世界を救えると思ってた ①

「閉じた物語が真に駆動することはないわ。物語とは、自分自身を規定し、幾多の制約を自らに課しながら、それを逸脱し続ける力……あたしが求めるのはそれなの!」


 広大な船室を横切るように歩きながら、おおとり殊子ことこが話していた。

 そこは何十人もが集う司令室に見えたが、いるのは黒い長髪をなびかせる殊子と、正面に映された星々のヴィジョンを眺める俺だけだ。

 世界を魔術化する杖メルクリウス……その異形の船が、世界山メールから――永遠の安らぎから、俺を連れ出した。


「鳳さんは……つまり、逃げるなって言いたいんですか?」

「ううん?」


 考え事をするように歩いていた殊子が立ち止まり、面白そうに俺を見つめる。

 彼女の背後のヴィジョンが、無数の星の光を収束させて眩しさを増していく。目的地が近いらしい。


「逃げることもまた君の物語だよね! だって痛みを恐れるから、不安から逃れようとするから、物語は生まれるんだ」


 恐い――その感情が、殊子の言葉を聞いているうちに嵐のように渦巻いた。

 なぜ俺はふたたび戻ろうとしてるんだ?

 身体に、心に襲いかかる痛みが恐ろしい。あの世界では、刃の雨の中を歩いているようだった。


「あたしは最前線でその物語を追いかける」


 すぐ目の前に、緑色に光る殊子の瞳があってぞくりとする。

 俺を覗き込みながらまったく別の何かに焦点を合わせた異形の目。こいつもワタリガラスと同類だ。まともな人間じゃない。


「……そう、魔子もあそこにいるね。君があたし達をつなげてくれた。そしてあそこにはもっと多くの物語が収束してる」


 殊子が正面のヴィジョンに向き直る。

 そこにぼんやり輝く光の玉が映っていた。懐かしさ……と同時に、寄る辺のない不安さを感じた。


「それでも……どれほど多くの物語が語られたとしても、いま君の前に立ち現れる物語はただひとつなんだ。流れにぶつかりながら火花を散らして、それはそこにある……」


 その言葉の最後の響きが脳裡に残るうちに、俺は暗闇に投げ出されていた。






「あなたを……待ってたの」


 彩飾で縁取られた大きな目が、暗黒の中から俺を見つめる。

 伸び放題の髪を豪奢ごうしゃに飾り立てた少女。ジャガナートがそこにいた。


「ここは……!」

『さあ、君の物語を聴かせて』


 殊子がその存在を虚海船の向こうに消すのが分かる。ああそうだな。ここから先は俺の物語だ。


「この場へ来た誰もを……あたしは知ってるわ。いまここにいるのがあなたであることに理由はないの……ただそうだったというだけ」


 少女の声が意識にさざ波を立て、遥かな過去の記憶が甦る。ここは世界のことわりを破壊する歯車の中心、すり鉢状になった洞窟の奥。

 そしてこのあと何があったのかを俺は思い出す。

 ふと、すぐ傍に弥鳥みとりさんの気配を感じた。


「ほら、あそこだよ久凪くなぎくん。向こう側への扉だ」


 ジャガナートの背後の暗闇にその光があった。叢雲むらくもを透かす月のようにかすかな光。

 しかし俺が見つめるのはジャガナートの足元だ。

 吐き気がする。

 何ておぞましいんだ。

 名付け難いそれ・・が現れようとしている。この世界への強烈な憎悪と怨念。

 しかし俺はそれを知っていた。


「久凪くん……? どこ見てるの」

「弥鳥さん、俺はまずこいつに向き合わなあかんかったんや」

「だめ……!」


 真っ黒な何かが“こちら側”へ手を伸ばす。

 俺もまた手を伸ばし、その手に重ねる。

 この世を暗黒に染める凄まじい憎しみが溢れ出す瞬間、俺はそれ・・に向かって呼び掛けていた。


「……勒郎ろくろう


 世界を壊す轟音が洞窟を満たし、暗黒の光が視界をおおう。

 背筋を強烈な痺れが走り、それ・・が脳内で叫んだ。


 足りないよ。足りないよ。もっともっと壊して。この世に生きるすべての人間を壊して……!


