あたしにしか解けない謎

瀬田桂

第1話 始まりはクラウチング

 この瞬間すべてが0となったデジタル腕時計の表示は、あたしのこれからをも示しているような気がした。

 誰にもばれないように慎重に家の外へ出ると、あたしはクラウチングスタートのポーズに移る。そして心の中でカウントダウン。

 さん、に、いち……。

 ぱあん!

 あたしの筋肉は限界まで縮みきり反動でぶるりとわずかに震えると、まるで風船が弾けるような勢いで全身を押し出した。もちろんすべてが自発的なものなのだけど、それでいてなんとなく運命という名の何かに強く押し出されたような感じもした。

 どういうわけだろう。その日、あたしは突然にあたしに絡みついていた鎖が耐えられなくて、抜け出したくて、壊したくて。

 だから日常を捨てることに決めたのだ。

 スマホやら生徒手帳やらなんやらをすべてベッドの上に放り出して、現金だけが入った財布を持ち真夜中の世界へと飛び出した。その瞬間は、まるで夢の中のような開放感だった。

 あたしはとにかく走った。今居るここが、よく知りすぎているここであることを忘れるために、ただひたすらに、光景を後ろへとびゅんびゅん吹き飛ばしまくった。師走の寒さに口から出る息は白く凍る。

 涙が出た。目元が冷たい。どしてだろう。悲しくないのに、涙が出た。これが、感動の涙ってやつか。『全米が泣いた』とか『涙なしには見られない』とかいう謳い文句の映画でも、決して泣かないことを自慢にしてきたのに。

 このまま、どこどこまでも走り続けられるような気がした。陸上部で長距離をやってるから、体力には自信がある。

 ……陸上部だって。そういうのを捨てたいから走ってるというのに。頭を切り換えねば。

 あたしはあたし。誰の娘でもなく、誰の姉でもないあたし。女子高生でもないし、コンビニバイトでもない、ちょっと走るのが得意なだけのあたし。あたしのこの身体の中に息づく意識。それが、あたしだ。他のすべては、誰かに与えられたものにすぎない。そう気づいたから、あたしはそれらを捨てることに決めた。だから、もちろん、陸上部であることも捨てたんだ。

 だんだん景色に光が増えてきた。どこかは分からない(分かりたくない)市街地に出たことに気づく。信号付きの横断歩道が増えて、歩行者や車も増えて、だんだん走り続けられる時間が短くなってきた。別にそれでも構わない。走ることによって得られる爽快感はあくまでも副次的なものなのだから。大事なのは、ここがどこなのかを意識しないことだ。

 縦に並ぶ大通りを何本も横切った。迷うことなく、ただ真っ直ぐ進んだ。目的地は決めてないけれど、向かう方角は決めていた。

 なぜならそっちには――。

 しばらく進むと、再び灰色が視界の大部分を占めるようになった。灰ってよりは墨色かな。あたしは夜遊びをするような不良じゃなかった(ここ過去形ね)から、こんなに夜の住宅街が淋しい世界だとは知らなかった。うん、なんか、悪くない感じ。これでこそ家出って感じ。闇の中を独り征くあたし。

 どれぐらい走っただろうか。さすがに息が切れだしたそのとき、そびえ立つ塀はさっと脇に消え去り、眼前に目指していた光景が広がった。

 海。一面に広がる海。少しだけ欠けた月がそこに空のやつと合わせて二つ浮かんでいて、今日は月が見える日なのだと初めて気づいた。

 昼の海のような透明感はなくなり、大きなカーテンを敷き詰めたような固体じみた黒い波。ぐねぐねとうねる暗黒のカーテンは、そうであってもあたしの心に不思議な爽快感を与えてくれる。押しては引いてく水飛沫の音が、闇や寒さを切り裂いてあたしの耳に届く感触は、この上ない非日常感に満ちていた。

