とにかく、毎日を生きてけるだけのお金を稼げさえすれば。心配しないでよ、お父さんお母さんに迷惑かけるようなことはしないから」

「迷惑とかいう問題じゃない!」


『迷惑』というワードが父の琴線に触れたのか、突然声を荒げた。あたしは思わずビクリと背中を跳ねさせる。

 はっと気を取り戻した様子の父は、つとめて冷静な態度を造りながら続けた。


「お前の是が非でも東京に行きたいって気持ちは父さんもわからなくはない。いつの時代も、あれは憧れの土地だからな。けれど、俺には解らないんだ。どうして、大学に行きたくないんだ? 勉強が嫌だからなのか?」


 そう言われると、言葉に詰まってしまう。もちろん、勉強が好きってわけではない。けれど、大学進学を放棄したくなるほど嫌いってわけでもない。そもそも、そこまで嫌いだったら今の高校に通っているはずもない。あたしはまだ一年生なのだから。


「……違うよ。でも」

「いいか、美彌。別に父さんは無理矢理お前を大学に入れたいってわけじゃない。けどな、よーく考えてみるんだ。就職はいつでもできる。でもだ。大学というのは――」


 また、始まった。親あるあるの説教。こうなるともう聞いていられない。

 更に追い打ちせんと加勢に入ってくる母。


「お母さんもお父さんが正しいと思うわ。お母さんは大学に通ったことはないけれど、めっちゃくちゃ楽しいって聞くし、お父さんも学費や家賃ぐらいなら払ってくれるから。美彌なら、東京の大学ぐらい受かることできるわよ。だって、美彌は――」


 あああ。あたしは耳を塞ぎたくなった。駄目だ、駄目なんだ。

 二人とも言っていることが正しいんだ、たぶん。でも、それは一般論的な正しさなんだ。あたしは、『一般』じゃない。『あたし』なんだ。たとえ、生まれてこの方ずっと側に居てくれたお父さん、お母さんであっても、『あたし』を理解することなんて、できないんだ。

 悲しい。悲しかった。どうあっても、相互理解は不可能であることを悟る。

 ちらりと、妹の方を見る。幾分、居心地が悪そうに身じろぎしながらやはりスマホを見つめている。年齢も、立場も、関係ない。あたし以外のあたしはあたしじゃない。悲しいほどに、それは自明の理であった。

 もう、逃げ出してしまいたかった。でも駄目だ。『逃げちゃ駄目だ』じゃないけど、逃げるわけにはいかなかった。

 今ここから立ち去って、そのまま先週みたいに外へと飛び出してしまえば、二人は『俺達が言い過ぎたせいで』なんて考えてしまうに決まってる。できれば、そういう思いはさせたくなかった。あたしは『理由もなく』消滅してしまいたかったのである。

 だから、耐えた。問いかけに対してはしっかりと返答し、時には頷いた。父も母も、あたしのことを思って言ってくれているのは痛いほどに判った。だから、尚更辛かった。ほんとに、あたしは親不孝者だ。

 ようやく話が終わると、あたしは納得するふりをした。色々考えてみるよ、と明るく言い放って、むりくりに笑顔の形に唇を歪めた。親と子は、和解したのである。

 解放されたあたしは、自分の部屋に戻ると、電気を点けないまま暗闇の中で決意の言葉を胸中で唱えた。


 明日、明日だ。今日はさすがに動機を悟られる危険がある。明日の夜、それが、わたしにとってのベストタイミングだ。間違い、ない。


※※※


 次の日の学校を、あたしは悶々として過ごした。

 考えてみれば、もしかしたらこれが最後の高校生活となるかもしれないんだ。それに気づいてしまうと、なんとなく一つ一つの授業やら休み時間やらがかけがえのない時間に感じられ、物悲しい気持ちになった。

