#2 もし、私がそれをなくしてしまいそうになったときは

 夕方、予告通りスグロ先輩がやってきた。

 お見舞いの果物をベッドサイドのテーブルに置いて、先輩は椅子に座った。

「ありがとうございます」

「いや。まあ、とにかく無事でよかった」

「先輩のおかげです。先輩たちが救急車を呼んでくれなかったら、私は助からなかった。本当にありがとうございました」

 先輩は首を振っていった。

「でも、あの日君を外に誘ったのは僕だ。だから、今回のことに関して、僕は責任を感じている」

「そんなことはないです。それに、私が事故に遭うなんて先輩にはわかるはずがないじゃないですか」

「うん、まあ、確かにそうなんだけど……」

 そういって視線を泳がせた先輩は、なんだかいつもの先輩らしくなかった。

 歯切れが悪い。

 確かに、レイコ先輩がいっていたとおりだ。

 なんとなく、先輩は以前とは違っている気がする。

 具体的にどこがどうということではないんだけど。

 いつもの大人びた感じがなくなっているみたいだ。

 でもそれは、決して嫌な感じではなかった。

「実は、あの日のこと、あんまりよく覚えてないんだ」

「覚えてない?」

「いや、まったく覚えてないわけじゃないんだよ。でも、細かな部分がぼんやりとして……」

 実は、私もあの日の朝からの出来事を思い出そうとすると、頭の中に霞がかかったみたいにぼんやりとして、細かなことが思い出せなくなっていた。私は、それは事故の後遺症のせいだと思っていたけど、どうやら先輩も同じらしい。 

 私にはたくさん先輩に聞きたいことがあった。

 先輩はどうしてあの日、私を図書館に誘ったんですか。

 先輩はどうしてリンコとノリちゃんにこっそりとついて来るように頼んだんですか。

 先輩は事故が起こることを知っていたんですか。

 先輩は何者なんですか。

 でも私はたったひとつのことを、先輩に尋ねた。

「先輩」

「うん」

「あのとき、私、先輩から何かとても大事なことを聞いた気がするんです。でも、それが何なのか思い出せないんです。先生は、事故のショックで記憶が混乱することがあるっていってました。だから憶えてないんだって。先輩はあのとき、事故の直後、私に何ていったんですか」

「特にたいしたことはいってないよ。しっかりしろとか、そんなようなことだよ」

「実は私、ひとつだけ、憶えていることがあるんです」

「あのとき、僕が君にいったことで?」

「はい。いえ……やっぱりそんなわけないです。私たぶん何かと勘違いしてます。だって、あんなときにする話じゃないから」

「どんな話?」

「先輩はすごくおいしい珈琲を淹れることができるって、私にいった気がするんです。変ですよね。人が死にかけてるときに普通そんな話しませんよね。何で私そんなふうに思ったのかな」

 先輩はじっと私の話に耳を傾けていた。

「でも、目が覚めたとき、真っ先に思ったんです。先輩の淹れた珈琲が飲みたいって。だから私が目が覚めたときの第一声は『珈琲が飲みたい』だったそうです。まだ意識が朦朧としていたから自分では憶えてないんですけど……。不思議ですよね」

「確かに、人が死にかけているときに普通そんな話はしない。僕も、そんなことをいった記憶はないよ。でも、不思議なことに、僕はすごくおいしい珈琲を淹れることにかけては自信があるんだ」

「他人の恋愛相談をするよりも?」

「これも不思議なんだけど、本当に僕はそんなことをやってたのかな」

「どういうことですか」

「いや、確かにみんなにそういうアドバイスをした記憶はあるんだよ。でも、それをどういうやり方でやっていたのか、思い出せないんだ。なんだかとても大事なことを忘れている気がする」