 感動して暫しの間じっと見つめていたが、ただ突っ立っているのも寒さが体に染みる。あたしはゴミだらけの海岸にいざ降り立とうと、背の低いコンクリートの塀に飛び乗った。


※※※


 そして……。


※※※


 なにか、がそこにあった。

 何だろうと眼を凝らす。

 あ。

 我に返った。

 金縛り。あたしのすべてが固まった。

捕まえられた、見つかった、そんな感覚。

 なにか、とは、夜の闇より更に黒い大きいゴミのようだった。

 ゴミではない。抜け殻だった。

 人間の死体だった。

 俯せになり頭を向こう側に向け、右腕を前の方に伸ばしてなにかダイイングメッセージでも書こうとしているように見える、そんな死体。

 急激に現実が目の前に再び現れるのを、あたしはただただ黙って受け止めた。呼吸の乱れは止まることを知らなかった。

 こうして、あたしは解放されなかったのである。


※※※


 黒の制服はあたしが女子高生であることを強調し、今まさに高校へと通学中であることも表していた。

 昨夜、海岸に投げ出された死体を発見し暫しの間金縛りに襲われたあたしは、我に返ると慌ててその場を引き返し、無我夢中で近くの家の扉を叩きながら『死体が! 死体が海に!』と何度も何度も叫び続けた……。

 あたしにはっきり残っている記憶はそこまでだ。すぐに警察が来て、色々と質問されたのはなんとなく覚えているがその内容や、どんな警察官だったかというのは朧極まれりって感じである。帰りはパトカーで家に送ってもらったはずだ。

 とにかく確かなのは、あたしが企てた『日常脱獄計画』は、謎の人物の死によって虚しく打ち砕かれたということであり、正直死体を発見したということよりもそっちのほうが痛恨の極みだった。

 知らんふりして立ち去ればよかったかなあ。ちらりとそういう考えが今頃よぎるけれど、やっぱりダメだ。万が一誰かに目撃されていたら殺人者として告発されかねないし、そもそもあたし自身の善悪観からすれば、そういうのは圧倒的に悪だ。自分に正直に生きるために走り出したのに、こんなことで都合がいい嘘を付くのは道理に合わない。

 あたしは萎えて萎えて萎えまくってしまった。こういうことはタイミングだ。脱獄計画は以前から練っていたという類いのものではなく、突然にあたしの脳にぐわんっと押し寄せてきた衝動に従ったにすぎない。もちろん今も現実から逃げ出したいという気持ちはあったけれど、もはや行動に移す気力はなかった。萎えた。要はタイミングの問題なんだ。

 それにしてもあの死体はなんだったんだろうか。

 夜の闇のおかげでもあろうが、死体そのものにグロさやら恐怖やらを強く感じることはなかった。それでも、あまりにも不意にあたしの前に現れた死体は、まるであたしを現実という鎖に縛り付けようとする何者かによる、呪いの表出物なのではないか? そんな風に不気味な影を背負っているような、そんな気がするのである。

 あたしのために死んだ人間?

 まさか。


「ミ・イ・ヤ!」


 ポン、と背中に軽い感触。振り向くと、そこには幼馴染みの戸川桂子が立っていた。わざわざ走って追いついたのか、肩で息をしている。そして、黒縁眼鏡の奥にある形のよい眼を笑顔に細めた。


「……ああ、桂子。おはよ」

「おはよー!」


 あたし達は並んで歩き出した。

 こちらのテンションが低いのにはおそらく気づかず、桂子はすぐに口を開いた。


「美彌、今日は朝練ないんだね」

「うん。ていうか休んじゃった」


 正直に言うと、桂子は小さく溜息をついた。


「あんなことがあった次の日じゃ無理もないよね」

「え?」


 どうして桂子が昨夜のことを知っているのだろう。思わず目を丸くする。

 あたしがそうした反応を取ったことが意外だったのか、彼女も同じく目を丸くした。こういうところはさすが幼馴染みって感じだね。


「あれ、昨日のこと覚えてないの?」

「正直、ね。色々ショックだったから」

「……本当に? 全部忘れちゃったの?」


 こちらを窺うように身を低くしながら尋ねる桂子。その真剣な口調にあたしはどぎまぎしてしまう。


「全部ってわけじゃないよ。でも覚えてるのはあの死体を見つけるまでと、家に戻ってやっと落ち着いてきた時からかな。間の記憶はすっぽり落ちてるかも」

「そうなんだ。――ま、無理もないよね。美彌があれを見つけて、急いで駆け込んだ家。私の家だったんだよ」

「あ」


 そうだ、そうだった。あの海のすぐ近くに桂子の家はあったんだった。いくら学校や過去のことをすべて捨てようとしていたとしても、こんな記憶に刻み込まれているはずのものさえ忘れているなんて。結構何度も遊びに行ったこともあるのに。