 隣の席に座っている桂子にも何か伝染するものがあったのか、時折こちらの方を向いて、神妙な表情をすることがあった。ごめんね、今日でお別れなんだよ。

 体感時間はおおよそ数十倍。やっとのやっとで辿り着いた昼休み。

 あたしと桂子はいつものように机を向かい合わせにして弁当を広げる――のだが、今日はたまたま弁当を作ってもらう時間がなかったらしく、購買へと急いで向かっていった。購買に売っているパンは需要と供給のバランスが合ってなくて、チャイムと同時に教室を飛び出すぐらいじゃないと、すぐに売り切れてしまうのだ。あたしも入学すぐ、母にいつもの手作り弁当を断って購買へと向かったところ、わずか十分で売り切れてしまって午後をずっと餓死寸前で過ごすことになったという憂き目に遭ったことがある。ちょっとは入荷、増やしてくれよ。そうすればもっと稼げるだろう。

てなわけで、あたしは一人で食べ始めるのもあれだと思って、今夜の旅立ちにおける準備物をあれこれ考えていた。前回は衝動的な出立だったから、今になって思えばガバガバもいいところだった。

 今日は部活を休んで、ホームセンターへ色々サバイバルグッズを仕入れに行こうか。なんて考えると、遠足前夜のような高揚感が湧き出てきてしまう。いかん、いかん、そんな気軽なことじゃないんだってのに。

 十分も経たない内に戻ってきた桂子は、お望みのパンを手に入れたと見えて、ビニール袋を小刻みに振りながら戻ってきた。はあはあと荒い息をしている。それほどまでに、ガチな戦いってことなんだろう。

 だがすぐに席にはつかず、パンを机に放り投げると申し訳なさそうに手のひらを合わせた。


「ごめん! ちょっとお花を摘みに」

「花摘み? ……ああ、そゆことね。ちょうどよかった、あたしも行く」


 あたし達は並んで教室と同じ階にあるトイレへと向かった。

 とっくに昼食時間となっているせいか、手前に上履きが一つも置かれていないことから見て、先客はいないようだった。気を利かした桂子が一番手前の個室を通り過ぎたため、あたしはそこに入ろうとした。


「あれ?」


 そこには違和感があった。

 この学校の女子トイレの個室は(男子のほうも一緒だと思う……たぶん)、ふだんドアが奥に開いた状態なのがデフォルトとなっていて、使用者は中に入るとアルミでできたバーを横にスライドさせることでつっかえ棒となり、鍵が掛かるという仕組みになっている。まあ、トイレの個室としてはベタなものだろう。

 だが、あたしが入ろうとしたその個室のドアは閉まっていた。ということは、誰か中に入っているのだろうという簡単な推論が立つのだが、更に奇妙なことが。

 鍵が掛かっていないのだ。

 大体腰の高さ辺りに、さっき言ったバーの裏の一部分が見えるように小さな穴が空いていて、鍵が掛かっていれば赤色、いなければ青色となるのだが、現在はそこが青になっているのだ。

 ドアが閉まっているのに、鍵が開いている。普通にある部屋の扉とは違い、トイレにおいてはそれが大いなる矛盾となるのだ。

 あたしは不思議に思いながらも、特に深刻になることはなく扉を押し開けようとした。

 が、開かない。中で何かが詰まっているような、そんな感覚なのだ。

 途方もない胸騒ぎ。騒ぎどころか、大暴れな胸。暴れるほどないけど!

 ドアの上部、一メートルぐらい空いたところに遮二無二飛びつく。そして、全身全霊の力で身体を持ち上げ覗き込んだ。

 その瞬間はほんの数秒にも満たない瞬間だったけれど、あたしの眼はまるでカメラのシャッターを切ったかのように視野すべてが脳裏に焼き付くことになった。

 制服。あたしが着ているのと同じヤツ。つまり女の子だった。当然かもしれないけど。俯せになっているから誰かは判らない。背中の部分が湿っている。黒色の生地だから判別がつきにくいが、おそらくは血だろう。彼女は上半身を洋式トイレに乗せ、両腕はだらりと垂れ下がっていた。