 それは私も同じだった。でも、私の場合は事故の後遺症だと思っていたから、何もいわなかった。

「いずれにしろ、『マスター』はもう廃業したよ」

 先輩は、持ってきた果物の中からリンゴをひとつ手にとった。

「食べる?」

 私は首を横に振った。先輩はうなずいて、手の中のリンゴに視線を落とした。

「今、こういうことをいうタイミングじゃないかもしれないけど、やっぱりいうよ」

 先輩は私の目を見ていった。

「カグヤさん、僕は君のことが好きだ。だから僕と付き合ってほしい」

「私……」

 私は思わず言葉に詰まった。

「別に今返事をもらわなくても……」

「私でいいんですか?」

「うん」

「私、ヘンですよ」

「うん。知ってる」

「ややこしい奴ですよ」

「それも知ってる」

「うんざりするかもしれませんよ。ううん、きっとうんざりします」

 ただ苦笑いを浮かべただけで、先輩は何もいわなかった。

「あの……ひとつ約束してほしいことがあります」

 まるで私がそういうことを予期していたかのように、先輩はうなずいた。

「もう憶えてないと思いますけど、前に先輩は私にこういいました。私が、この世界は生きていくに値しない場所だと思ってるんじゃないかって」

「憶えてるよ」

「そのあと、こういいました。そう感じることは間違いじゃないって」

「いった。それが君の――」

「それが私の良いところでもあり、弱点でもある」

「うん」

「私はこれから少しずつそういう感覚をなくしていくような気がするんです。本当はそんなもの持っていたくないのに、でもその感覚をなくしたくない。もし、私がそれをなくしてしまいそうになったら、先輩、私に教えてくれますか」

 一瞬、意外そうな顔をして、でも先輩は力強くうなずいた。

「わかった。君がそれをなくしてしまいそうになったら、僕が教えてあげる」

 私はうなずいて、いった。

「イエス」

 先輩は小首をかしげた。

「返事。イエスです」

 ほっ、と息をついて、先輩は俯いた。

「私、先輩からは、いってもらえないと思ってました」

「実は、ノリちゃんとリンコくんに約束させられたんだ。二月十一日に、自分の気持ちをちゃんと君に伝えるって。いや、彼女たちと約束したから、付き合ってくれっていったわけじゃないよ。最初からそのつもりだったんだよ」

 普通に慌てている先輩の姿が珍しくて、私は笑った。

「わかってます」

 私の言葉に、先輩も微笑んだ。

「もうひとつ、聞いていいですか」

「うん」

「先輩は、おいしい珈琲を淹れることができる」

「うん」

「ほかに何か知っておくことがありますか」

「ほかに?」

「例えば……前にいってましたよね。私のことを見て昔のことを思い出したって。それは、私に似た人を昔知っていたっていう意味なんですよね」

 少し困ったような顔をして先輩はうなずいた。

「あのとき、初めて君に会ったとき、僕はとても懐かしい感じがしたんだ。だから、僕はああなってしまった。でも、特定の誰かを思い出したわけじゃないんだ。うまく説明できないんだけど……。でもいつかまた、話せるときが来るような気がする。ごめん、今はこれしかいえない」

 私の表情を窺うように、ちらっと先輩はこちらを見た。

「といっても、やっぱり気になるよね」

「はい。でも、今はいいです。いつか、話せるときがきたら話してください」

「約束する」

 私はうなずいた。

「リンゴ。もしよかったら、食べていってください」

「いや、あんまり長居するのはよくない。今日はもう帰るよ」

「……先輩」

「ん?」

「また来てください」

「もちろん。ちゃんと休んで、早く良くなって」

「はい」

 先輩は立ち上がった。

「それじゃあ、いい夢を」

「いい夢は、もう見た気がします」

「そう?」

「意識が無くなっているあいだ、私、とてもいい夢を見ていた気がするんです」

「ふうん。それは……どんな夢?」

「甘い夢です」

「そうか……」

 先輩はうなずいた。

「きっとまた、見ることができるよ」

 そういって、先輩は微笑んだ。


 誰かと誰かが出会う。

 ボーイ・ミーツ・ガール。

 やがて二人は恋に落ちる。

 それって、いったい何なのか。

 その感情は、どこから来るのか。

 未だに私には恋がどういうものなのかよくわかっていないけど、でも、以前よりはなんとなくわかる気がする。

 それはたぶんみんなのおかげだ。

 リンコと、ノリちゃんと、レイコ先輩と、ミサキさんと、そして、スグロ先輩と。


 先輩が帰ったあと、ひとりになると、私はベッドに横になり目を閉じた。

 心臓のあたりにそっと右手を置いて、私は想像する。

 そこには目に見えない鍵穴のようなものがあいている。

 誰かがその鍵穴にぴたりと納まる鍵を持っている。

 その鍵を持っている人はちゃんといる。 

 広い広いこの世界で、その人と出会うことはたぶん奇跡のようなことなんだろうけど、今の私にはそんな奇跡を起こせそうな気がする。


 事故のあと、意識が戻るまで、確かに私はとてもいい夢を見ていた。

 それがどんな夢だったのかもう思い出せないけれど、とても甘い夢を。

 また見ることができるだろうか。

 きっとまた、見ることができるよ。

 さっき、先輩はそういった。

 なら、たぶん大丈夫。

 いつかまた見ることができる。

 そう思うと、なんだかとても安心できた。

 そしていつしか、私は眠りに落ちていった。

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嘘つきの・私の・先輩が・いうことには Han Lu @Han_Lu_Han

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