世界を救えると思ってた ②【最終話】

 ボクはずっとキミを見ていたんだ。

 闇の中で手を伸ばすキミの、かすかな声を聞いたんだ。

 ここから連れ出して。

 この世界のてから向こう側へ――。






 世界のことわりくつがえす破壊神の少女が、目を閉じるように姿を消した。薄暗いすり鉢状の巌穴いわあなが地響きを立てて崩れ始める。

 ほら、いまここにボク達ふたりだけがいる。


「ここが世界の涯てだね、久凪くなぎくん」


 ボクの声に驚くキミを見るのは何度目かな。


弥鳥みとりさん……」


 瓦礫の舞う広大な洞窟をボクは見回した。

 ジャガナートの中心……ここはいま、世界のあらゆる束縛から解き放たれる場所。

 物語という強固な幻さえ。

 

「そしてここが……キミの物語の終焉。そこから救いに来たよ」


 ボクの言葉は相変わらず奇妙に聞こえるかな。

 でもボクは、世界山メールで出会ったキミの姿を想う。あの静謐せいひつの世界、永劫にも似た時の中で、キミとボクはまるでひとつだった。

 キミの胸にある光が、洞窟を目映まばゆく照らしている。

 そう、ボクが授けたその光は、あらがいがたいこの物語の力をも超えることができる。


「キミには見通せるはずだよ。無数の物語がキミをどこへ連れて行くのか……向こう側を求めたキミのかけがえのない衝動が、物語に食べ尽くされる様子を……」






「あやの。……久しぶりやな」


 その小さなローカル駅の出口で、あやのが腕を組んでキミを見つめている。眼鏡の奥の怒ったような視線は、しかしキミには嬉しそうな笑顔に見えたはずだね。


「……あんたは変わらへんなあ」


 照れたように少し目を泳がせながら、あやのが近付いてくる。

 その毛先の跳ねたおかっぱを見て、キミは安心する。

 世界が崩壊する災厄の中交わした約束の通り、キミはあやのに再会した。戻ってきたんだね。


 そうしてキミは生きる。

 平沢先生は相変わらず図書室のカウンターの向こうで忙しそうで、キミを見つけると悪戯っぽく話しかけてくる。その会話はあの一件以来少し落ち着いて……ほんの少しの苦さが混じるようにキミには思える。