「ごめん、めちゃくちゃ慌ててて」


 く、苦しすぎる言い訳……。

 でも桂子は眉を歪めてあたしへの同情を示し、続けて昨夜の詳しい状況を教えてくれた。

 いつものように制服の懐からメモ帳を出し、手慣れた様子でペラララララとページをめくり該当の部分を見つめながら話し始めた。


※※※


 日付が変わって三十分ほどが経った頃だった。戸川家普段の就寝時間を迎え、桂子もそろそろ眠りにつこうと歯を磨くために洗面所に向かったその時だったらしい。

 ドンドンドン、と強く扉を叩く音。来客用にインターフォンがちゃんと脇に設置してあるから、その音は明らかに異常だった。深夜に半ば手を突っ込みかけた時間に、激しすぎるノック。さすがに仰天した戸川家一同は恐る恐るインターフォンのカメラを起動させた。

 なんと、そこに居るのは宮野美彌ではないか。束の間ホッとする一同。いやいや、美彌だからといって気楽に迎え入れられる状況じゃなさそうだ。なにやら尋常じゃない様子でドアを叩き続けている。

 薄情な(これは冗談らしい)両親と兄は先陣を切って美彌に立ち向かう(これも冗談)役目を桂子に押しつけた。親友だからうまく対処できるだろ! てな理由で。まあ一理なくはない。

 こわごわ扉を押し開けた桂子の耳に飛び込んできたのは『死体が! 海に死体が!』という美彌の必死の訴え。そしてひょこりと出ていた桂子の腕を掴み、無理矢理外へと引きずり出した。そしてその言葉通り謎の死体を発見する。運良く上着のポケットに入れっぱなしだったスマホで警察へと通報した……。


※※※


 ……というのが警察に通報するまでの一部始終だという。さらに、怖い物知らずで好奇心の塊である桂子は、錯乱していたあたしに代わり警察の質問に答えながら、現場の様子を脳内カメラで詳しく観察していたらしく、そこまで教えてくれた。


※※※


 倒れていた男はたしかにあたしが見た通りの格好、つまり、俯せになって右腕を顔の横、左腕を下ろしていた。行き倒れた人間は大体こんな体勢で倒れているだろうというイメージ通りだったと桂子はいう。性別はどうみても男で、年齢はおおよそ五十代前後。ガタイがよく、顔の半分を髭が覆っており、少なくともいわゆるホワイトカラーの仕事をしているタイプには見えなかったらしい。服装については特に言うべきことはなく、濃い緑色のジャケットを羽織っていた。

 闇に紛れて見えにくいが被害者の背中には深い刺し傷があり、どうやらそれが致命傷となり死に至ったのだろうということを、担当の刑事達が話していたのを桂子は耳ざとく聞いた。

 と、ここまで観察して桂子はようやく気づく。

 あ、このおっさん、見たことある、と。

 そしてごそごそと記憶を探ると、見たことあるどころではなかった。

 おっさんは毎日に近い頻度で深夜のこの住宅街一帯を練り歩きながら、大声で懐メロ(正確には懐かしいというより、だいぶマイナーな昔の曲)を大声で歌いまくるということで有名な名物おっさんだったのである。がなり立てるような歌はお世辞でも上手いとは言えなかったし、もし上手かったとしてもたぶん変わらなかっただろうが、おっさんは迷惑人物として住民には認知されていたらしい。

 堪忍袋の緒が切れた住民がおっさんに直接注意しに行ったり、あるいは警察に通報したことは幾度にも渡るが、結局おっさんの謎なる鉄の意志はねじ曲げられなかったようで、戸川家含む住民はそのだみ声が聞こえる度に、是非とも早歩きしてもらって家の前をとっとと去ってほしいと神頼みせざるを得なかったらしい。


「私はそんなに嫌いじゃなかったんだけどね」


 とは、桂子の言説である。まあ、話を聞く限りではうるさいだけで無害そうなおっさんだし、あたしもそんなに嫌いにはならなかったんじゃないかなーと思う。

 ともかく、そんなおっさんは死んだ。いや、背中を刺されたということで、間違いなく殺された。では、なぜ殺されたのか?

