第2話

娘を寝かしつけた後、私は娘の部屋から人形をそっと持ちだした。

人形はプラスティックの瞼をパタパタと瞬かせて「ナニ~?」と言った。娘を起こしてはいけない。そっと唇に指をあててシーという動作を見せると、そいつはすぐに「ワカッタ」と小声で返した。思わず行ったジェスチャだったが、この玩具には認識できるらしい。妻が言ったかなり利口という評価は当たっているようだ。

居間の机の上にそいつを置くと、私はブランデーを取りに書斎に戻った。人形と話しながら酒を飲むなんて不思議な感覚だが、こんなことはアルコールでも入って無ければ出来ない。

早足で居間に戻ると、机に足をぶつけてしまった。人形がバランスを崩し、テーブルから落ちる。

「イタイ!」と人形はびっくりするような声で叫んだ。

「あっ!すまない!大丈夫か?」

「イタ~イ」そう言ってそいつはひどく痛そうな顔をした。極限までシンプルに作られた表情モデルなのに、その裏にある痛みまでもがリアルに感じられ、私は少し驚いた。

「悪気は無かったんだ」と人形に謝りながら、同時に奇妙な感覚を得ていた。私はなんて馬鹿なことをしているのだろう。ここにあるのはただの人形だ。センサの衝撃から落下を検知し、その衝撃にあった言葉を返しているのに過ぎない。「イタイ」と叫ぶのも、実際にそう感じているわけではなく、ただ単に情操教育に必要だからそう言っているだけだ。謝る必要なんて無い。それでも思わず謝罪してしまうのは人間の錯覚によるものなのだろう。

「さて、済まなかったね。ほらこれでいい」私は彼を拾い上げると机に再び置き直した。

「えっと、君のことなんて呼べばいいいかな?」

「ファーチャン!」

「そうか、ありがとう。私が誰だか分かるかい?」

「パパ!」

「よし。大丈夫。今日はこっそり話を聞こうと思ったんだ。娘についてなんだけどね」

「ウン!」

「どうだい?娘の様子は最近どうだい?」

「ドウダッテイワレテモ……」

「うーんどう、聞こうか……最近娘は楽しそうかい?」

「ウン、トッテモ!」そうファーちゃんは嬉しそうな表情を作って言った。そして「トッテモ」ともう一度付け足した。

「そうか、それは良かった。そう言えば娘に何か教えているのかい?」

「ウン、オシエテイルヨ! タトエバ アルファベットトカ スウジトカ」

「へぇ、どうやって教えてるんだい?」

「ボク、ホンヨンデアゲル」

「本をかい?」

「ウン! ヨメルホンハ カギラレテイルケレド」

「限られている?」

「サーバーカラ ナイヨウヲ オトシテクルンダ。ダカラ シュッパンモトガ データヲテイキョウシテクレナイト ダメ ボクヨメナイ」ファーちゃんは子供には少し難しい言葉を並べて説明を始めた。おそらく私が大人なので、それに合わせて説明しているのだろう。

「なるほど。どうだい? 娘はちゃんと学んでるかい?」

「モチロン! イマハ、Pマデ オボエテカケルヨ」

「いつの間にそんなに覚えたんだ。凄いな」

「ドノモジデ ツマズイテイルカ ゼンブキロクトッテル。シリタクナッタライッテ? スグメールオクル。ファイル形式モエラベル、ヒョウケイシキデモ テキストデータデモ」そういってファーちゃんは得意げにウィンクをしてみせた。

「そこまでできるのか! 凄いな」

「ウン! ボクスゴイ!」そう言ってファーちゃんは目をパチパチさせた。予想以上のスムーズな会話だ。技術の進歩には驚かされることばかりだ。

「どうもありがとう。娘をよく見てくれているね。さ、部屋に戻ろうか」

「オハナシ オワリ?」

「ああ、帰る時も静かにね」

私がそう言うと、ファーちゃんはまた小声で「ワカッタ」と言った。


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「イラッシャイ」

と人形が口を聞いた。

私は会釈をすると、ピカピカに磨き上げられたロビーを横切って受付に向かった。

整理番号を渡されたので、そのままソファーに座って待つ。

ディスプレイには人形のCMがエンドレスで流れている。原色溢れるキャンディの包み紙を彷彿とさせる子供向けのCMと、投資とか、株式とか、そういうビジネスに携わる大人の為のCMと。

「……つまり、我社の電子ペットは貴方のお子様の情操教育に役立つのです」

「ネットワークに対応したAIは自動でアップデートを繰り返し、お子様を飽きさせることがありません」

「やあ! みんな!! ボクと友達になって!」


私はそれをぼんやりと見ながら、もう一度伝えるべきことについて考えていた。

一昨日、我が家からファーちゃんが消えた。ご飯の時になって初めて彼が居なくなっていることに気がついて、一家総出で探したのだが、探しても、呼んでも出てこない。昼に出かけた時に置いてきちゃったんじゃないかしら。という妻の予想に従って、ショッピングモールに電話してみたが、遺失物係からは届いていないという返答が返ってきた。

娘はここ2日、ずっと落ち込んだままだ。父親として、その姿を見るのはとても辛い。

あれは機械だけれど、紛れもなく、娘の友達で、私の家族なのだ。


やがて私の番号が読み上げられ、私は座り心地の悪い椅子に腰を下ろした。

「本日はどのようなご用件でしょうか?」

「実は……その、人形を紛失してしまったのです」

「人形を? お子様のですか?」

「ええ、娘のです。娘にとっては友達みたいなもので、ここ数日ずっと落ち込んでいるんです。どうにか新しいのを買ってあげたいのですが……ええ、同じ型番の人形が良いです」そう言って私は型番を伝える。受付嬢の指がキーボードの上を走る。

「その人形でしたら在庫があるようです。あ、待って下さい。お客様のアカウントにバックアップが残っていますね」

「バックアップ……?」

「ええ、バックアップです。我が社の人形はこういうことに備えて、今までの記録データや設定をネットワーク越しにバックアップする機能がついていまして……」

「えっと……それはつまりどういうことですか?」と私は困惑する。

「簡単に言うと、人形の記憶を定期的に保存して居るということです。同じ型番の人形を持ってきて、こちらで設定を行えば、直ぐに全く同じ人形を用意することが可能です。えっと……新しい体を用意するようなものですね」

「え、そんなことが出来るんですか!」

「ええ、私達の顧客はお子様ですから。そういったトラブルへの対処は万全です」そう言って受付嬢は得意げな顔で微笑んだ。


その場で、私は新しい人形の購入手続きを済ませた。

料金が発生しなかったのには驚いた。紛失や修理を問わず一回までなら無料で保証してくれるらしい。こういう所が会社の信用に繋がってくるのだろう。私は数日後に取りに来る約束をしその場を去った。

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