 彼方かなたとはそれからも何度か電話をしたね。

 だけど中学を卒業する頃から、話す機会はほとんどなくなる。


 そして時は過ぎる。

 中学2年生の冒険の記憶は色あせ、思い出すことも少ない。

 キミは新しい居場所、新しい友人を見つけるから。


 大型トラックの急ブレーキが、キミをふと我に返す。


「久凪くん……危ないやんか」


 勤務先の古書店へ向かう大通りで、阿佐ヶ谷さんに声をかけられる。いつも呑気そうな彼女の瞳が、キミを探るようにじっと見つめている。


「ああ……ぼうっとしてて……」

「生きてる?」

「なんとか」

「いつもそうやけど、今日はいつも以上に中学生みたいやで、久凪くん」

「そんなに褒めんでも」

「はぁ、赤信号横断って……まだまだ褒め足りんわ」


 危なっかしい歩みで、それでもキミは生きていく。

 その胸の鈍い痛みをときどき思い出しながら。

 それは醜く足掻きながら、向こう側へと必死に手を伸ばした記憶の残滓ざんし

 だからキミは、時々不思議そうに空を見上げるんだ。

 それが何か分からないままに、失ったものをいたむんだね。






「抱えたその痛みにも慣れたんだね」


 ボクの語りかける声に、まだキミは耳を澄ませてくれるね。

 だからボクはキミの前に現れる。何度でも。


「苦しみを抱えて……不完全なキミ自身を受け入れてくれる誰かを見つけて……いずれ世界をすら好きになれる……そう思える?」


 晴れ渡る青空のもと、通行人の行き交う都市に縛り付けられたキミは、何て遠い目でボクを見上げるんだろう。

 かつてキミは、この距離を軽々と飛んだんだよ。


「その考え……キミは心の底からその通りだと思う? その考えの通りに生きた人生を終えるとき、心から納得できる?」


 ほら、キミの胸はまだ痛む。

 納得できるかも知れないとほんの少しでも思えただなんて、恐ろしい錯誤だね。

 その緑色の光は、まだキミの胸の奥を刺しているんだ。

 さあ、キミの本当に望んだ世界をボクに見せて。






 鍵ががちりと鍵穴に噛み合う。


ろく、どうや?」

「開く!」


 扉が開く。

 薄暗い廊下に光が差し込み、目の前に屋上の光景が広がる。

 あの廃ビルの屋上。

 そう、キミが彼方、あやのと初めてそこへ出たのは、小学2年生の夏休みだったね。

 たいして高くもない建物だったけど、そこは街を眺め渡せる特別な場所になった。


「うわあすげぇ!」

「あたしのお陰やで?」

「見つけたんは俺やもん」


 夕暮れまで、キミ達はそこにいたね。

 3人だけの世界だった。

 やがて街はざわつき始める。

 帰路につく人々。忙しそうな車。あちこちで食事の用意が始まる気配。


「じゃあまたな!」

「おう!」

「じゃあね」


 満ち足りた気持ちでキミは家へと走る。

 楽しかったよ。面白かったよ。その気持ちを大事に抱えながら帰るんだ。


 玄関に入ると、キッチンからまな板を叩く包丁の音が聞こえる。

 甘く味付けられた肉じゃがのにおい。

 お母さんがそこにいる。

 キミは思わず息を吐き出すんだ。

 ああ、みんな夢だったんだ。良かったね。本当に良かったね。世界はなんて優しいんだろう。もう何も怖くないよ。

 ランドセルを床に放り出しながら、キミはお母さんの後ろ姿を眺める。

 隣の書斎からお父さんがやってきてテーブルに皿を並べるので、キミもそれを手伝う。カチャカチャと食器が鳴るのが楽しいよね。


「彼方と遊んでたんや」


 キミは待ちきれないようにお母さんに話しかける。

 あやのちゃんは? ああ、あやのもいたで。いつもの3人やね、何してたん? あんな、秘密の場所見つけてん! へえ、どこ? あかん、教えへん! ええ、教えてやあ。秘密やから! そうなんかあ。めっちゃ眺めええねんで。へえぇ、お母さんも行きたいわ。うん……。

 賑やかに飾られる食卓を3人で囲む。


「ねえ、ほんまに空飛べたらいいなあ」


 脈絡もなくキミは思うことを口にする。


「な、お母さん!」






 でも、そんな時は存在しなかった。






 誰もいない。

 キミはひとりでそこに立っている。

 暗くて静かな部屋――。


「そう……キミには帰る場所がなかったよね。だから向こう側へ行こうって思ったんだもの」


 そう、あのときもボクはキミに声をかけた。

 冷たく、静かで、暗いあの空間で。

 キミが家のマンションの扉を開けると広がっている、あの虚ろな空間で。


 小学2年生のあの日から、大学を卒業して安アパートを転々とする日々に至るまで、キミの前にはいつもあの暗い空間だけがあったね。






『誰か、僕を見てよ……。僕に優しくして……』


 キミはひとり、カーテンを締め切ったアパートで声をあげずに叫んでいた。


『僕のすべてを理解してくれるひと。どうか教えて、ここにいてもいいって。……存在する価値があるってことを証明して欲しいんだ』






 だからボクが寄り添ってあげる。

 そうボクは声をかけたんだ。

 その世界のすべてに等しく価値がないってことを、キミに教えてあげる。

 だから不安にならなくていい。

 戦うこともない。

 キミの価値を証明する必要はないんだから。






『いや、そんなことあり得ないよ。あり得ないものを求めるから、苦しいんだ。痛みのない世界を想像するから、痛みを感じるんだ。だから生きている限り、この痛みを抱えるしかないんだ』






 本当にそう?

 いいんだよ久凪くん。

 キミはその世界の住人じゃないんだから。

 無理に合わせなくていいんだ、その世界の奇妙な決まりごとに。






『それでも……生きなきゃ。辛いこと、苦しいことはきっと乗り越えられる。それが僕を殺してしまわない限り……すべては僕を強くしてくれるんだ』






 心の底からそう思うの?

 ……あらゆる欺瞞がキミを殺す。

 キミは毎日死に続ける。

 本当のキミが目をますまで……。

 その目醒めを、あの人達は道を踏み外したって言うだろうね。

 その道こそ、キミが向かう本来の方向なのに。






 耳障りな急ブレーキの音と鈍い衝突音。

 大型トラックが巻き込んだ人身事故を人々が見守る。


「ほら久凪くん、憶えてる?」

『あれは……』


 ボクはキミにそのヴィジョンを見せてあげる。

 あの日、キミは発作的に飛び出したんだね。

 勤務先の古書店へ向かう大通りで、巨大なタイヤの回転の前にキミは身を投げ出した。

 それはあまりの人混みに酔ったせいだったかも知れない。


『でも……痛みを抱えて……生きていくはずやったんや。弥鳥さん』


 そう、闇は突然嘘みたいに消えるんだってキミは言ったね。

 そしてどんな光も、同じように嘘のように消えるんだ。

 久凪くん、ボクは何度も見てきたんだよ。繰り返すその闇と光が、あれほど輝いていたキミの衝動を鈍く磨耗させていくのを――。






――いまのは……?