 そうだ。

 俺がそう思った。

 生きとし生けるものへの憎悪……全部、俺の願いだった。






 闇の中でサイレンの音が聞こえる。

 都会の夜のざわついた気配と走り回る車の音からほんの少し距離をとった、稲荷神社の暗がりの中に俺達はいた。

 あれは小学2年生が出歩くにしては遅い時間だった。

 生ぬるい空気が震えていた。


「救急車や……」


 鳥居の前に立つ彼方かなたが、わざわざ振り返って言った。

 サイレンに耳を澄ますように周囲を見回していたあやのが、何か言いたげに俺を見た。


「何や……もうちょいやったのに」


 コックリさん……鳥居をゲートに“向こう側”へ行く儀式の中断を残念がるように俺はつぶやいた。それは向こうへ踏み込むタイミングを逸した言い訳にも聞こえた。

 あのとき、どうして鳥居を越えなかったのか?

 世界がそのままである残酷さを目の当たりにするより、いつでも向こう側へ行ける魔法を残しておきたいと思ったんだ。

 それとも、サイレンが自分のマンションの方から聞こえてくることに胸騒ぎを覚えていたのか。


「勒郎、お母さんダメだったよ」


 あの夜マンションへ帰ったとき、父親がやけにそっけなく言った。

 いや、あれは病院だったはず。


「ダメやったって……?」


 噛み付くように声を絞り出していた。

 何度も未遂があったので、何があったのかはほとんど正確に分かっていた。だけどそれは、起こり得るはずのないことだった。

 横たえられたお母さんの身体を現実感のないまま見下ろしていた。


「……何それ」


 見捨てられた。

 ののしられるより殴られるより強い、そして絶対的な拒絶が、底の見えない断崖としてそこに広がっていた。

 その真っ暗な深淵をぼんやりと覗きながら、俺はしっかりと理解した。


 この世界には価値がない。


 反論しようのない完全な形で、そのことが証明されていた。

 もしも世界が美しいなら、生きることに価値があるのなら……この俺の存在に意味があるのなら、お母さんはなぜそれを捨てるだろう?

 涙は出なかった。

 俺はそれを全部怒りに変えた。世界への憎悪へと持ち変えた。






 世界がきしみをあげて砕けていく。重なり合う無数の宇宙がその崩壊を連鎖させる。その破滅的なヴィジョンが頭を揺さぶっていた。


「僅かなゆらぎが……これほど甚大な影響を及ぼすとは」


 幾何学模様で飾られた円形スペースに、銀髪を後ろでひっつめにした白いスーツの人物が立ち、同じような服装をした部下の報告を受けている。


「プルシャ、冥界流入経路の92%が特定できました」

「やっかいですね……因果循環を起こしている。これでは手が届きません。ジャガナートの状況は」

「流入した暗黒体を追うように業報ごうほう直径を増大させています。暗黒体はすでに3000の3乗に及ぶ島世界に侵入しているため、すぐにそれだけの規模に膨張すると見られます」

「そうでしょうね」


 すべてを諦めたように、プルシャがその整った顔に微笑に似た表情を浮かべた。


「世界を壊す衝動……それは何度でも繰り返すでしょう。ですがそのたびに我々は修復する」


 プルシャが視線をこっちに向けるのでどきりとする。

 まるで何かに祈るような静かな目だ。


「崩落がどこに行き着くかは、この閉じた因果の輪に託されています」






 ……壊せ!

 その絶叫だけが頭に響いていた。

 その中で、小さな声が聞こえた。


「勒郎さん……!」


 激しい震動と轟音の中で、その声が俺を洞窟に引き戻す。

 正面に立つ影と対峙しながら、俺は背後からの視線を感じていた。

 洞窟の外へ放り出されながら、来子くるこが必死に呼びかけてくれていた。

 ワタリガラスが、来訪者達が、うねるように揺れる洞窟から身を起こす。彼らの身体は無重力の中のように浮かび、外の世界へと押し出されていく。

 ジャガナートの影響なのか、奇妙にねじれ、崩れた身体も多く、空中でバラバラに砕ける者もいた。

 気付くと自分の手足もいびつにひしゃげていた。まるで内側から何かに喰い破られるように、身体が崩れていく。

 その身体を見つめながら呟いた。


「……そう……全部壊したかった。忘れてた」


 目の前に真っ黒な子供が立っていた。その刺すような敵意に心が洗われるようだ。

 これは俺の敵意だ。

 手放しちゃいけない、心の底からの感情。

 子供の手に重ねた自分の手が、燃え尽きた炭のようになっている。

 そこから恐ろしい光が生じようとしていた。

 これで世界を壊せる。のうのうと日常を暮らす奴らを。この世が素晴らしいと空言を吐く笑顔を。

 いまここで世界ごと消えるなら、願い続けたことが叶うんだ。


『……じゃあな勒郎』


 そのとき黒いスカートをはためかせてワタリガラスが洞窟を飛び出していった。その身体をうっすらと緑色の光が覆っていた。

 幻覚のようなそのイメージと共に、頭の中でワタリガラスの声が静かに響いていた。

 まるで少女のような声だ。


『俺は先に行くぜ……お前の心の底なんて、お前が見つめるしかないんだ』

 

 何を偉そうに言ってるんだ。

 心の底だって……?

