冷血老人

紙谷米英

冷血老人【1-1】



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 こんな事態に陥ると事前に蟲の知らせで把握していたならば、自らの死に涙する妻や愛人を囲うべきであったか。つい数時間前まで自身の老いに真っ向から挑んでいたスティーヴ・ハーディングは、薄れゆく意識の中で夢想した。五十余年の人生で幾度となくすれ違ってきた死が、すぐそこで手招きしている。

 長らく籍を置いた英国陸軍を退役し、数年前から民間警備企業に身を置くスティーヴは加齢に衰える我が身を憂い、その自然の理を良しとしなかった。自分は未だ第一線で働ける兵士である。齢三七で下士官として最高位の曹長で現場を引退し、四六まで連隊(英国陸軍特殊空挺部隊――SASの通称。同隊員は単純に『連隊』と呼称する)の訓練教官を勤め上げた彼は、貯金と退職金で三年の時を浪費した。起伏の乏しい文民の暮らしは、対テロ部隊のOBに受け入れられるものではなかった。

 特殊部隊の一日は慌ただしい。空が白むのと一緒に床を抜けてランニングに勤しみ、不味い食事に文句を垂れ、日がな銃をぶっ放して訓練に明け暮れる。汚れた身体を湯気の立つシャワーに晒し、気の知れた同僚とぐでんぐでんに酔っ払う。目が覚めた時に自分がいるのは連隊の宿舎か、マッチョ好きで有名な女の汚れたベッド、或いは車道の真ん中で自分の吐瀉物にまみれているかもしれない。何処で朝を迎えようが、SASにとっては些事に過ぎない。揉みくちゃのトラックスーツを羽織って、厚い雲に覆われた空の下を駆け出すのは変わらない。常に外地での任務招集に備え、血湧き肉躍る戦闘を心待ちに鍛錬を続ける。彼らは生まれながらにして兵士なのだ。スティーヴ・ハーディングも、そんな闘争心溢れる男の一人であった。

 「当たり前」の空虚感が、退役後のスティーヴを襲った。市井には間断なき退屈が充満し、下らない命令系統と非効率が大ブリテン島に浸透しきっていた。軍にも口うるさい上官はいたが、彼らの指摘には道理の通る部分も少なくなかった。文民社会の支配階級の椅子は、インテリ気取りがでかいケツを押し込んで全く動かない。頭脳がこの体たらくであるから、国政という臓器と指先が健全に動く筈もない。民間への就職斡旋の案内も幾つか寄越されたが、何れも文字通りの薄っぺらいおためごかしを並べただけで、兵士としての死の宣告に受け取れた。それが三年間の空白を生んだ原因である。

 居場所のない一般社会で孤独に毒されるスティーヴの許に、折しも光が差し込む。SAS時代の戦友から、彼の経営する民間企業への誘いがあったのだ。すっかり人間不信に陥っていたスティーヴは訝しんだものの、底をつきかけた預金口座の脅迫に屈して〈レジメンタル・セキュリティ〉への再就職の道を選ぶ。元同僚の誘いでホワイトカラーへと姿を変えたスティーヴは、正しく第二の人生を歩み始めた。社員は全て元特殊部隊員やベテラン警察官で構成されており、ツーカーで話の通じる者で溢れていた。気位が高いだけの空っぽな穴居人は皆無で、皆がひとかどの男として自信に溢れていた。オフィスに入り浸る者はおらず、個人の書類仕事を終えると半袖のポロシャツ姿で何処かへ飛び出してゆく。彼らはクライアントが保有する資産の警備状況を査定し、適したノウハウと解決案を提示し、時として現地の警備員の訓練や施設警備そのものに携わる。彼らの仕事道具は座り心地の良い椅子と性能ばかりのPCではなく、数本のペンとたすき掛けしたライフルだ。その活動範囲は狭小なイギリスに止まらず、英連邦諸国や戦火の絶えない中東、第三世界のアフリカ大陸にまで及んだ。それは勤続十年弱、会社のナンバー・ツーたるCOOの肩書きを負うスティーヴも例外ではない。顧客である自意識過剰な成り上がりとの相談の傍ら、傘下のオペレーター(民間軍事会社・民間警備会社の実働社員)を育成するインストラクターとして自ら銃を握っているのだから、最前線ではなくとも第一線で活動しているのに疑いの余地はない。

 その彼が目下、如何にして生命の危機に瀕しているのか。至極単純ながら、いささか理不尽でもある自然の魔手に落ちたと形容するしかない。簡潔に示せば、いい大人が自然の摂理に身ひとつで刃向かい、運悪く返り討ちに逢ったのだ。運悪くと述べた様に、彼の挑戦には勝算が大いにあった。ある時点までは、その筈だった。

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