「ど、どしたの、美彌」


 桂子の不安そうな声。

 告白する。あまりにも不謹慎なのだが、あたしはその時こんなことを考えていた。

 また、あたしは捕まってしまったのだ、と。

 あの時のおっさんの死体が、目の前のそれと絶妙に重なり合っているような幻覚が見えた。


※※※


 迷ったけれど、直接自分のスマホで110番に電話した。とにかく早く警察に伝えなくちゃいけないような気がしたからだ。今は昼休みだから、教師に伝えようとすれば少し離れた位置にある職員室に駆け込まねばならなかった。

 およそ五分ぐらいでパトカーはやってきた。誰一人サボることなく、まるで軍隊のように足並み揃えて階段を駆け上ってきて、あっという間にトイレは制圧された。

 第一発見者であるあたしと桂子は真っ先に事情聴取を受けた。学校の中での殺人事件というのはやはり非常に珍しいらしく、数人の刑事はいささかやりづらそうな様子だった。

 やり手らしくキビキビとした態度の刑事が陣頭指揮を取っていて、あっという間に被害者の身元を確認して、あたし達に教えてくれた。

 彼女は一年生の三笠涼子であるという。

 学年は同じであったが、あたしはまったくその名前を知らなかった。ただ、桂子は所属している新聞部での活動の繋がりがあって、文芸部に所属していることだけは知っていたらしい。基本的に無口な質で、直接口を利いたことはないとのことではあったが。

 あたし達の反応を確かめると、今度はそっちの番だと言わんばかりに、刑事はあたし達を質問責めにした。

 さっき撮影した脳内カメラの写真を確認しながら質問に答える内に、思い出したことが一つ。といっても、これは細かく現場を観察すれば一目瞭然ではあるので刑事に話すことはしなかったが。

 被害者の彼女の手首と足首に、赤色の傷らしきものが出来ていたのである。

 傷? いや、あれは痕だ。縄状の物で強く縛られた時に付くような痕。すると、殺される寸前まで涼子は身動きを取れないようにされ、どこかで監禁でもされていたということなのだろうか。

 十分ほど後、あたし達は解放されて教室へと戻された。

 待ち受けていた担任によって昼からの授業の中止が言い渡され、警察から帰宅の許可が出されるまでは教室内で自習となった。普段ならば自習イコール実質自由時間ということで、男女共同大歓声となっていたろうが、もちろん今は誰一人そんなことはしない。堅く閉じたドアの中で半ば密室状態となった教室は、涼子を知っていたり単に恐怖で怯えていたりする生徒の悲痛な泣き声で満たされていた。

 外では、時折刑事らしき人間の足音が忙しく行き交う。きっと外部からの侵入者を捜索しているのだろう。事情聴取を受けているときに、そんな感じの会話を交わしているのが聞こえたのを思い出す。

 それにしても、あの背中の血……。

 あれもおっさんの時と同じくナイフによるものなのだろうか? だとすると……。

 いや、そんなことはありえない。あれとこれとは絶対に無関係だ。あたしが一番そう思っていなければいけないというのに。ほんと、ダメダメだ。

 桂子の方をチラリと見ると、さすがに動揺したと見えて幾分か顔を青ざめさせていた。いくらミステリー好きとはいえ、実際に身近な人間が殺されるというのは堪えるものがあったのだろう。比べるのは悪いけれど、おっさんの時とは段違いに衝撃が大きかったに違いない。

 やがて、女性の刑事が教室へとやってきた。我々一同に向かって丁寧に前口上を述べた後、生前の涼子を知っている生徒に挙手を求め、その一人一人を順番に教室の外へと呼び出した。

 警察がやってきてからかなりの時間が経過していた。女刑事の雰囲気から察するに、外部からの侵入者は見つけられていないのだろう。

 もし侵入者の存在がなかったとすれば、当然だが犯人はこの学校の教師か生徒となる。とすれば、涼子を殺害する動機の有無が容疑者を絞る大きな要因になる。そう、警察は考えたに違いない。