 そう思ったとき、舞台がぐるりと入れ替わった。






「これは……裏切りやと思って欲しくないんやけど」


 言葉を探すように、俺が・・話していた。

 その冴えない大人が、古書店のカウンターに立って店の入口から射し込む陽光を眺めていた。

 こいつは何を言ってるんだ?


「誰も助けてくれへんってのは、思い込みなんやで?」


 店内では、そいつと同じ制服の女の人が少年マンガの棚を整理していた。あれは阿佐ヶ谷さんだ。妙に真剣な顔付きで、窮屈な棚に並ぶシリーズものを並べ替えている。


「お前はただ……寂しかったんやろ?」


 俺がいけしゃあしゃあと語りかける。

 何だそれ? ふざけるな。

 暗黒に身を染める子供が絶叫している。


「いまでも時々聞こえるんや、お前が寂しがってるんが。それでこんな世界全部投げ出したいって、いまでもよく思うで? でも……それでもまだ俺はここにおるよ」


 阿佐ヶ谷さんがカウンターへやって来て、ふた昔前の少年マンガを並べる。これはネットで売った方がええんちゃう? ああ珍しいなあ、80年代の少年マンガはやっぱり凄かったですね。


「お前の目にはただの真っ暗闇が続いてると思うやろ。でも……その闇は突然嘘みたいに消えるんやで?」


 何でそんなこと断言できるんだ?

 だってあのとき、そんなことはなかったのに。

 一番欲しかったときに光は射さなかった。

 救いは来ないんだ・・・・・・・・……!


「そう、せやから俺は……想像したんや。もしも……この世界に救いがあったらって」


 はっとする。

 そうだ、いつか誰かに手を差し伸べられた。


――キミを救うために来たんだよ。






 衝撃を受けて目が覚める。

 胸がうずくように熱い。

 地響きの鳴る暗い洞窟に倒れ込んでいた。

 全身真っ黒の子供が俺を見下ろしていた。


 ……あんなことあり得ないんだ。


 その子が言った。


 ……この世界では……誰かに手を差し伸べられることなんてないんだ。


 崩れた身体を起こして、俺はその子供へ手を伸ばす。

 それはジャガナートで裁ち切ろうとしていた……俺自身だった。


 ……くだらない……そんな慰めは求めてないよ。僕はひとりでいい。お前ら全員殺せるようになるまで戦い続けてやる。


「ああ分かる……でも俺は知ってる……! その闇だけがすべてとちゃうんや」


 緑色の光が視界を染めていた。

 砕けたはずなのに……胸の奥で賢者の石が輝いている。

 エメラルドグリーンの光が洞窟を照らす。

 その光の中に、魔法使いの女の子がいた。

 オレンジ色のワンピースをひるがえして、夢幻少女・久遠くおんが得意気に魔法の矢を放つ。


「そうや……世界は物語で満ちてる。誰もが戦いの中にあるんや」


 少女の隣を走る白い生き物が、ブレザー姿の小さな女の子の姿になる。

 銀色の光をまとったククが笑っている。


「そこでは……抱える闇も、行き場のない苦しみも、能力になる。自縄自縛の思い込みに殺されそうなら……いっそ突き詰めたらええんや!」


 上目遣いで路地裏を歩く来子くるこの姿が見えた。その背後に大きなミーアクラアの影が見える。その黒い毛並みに来子が半ば身をうずめて、街の雑踏を眺める。

 じっと前を見つめるその視線に、俺はかすかな火花を見る。

 闇を通してなおこの世界を肯定できる光を、俺は勝手に感じ取る。


 眩しい緑の光の中で、その子供が泣いている。

 ずっと泣いていたんだ。

 その全身の暗闇がガラスのように結晶化し、ぽろぽろと剥がれ落ちていた。


 ダメだ僕のなのに……!

 剥がれちゃう。

 全部なくなっちゃう……!