 震えながら崩壊を始める洞窟の中、目の前に俺をじっと見つめる弥鳥さんが立っている。

 その白い制服の上に、うっすらと金色の装身具が浮かんでいる。

 さっきのは……賢者の石がみせたヴィジョンだ。

 そうだ。

 俺は、死んだ。

 そういう……未来もあったんだ。

 何千何万ものあり得た自分が、その刹那にひしめき合っていた。

 過去も未来も……そのすべての自分を積み重ねていまここに到達したんだ。


「何て……長い夢なんや……。ここまで来るのにこんなに……弥鳥さん」


 つぶやいた自分の言葉に、俺はようやくこの物語を思い出した。それは中学2年生の妄想。世界を救う物語。

 ひときわ大きな地響きが俺と弥鳥さんの間に亀裂を走らせた。


「そうだね、久凪くん。キミは知らなかったかな。無数の世界を破壊するジャガナートを食い止めること……それがキミの使命だったんだ。キミの苦しみはそのためにあった。その物語がいま終わったんだ」


 弥鳥さんの大きな瞳はこれまでになく優しく輝いている。

 使命だって? 世界を救う物語……そう、俺は無我夢中の衝動でこの物語を語ってきた。

 ありとあらゆる物語は、この世界に突き立てる刃だ。

 その刃で、俺は何と戦ってきたんだろう。


「久凪くん、ほら憶えてる? キミがいた、あの向こう側の世界のこと。キミが本当に、キミらしくいられる世界だよ。キミはぼんやりとしか憶えていないかも知れない……だけどそれがあるってことは、はっきり分かってる……」