 手を挙げたのは五、六人だった。いったいどんな質問をされているのだろうか。もしかすれば、よく刑事ドラマで見るように、端から疑ってかかるのかもしれない。教室ではあの女刑事もそこまで威圧的ではなかったが、眼光の鋭さは印象的だった。知人が酷い目に遭った上に、あの眼に一対一の尋問を受けなけれなならないのはさすがに同情の念を禁じ得なかった。

 そうして、やはり青ざめながら全員が帰ってくるとようやく女刑事より帰宅の許可が出された。あたしはてっきり荷物検査でもするのかと思ったが、それはなかった。まあ、もし全員の鞄を調べるとすれば一年生だけでも百人以上は在籍しているから時間の面でも労力の面でも非現実的ってことなのだろう。

 幸いなことにこのクラスには容疑者たり得る生徒は居なかったようで、あたしは内心胸をなで下ろした。


「では、皆さん気をつけて帰宅してください。不審者が万が一潜んでいる可能性もあるから、できるだけ二人以上で帰るように」


 室長の男子が挨拶の号令をしてからも、なかなか帰路につく者はなく、そこここで内緒話染みた調子の会話がなされた。

 どうしようかと迷っていると、隣に座っていた桂子がぬらりと立ち上がり、真野という女子の元へと向かうのが見えた。

 新聞部としての使命感からか、あるいは記者志望の宿命か。いまだ神経を衰弱させながら、それでも初の本格的な殺人事件(おっさんの件は通り魔である可能性が濃厚だということで、食指が伸びないらしい)の情報収集に動きたくてたまらないようだ。

真野里緒は涼子と同じく文芸部に所属しているから、そっち方面で少しでも被害者についての情報を手に入れようと目論んだのだろう。その桂子の行動を不謹慎だと批判するのは簡単だけれども、本音を言うとあたし自身興味があることは否めなかったので、そっと後ろに付いていくことにした。

 いかにも何気ない風に桂子は里緒と接触した。


「里緒、大丈夫?」


 どう見ても、大丈夫そうには見えなかった。女子にしてはクールな性格をしている里緒なので前後不覚に乱れるとまではいかなかったが、それでも席についたまま黙って両手で顔を押さえていた。

 それでも、桂子の存在に気づくと慌てて涙をぬぐい取り、気丈な態度で振る舞った。


「……うん、ありがと」

「里緒ちゃん、三笠さんと同じ部活だったよね。辛いよね」

「あれ? ……ああ、そっか、新聞部か。私に話しかけたのも、取材の一環?」


 不意に図星を食らった桂子は慌てふためいた。


「え、あ、いや」

「別に、いいよ。逆の立場だったら、私だって話聞きたくてうずうずしてたと思うもん」

「そんなこと……」

「そんなこと、あるよ。現に、ほら」


 里緒が指差す背後を振り返ると、少し遠巻きにあたし達を見守る生徒が何人かいたのだった。

 これにはさすがにあたしも桂子も苦笑せざるを得ない。

 里緒はゆっくりと証言し始めた。


「正直、涼子とは部活でもあんまり話したことなかったんだ。もちろん、活動の関係もあったから、まったくってわけじゃないけど」

「え、そうだったんだ」

「私も涼子も、そんな社交的なタイプじゃなかったからね。……でも、涼子は特に無口だったな。まあ、本好きなのは間違いなくて、放っておくと下校時間になってもずっと物語に没頭し続けてた思い出。だから先輩がよく、三笠は言葉を頭に入れてばかりで出さないから、いつかパーンって破裂しちゃうんじゃないかって……やばい、なんか、また、泣けてきた」