「大丈夫や……!」


 俺は叫ぶ。

 緑色の光が見せるヴィジョンの向こうで、召喚した虚海船に乗り込むワタリガラスが唇の端を吊り上げて笑っていた。

 偉そうに笑うなよワタリガラス。

 だけど、お前に刺された痛みを俺は一生憶えておいてやる。


「その闇……どうせなくなることなんかないんや」


 崩れ落ちる黒い破片にしがみつくように身を投げ出す子供に向かって、俺も手を伸ばす。


「俺も半分持ってく……!」


 鋭い破片が手を刺し、身体の内側に根を張る。激痛が身体を捻り上げる。

 それでも胸から溢れる光は強くなる。

 俺は分かっていた。

 これはいまこの瞬間だけの決意……明日には翻るかも知れない、か弱い決意だ。






 ハレーションを起こした緑の光の向こうで、誰かが机に座っていた。ノートに頭をくっつけて何かを書き込んでいた。

 勢いのあるその描線がマンガのコマをはみ出している。

 ミツキの顔だ。

 額から血を浴びて、それでも読者の方を振り向きながら激情の叫びを上げている。


「……お前はいつも叫んでるな」


 ふと口にしたその言葉が届いたらしい。

 おかっぱの頭が起き上がってこっちを眺めた。


「……何や、また夢か?」


 黒縁メガネの奥から、あやのの切れ長の目が呆れたように俺を見つめていた。


「そう夢や……でも、世界を変える夢や」

「……アホか。勒郎のくせに何カッコつけてんねん」

「あは……そやな。でもほんまに……世界が変わることもあるんやって思えてん」

「ふーん」


 あやのが怪訝けげんそうに顔を上げて、見下すような視線を向ける。くそ、俺の方が4ヶ月も年長なんだぞ。


「いまさら? そんなん昔から知ってたやろ。せやからあんたはあのときやって……」

「あやの、手紙読んだで」

「え? ……あそう」


 あやのが目を泳がせる。どうせ夢だ、遠慮しても仕方がない。


「今度そっちに行くな。平沢先生からお前のノート預かってるし」

「ふーん……あれ途中になっとったな」

「あの話の続き、描いとってや」

「言われんでもいま描いてるわアホ!」


 そうだ。こいつは描き続ける。こいつが抱える痛みがある限り。






 賢者の石の“糸電話”がつないだその瞬間を、俺は忘れない。

 そうなんだ。

 その苦痛が、不安が、恐怖が、お前の本質だ。お前の武器なんだ。その怒りが、憎しみが、悲しみが……物語を駆動させるんだ。


「その痛みを……手放すな!」


 眩しい光の中で、子供の姿をしたその黒い影が崩れ落ちる。

 同時に、俺の身体を内側から引き裂いていた黒い塊が砕けるのが分かる。それは自分の身体の一部だったのかも知れない。何かが深いところで混じり合っていた。

 ゆっくりと光が胸の奥へ消えていく。

 崩れた身体を、俺はゆっくり取り戻す。


「円環はいま裁ち切られたわ……」


 がりりと何かを噛み砕くような音がして、見上げるとジャガナートの少女が大きな瞳を向けて俺を見下ろしていた。


「あたしはジャガナート……ここに終焉を迎える」


 その言葉と共に、宇宙的なビジョンが脳裡に流れ込んで目眩めまいを起こす。

 重なり合う無数の……数千数万を掛け合わせた膨大な世界を巻き込んで回転する歯車……その周囲に群がる影達が、来訪者達が叫んでいた。

 壮大なファンファーレ。

 祭典の終わりを惜しむように。


「プルシャ、流入経路が閉じています」

「ええ……見ていました。なんて退屈な自己充足……ともあれ、世界は救われる」


 様々な世界の断片から、俺を見つめる幾人もの視線があった。

 そしてそれら無数の世界に牙を突き立てるジャガナートが、回転しながら壊れ、崩れていく。 

 この祭典の後、世界はその姿を変えるのだろう。

 だけど当面、それでも世界は続く。

 俺の痛みも……物語も、まだ先がある。

 そうだ、まずはあやのの話の続きを読みたい。平沢先生にも話して……それから父親とも。

 俺は立ち上がり、その先を見るように洞窟の外を眺めた。何かが変わった世界がその先にあるはずだ。


「それで……キミはどうするの? 久凪くん」


 すぐ後ろに弥鳥さんが立っていた。

 崩れゆく洞窟の奥を振り返ると、そこにあの月のように幽かな光がいまも浮かんでいた。


「これでキミの夢は覚めた? それとも……まだ見果てない想いが向こうにある?」


 彼女の大きな瞳がじっと俺を覗き込んでいる。その焦点はどこか異なる世界に結ばれていた。

 異世界へと開かれた扉がそこにあった。



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