冷血老人【1-2】
臨時で三日間の休暇を得たスティーヴは、来たる戦いに備えるべく荷造りに勤しんだ。ウェールズ南部にそびえるブレコン・ビーコンズ国立公園――その最高峰たるペン・イ・ファンは、SAS入隊の登竜門として名高い。同部隊がペネヴァンと称する山嶺は、幾度となく入隊志願者を困難に叩き落とし、時として彼らの命を奪ってきた。海抜八八六メーターの丘陵は額面以上に険しく、向こう見ずはその身を大自然へ捧げる羽目を食う。天候は常に変動し、晴れ間は滅多に望めない。地面は硬い土で覆われているが、場所により膝丈まで伸びる植物が生い茂る。SAS選抜訓練ではこの平原地帯の走破が課程に組み込まれており、波打つ茂みに足を取られた志願者の捻挫が続出する。この鬱陶しい障害物は半ばSASの伝統となり、「ガキの頭」と忌み嫌われている。スティーヴが目指すのは、かつて彼が攻略したそのSAS選抜訓練の再現であった。
盛りを過ぎた五十台が挑むには常軌を逸する指標だが、かてて加えてスティーヴは単独での行軍に拘った。これには酷く情けない内情がある。人生の裕に半分を生きたスティーヴ中年は、退役後も早朝のランニングを欠かす事はなかった。年を経る毎に時間・距離のノルマを減らしはしたが、習慣そのものは頑として継続した。退職中に心身が腐ってしまうのを恐れるが故であったが、お陰で彼の肉体は今を以て頑健そのもので、巨木の如き腹部は六つに割れている。そんな生粋のランナーがロンドンの公園で、同じく早朝のランニングに執心する青年とすれ違った時である。何食わぬ顔で、大学生らしき青年は声を掛けた。「元気だな、おじいちゃん!」と。青年の声帯が生んだ震動が大気を伝わり、言語に変換された音波が鼓膜へ達する。スティーヴの鋼の肉体から、チタンの骨格が抜け落ちる感覚を味わった。――おじいちゃん。
彼はその事実に目を背けていた。だからこそ、毎朝ふんふん鼻息ながらに薄ら寒い曇り空を脛毛丸出しで疾走していた。その勇姿に第三者が下した評価が「頑張るおじいちゃん」である。肉体の弱化から逃れるランニング、迫りくる老化を彼方へ追いやるベンチプレスが本末転倒。肉体は疲労から深い皺を刻み、鍛える程に皮膚が白く硬化する。スティーヴは皮肉にも、自ら老いへの道を猛進していたのだ。五十半ばの男性を他者が中年と蔑むか、老人と労るべきか、視覚情報のみで判断するのは難しい。極めて微妙な境目を悩み見定めた件の青年は、スティーヴ・ハーディング退役曹長を老人の枠にカテゴライズした。先の一言に嫌味な含みはなく、あっても精々「怪我に気を付けろよ」くらいの香り付け程度である。世情の荒んだ昨今、面識ない者に挨拶を欠かさぬ青年は、むしろ善玉と呼べるのではないか。
その実、若かりし頃のスティーヴは男性誌の表紙を飾る程度には美形であった。その容姿には長年の兵役で深い皺が無数に刻まれ、今や見る影もない。実年齢より十は老けて見える所為で、それこそ五十台かさえ傍目には怪しく映る。くすんだブロンドの髪に白髪が混じり、それが数少ないお洒落である口髭にも伝播している。瞳は未だ煌々と輝いているが、冷たいグレーの光彩は冷酷な印象を抱かせる。一九〇センチ近い身の丈は見る者を威圧し、畏敬を錯覚させる。一見して、若々しく朗らかな要素は皆無であろう。そうして他者が下した彼へのイメージが『元気なおじいちゃん』なのだ。元気はいい、それはプラスに働く。問題はおじいちゃんだ。俺はおじいちゃんではない、おじさんだ。つまらぬ狂言が彼の思考を支配し、やけっぱちの脳味噌が強情な対抗意識を導き出す。「証明してやる。ハーディング曹長は健在だ」早朝に酒場へビール樽を配達するトラックを追い越す勢いで自宅へ駆け戻り、スティーヴはCEOの睡眠を妨げて休暇申請を行った。
冷血老人 紙谷米英 @Cpt_Tissue
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