「む、無理しなくていいよ!」


 あたし達は慌てたが、里緒はそれでも無理矢理に声を絞り出した。それは取材協力というよりは心中をそのまま言葉に変換しているような、そんな独白だった。


「でも、訳分からないよ。なんで、なんで涼子が殺されなくちゃいけないの? 無口だったけど、ほとんど話したことなかったけど、私、あの子のこと、嫌いじゃなかった。普通の子とはどこか違うっていうか、太い芯を持ってるっていうか、しっかりとした女の子だったよ。ビブリオバトルの時も、――自分の好きな本を紹介しあうことね――短かったけど説得力ある言葉で、思わず惹きつけられちゃったもん。涼子が、誰かに恨まれてたなんてあり得ないよ。警察も、絶対間違ってる」


 いつもの冷静さは完全に消え失せてしまい、机の上に伏せてしまった。


「ごめんね、里緒。ほんと、ごめんなさい」


 桂子は声を震わせながら頭を下げた。涼子はそっちを一瞬たりとも見ていなかったにも関わらず、何秒も深々と下げ続けた。いつもはお調子者で滅多にへこむ姿を見せない桂子のお辞儀は、あたしの心に深々と突き刺さった。



 里緒の側を離れるとまもなく、陸上部の先輩が教室にやってきた。クラスにいるあたし含めた数人の部員を呼び寄せると、今日と明日の朝練は中止だという旨、そしてそれに伴う練習スケジュールの変更、精神的にきつければ無理して練習に参加することはない、ということを伝えるとすぐに去って行った。

 たしかあの先輩は、顧問の教師が受け持っているクラスだったはずだ。で、あるが故に使いっ走りをさせられているのだろう。お疲れ様の一言だ。

 練習が休みなことに半ば安堵しながら席に戻ると、桂子の姿が消えていた。

 学内新聞の号外を出す準備でもするために、部室へ行ってしまったのだろう。以前から大きなニュースがあった放課後、桂子の姿は瞬間的に消滅していた。今回については正直どうかとは思うけど。

 というわけで、あたしは一人帰宅の途についたのであった。先生が言った忠告のことは完全に頭から離れていた。



 帰り道。あたしはまったくの逆方向へと歩を進め、いつかの海へと訪れていた。

 今までまったく知らなかった涼子という女子高生。そして、ここらではちょっとした有名人だったらしいおっさん。無口だったけど、太い芯を持っていた涼子。音痴なのに大声で歌いながら街中を練り歩くおっさん。どちらも、死によってあたしと出会った人。日常から逃れようとしたときに出会った人。

 そして、どちらもあたしが第一発見者だったのだ。

 里緒の話を聞いて、やはりこの二つの死は繋がってなければおかしいと思った。論理的ではなくて、あくまでも予感に過ぎないけれど。

 だがその予感を突き詰めていくと、この惨劇はまだ続くのではないかという気もした。あたしがどこか遠くへ行こうとする度に、目の前に死体が現れ邪魔をするのではないか。

 冷静に考えれば、あり得ない。あり得ないけれど……。

 ふと、何となく周りを見渡していたあたしの視界に鮮やかな色彩が映り込んだ。

 そこにあったのは、花だった。ぽつん、と寂しそうに風に吹かれる花だった。

 ああ、そうか。この位置ででおっさんは殺されたのか。血とか、砂のへこみとか、おっさんを示す痕跡はなに一つなかった。ただ、花だけが、おっさんの影の上に乗っかっているのだ。おっさんと花。世界で一番縁遠い組み合わせじゃないか?

 手向けの花が置かれているってことは、誰かおっさんを想っている人が存在するってことなのだろう。奥さんか、お子さんか、親御さんか、はたまた二度と歌を聴けなくて寂しくなった近所の人か。

 そう考えたとき、あたしの胸を不思議な感覚が襲った。痛いような胸くそ悪いような、それでいて切ないような。

 考えなければいけない。決意した。妄想かもしれない。それでも、あたしは考えなければいけない。すべてを暴かなければならない。

 もしも、二つの殺人に関連性、つまり、謎があるのだとすれば、それはきっと、あたしにしか解けない謎なんだ。


 すべては、あたしから始まったのだから。

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