 死体と化したおっさんは所持金ゼロだった。元々どう見ても金回りが良いとは思えないので、たまたま持ち合わせがなかった可能性もあると警察は考えたが、桂子は何度も近くのコンビニで、おっさんが上着から裸の紙幣を取り出しワンカップを購入している姿を目撃していたという。だから、昨夜も完全な素寒貧だったというのは疑問だ、とは桂子の推理である。

 つまり、殺人者によって金を持ってゆかれた。イコール、物盗りによる犯罪ではないのか、とも桂子の推理である――。


※※※


「――私が知ってるのはこんなところまでかな」


 桂子はやり遂げたという風に、メモ帳を閉じていそいそと再び懐にしまった。異常なまでにメモ帳出し入れの頻度が高い彼女は、新聞記者志望であるという。


「うーん、これぐらいの材料じゃ犯人特定は難しいかもしれないねえ。そもそも通り魔殺人っぽくもあるし、状況証拠や物理証拠を擦りあわせて云々ってのは難しいかもしんないね」


 と思案顔になる桂子を見て、あたしは焦る。


「桂子、まさか探偵みたいなことしようと思ってるの」

「まさかまさか。ちょっと考えてみただけだよ」


 桂子は笑って打ち消した。彼女の言動を見ればなんとなく察せられるだろうが、そこそこ熱心なミステリ好きである。少なくとも、こうして事件が起こるととりあえず犯人捜しをしたくなるぐらいには。

 あたしも少し前に挑戦したことがあったけれど、登場人物・それぞれのアリバイ・トリック・現場の構造等々情報が多すぎてあたしの貧弱な脳味噌では理解が追いつかなかったのである。ふむふむ犯人はわかった。でも、なんでそんなトリックを使ったの? どうやってアリバイは破られたの? とか、基本的なことが読んでる内に左から右へ突き抜けてしまうのである。根本的に合わないんだろうなあ。

 それでも、桂子の話を聞いていて一つだけ確かに分かったことがある。

 おっさんは、あたしの脱獄を妨げるためなんかに殺された人間じゃない。そりゃ当たり前だけれど、一瞬そんな考えがよぎってしまったあたしは馬鹿だ。おっさんは約五十年もの間を生きてきて、たくさんの経験をしてきて、たぶん仕事もずっと続けてきて、息抜きとして酒を飲みながら大声で歌うのを楽しんでいた。

 そんな、一人の人間だった。あたしのために死んだ人間なはずあるか!

 あたしの心を覆っていた霧が晴れたような気がした。おっさんには悪いけど。

 タイミングさえ合えば次こそは成功してみせる。

 なんて、心の中で決意表明している最中、桂子が痛い質問をしてきた。


「というかさ、美彌はなんであんな時間にあんなところに居たの? 私の家に遊びに来たってわけでもないよね」


 真剣な顔だった。とても、茶化せるような雰囲気ではなかった。かといって、馬鹿正直に『すべての関係を断ち切りたくて、家出しようとしたんだよ』なんて言えるはずもない。桂子はあたしを親友だと思っている。なのに、こっちは別れを告げたいと思っていたなんて知れば、とてつもないショックを与えてしまう。そんなことは、したくなかった。周りには理由を気づかれないまま、あたしはひっそりと蒸発しなければならないのだ。


「う、海が見たい気分でね。そういう時ってない? ふと、『あ、癒やされたいなー』的な感じで」


 茶化すのではなく、必死でぼやかすことに決めた。


「んーわからなくはないけど……」

「でしょ?」

「それにしても、私も誘ってくれればよかったのに。家、近いんだからさ」


 ぶーたれる桂子。でも、なんとか上手くごまかせたようだ。


「ごめん、ごめん。今度は誘うから許して」

「まあ、他でもない美彌だから許すけどさー。……あのね、美彌」


 なぜか、どきっとした。


「な、なあに」

「私達、一生友達だからね」


 そしてじっとあたしの眼を見つめる。まるで、心の中までも覗き込まれるような……。

「そうだね。当たり前じゃん」


 あたしは嘘を付いた。


 それでも桂子は信じてくれたのだろう、にっこりと微笑むと、突然腕時計を見て、


「あ、やばい。話し込みすぎちゃって、もうこんな時間! 美彌、急ごう」


 と、すたこらと駆けてゆく。

 まじか、と思ってスマホを確認したけれど、そこまで焦るような時間じゃなかった。喋りすぎずに歩き続ければ十分間に合うはずだった。

 照れ隠し、なのかな。

 申し訳ない気持ちになった。あたしは悪い人間だ。こんなに大事に思ってくれている友人を裏切り、裏切ろうとしている。

 でも、どうしようもなかった。あたしはあたしだ。あたしがしたいことをする。じゃないと、生きている意味がないんだ、とあたしは信じている。


 ……なんにしても、今日は脱獄できるタイミングじゃないな。

 そう考えながら、桂子を追いかけるために鞄をよいしょと持ち上げた。

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