 弥鳥さんが背後を振り返り、その向こうを指し示す。

 薄暗い洞窟の向こうに蒼白く輝く月の光がある。それは向こう側への扉。

 その先を眺めた瞬間、視界にエメラルドグリーンに照らされた星空が広がった。






 昼夜の区別なく、日月がめぐる静謐の虚空が天をおおっていた。

 世界は九重ここのえの山脈に囲まれた渺茫びょうぼうたる大海の上にあった。

 その荘厳無窮むきゅうの宇宙を、視覚を超えたヴィジョンが見はるかす。

 すると闇夜のように透き通った海に、小波さざなみが立つのが見えた。

 それはいくつもの国をも呑み込む小波。


「見える?」

「うん。竜だ」


 大海を攪拌かくはんするように、水底で巨大な竜が胎動する。


「あれは……世界を支える九頭竜アナンタ


 その長大な姿のごく一部が海面に橋を架けるのが見える。

 水飛沫のように、輝く幾千もの立体が周囲に撒き散らされ、分裂し、拡散する。降り注ぐ驟雨しゅううとなって、星々の光を乱反射する。


「あの水滴のひとつひとつに、どのくらいの世界が宿ってるのかな」

「ほら、世界樹が喜んでる」


 無辺の世界の中心に、天へとそびえる山があった。世界を支える柱、世界軸アクシス・ムンディ。その構造が水晶のように見透せる。

 大海の奥深くから吸い上げられた力が、キラキラと明滅しながら流れ、無数の枝々を通じて遥かな虚空へと流れていく。


「あそこから……すべての島世界へ通じてるんだね」

「そう。生命の力を伝えるネットワーク……竜脈だ」


 その輝く流れを中空に浮かぶ無数の構造体が反射して、合わせ鏡のようにその光を増幅する。

 限りのない数は不安を消してくれる。あらゆる可能世界の海に浸されて、何もかもが自由に在った。

 君と僕はあそこにいた。






 涙があふれる。

 地響きの激しさを増す洞窟の中で、俺は地に両手を突いて泣きじゃくっていた。


「思い出した……。俺のままでいられる世界……」

「久凪くん、その感情は……その目に映る向こう側の世界は、誰とも分かち合えないんだよ」


 見上げると亀裂の向こうから弥鳥さんが微笑んでいた。


「ボク以外とはね」


 髪を結い上げた赤いリボンが光っている。初めて会ったあの廃ビルの屋上で……俺は願ったんだ。そのいざないを。

 自分の胸から流れ出す光が暖かい。

 だけど何かが……俺をつなぎ止める。






「それでも……あたしは、あの世界へ帰るよ」


 声が聞こえた。

 それはあの、異世界でサバイバルを続ける少女ミツキの言葉。

 あやのの物語……。

 そうだ。

 それでも俺はあやのと約束した。また会おうって。

 彼方がいて、平沢先生のいる、あの世界で。

 たとえ何度この決意が……痛みを抱える覚悟がゆらぎ、絶望に殺される未来があったとしても……俺はあそこへ戻らなきゃいけない……。


「それじゃ、何のためにこの物語はあったの?」


 立ち上がる俺に、弥鳥さんの金色の瞳がじっと向けられる。

 ふたりを分かつ亀裂が広がる。その向こう側に立つ弥鳥さんの姿が半ば透き通って見える。


「救われるために物語があったというなら……終わってしまえばもう要らない?」


 俺の背後には、あやののいる世界への帰路がある。この崩れ落ちる洞窟の外へ続いている。

 俺は選ばなければいけない。

 そして物語はいつも、最後には俺をこの洞窟から外へと……あやのと再会する世界へと連れ戻すんだ。

 それまでよりほんの少し生きるのが楽になった……そんな現実で俺は目覚めるだろう。中学生の頃は独りよがりに苛立ってたなあなんて当たり前のように振り返って、大人になったつもりになるんだろう。

 その結末への流れに抗える訳がないんだ。


「弥鳥さん……世界を救うのが俺の使命だったって言ってたね」


 右手に勇者の剣が現れる。

 全身を白く輝く聖なる衣が覆う。

 これは君に導かれて覚えた力……世界をすら救える力だ。


「俺昔から……世界を救えると思ってた。そうしなきゃって思ってたんだよ」

「うん」

「でもそれって……自分を救いたかったんやな」


 そして世界を壊したいという思いは、自分を壊したいということなんだ。

 俺は右手の剣を自分の胸に突き立てる。

 真夜マーヤーが……想像の創り出した刃が、賢者の石に当たって甲高い音を響かせる。


「こっち側も向こう側も同じ……その選択を迫ること自体が物語のごまかしなんや」


 自分という殻に亀裂が走るのが分かる。

 剣を引き抜くと、賢者の石がこぼれ落ちるのに合わせてが砕ける。

 しがみついていた自分から、自分が解放される。

 その僕の心を宿して輝く石が、大地を跳ねて、亀裂へ向かって転がり、深淵へ落ちるその前に、手が伸ばされる。

 弥鳥さん、君の手がそれをつかんでくれる。


 そう弥鳥さん、知ってたよ。

 君は僕の想像したもうひとりの僕――。


「そうだね、久凪くん。ボクがキミになってあげる」


 弥鳥さんの隣に立つ僕は、いまどんな姿をしているだろう。

 僕達の目の前には、月のように優しく輝く光がその扉を開けている。向こう側へと――。


「さあ行こう」


 そうだね、行こう。

 折り畳まれた無数の時間と空間を越えて、僕はいまようやくここに辿り着いた。

 振り返ると、亀裂の向こうに、勒郎ろくろう……君が立っている。

 勇者の剣を手に、聖なる衣をまとって、眩しそうに僕を眺めている。

 その君の身体が、ゆっくり外の世界へと浮かんでいく。

 そう、君は生きる。






 勒郎、これは君へ向けた物語だった。

 君はこれから痛みと向き合って生きる。その世界の人達と共に。ときに危なっかしく、それでも不完全な自分を受け入れながら。

 その勇者の剣と聖なる衣が、君の戦いを助けてくれる。


 だけどその胸には空虚がある。

 その不在を思い出して、ときどき君は空を見上げるんだ。

 あの世界を思い出して。

 物語の終焉から踏み出すことでのみ辿り着ける、静謐の世界アタラクシアを。


 でもきっと大丈夫。

 僕はこれから、弥鳥さんと世界山メールを旅する。

 そして人類史を塗り潰す暗黒に立ち向かうだろう。

 そのすべては君にとって、一瞬頭をよぎる淡いイメージかも知れない。

 だから僕はここまで、この物語をつむいできたんだ。


 じゃあね、勒郎。

 ありがとう、君の痛みを、僕は祝福するよ。

 この世界に物語を生み、そしてそれを解放する、その痛みを。



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終焉のアタラクシア ―キミを救うために来たんだよ― 灰都とおり @promenade

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