レミングの恋愛

平方和

レミングの恋愛

 腿の辺りがそろそろ痛みを持って凝り始めていた。もう三時間は歩いているだろうか。いつか道は緩やかな下りに変わり、秋の日差しは急な角度で墜ち始めていた。

 辿り始めた道が、何処までも途切れなかったのだ。どこかでT字路にでもなって、前を塞がれていたなら、そこで足を止めたかも知れなかった。それでこの混迷から抜け出せたかも知れなかったのだ。けれどそんなぼくを見限って道は、横切る街道さえ越えてまだ続いていた。

 痛みは足首にも集中し始めていた。いや語りたいのは、実際の痛みではない。今日また感じてしまった痛みは想いの中にあった。この十日程感じずに居られたものだった。淋しさとは傷の様なもので、時間を措けば直ってしまうと信じたかったのだ。昨日まではそれを信じられる気分だった。けれど、乾いた掌に開くあかぎれに似て、節理の様に傷は口を開いた。傷口は小さくとも無数にあった。力の加減で思わぬ方向から、薄刃を立てる様な痛みが走った。

 眠れないという症状を忘れさせてくれた部屋があった。癇ばしる心を撫でさすって、落ち着かせてくれた女がいた。過ぎた道筋の遥か後方にその街はあった。けれど後にした道は、ぼくにはもう知覚できなくなっていた。

 振り返るという動作すら、心の何処かから制動が掛かってしまう。立ち止まり振り向きさえすれば見渡せる筈の暖かだった街は、ぼくの記憶の地図の中で連続面を失っていた。

 区分された地図帳では隣の区域ですら頁が跳んでいる事がある。まるでそんな風にぼくの土地勘は狭くセグメントされて、その先が何処に繋がるかさえ曖昧になっていた。

 気の良い女がいた街。そんな街は本当にあったのだろうか。そんな女がいたのだろうか。記憶の頁がめくれつつあって、確かだった実在感すら厚みを失くしつつあった。

 軽い空腹を感じていた。総菜パンでいい、コンビニエンスストアがこちら側の歩道にあったら入ろう、と思った。対岸には幾つかあったが、この道路を渡る事すら、何故だか躊躇していた。気にする事はない、コンビニエンスストアなど何処にでもあるのだ。見知らぬ通りであっても、それをあてにしていい。コビニエンスストアの使い方とはそういうものだろう。


 十日前にはまだ妙に暖かい日があった。ぼくは日雇いのアルバイト先から夜更けの道を辿っていた。道筋にあったコンビニエンスストアに入って、甘い物を物色した。

 店舗に依っては洋菓子に力を入れていて、餡のものが殆ど無い処もある。その店の和菓子は充実していた。肉体の疲労もあって、本能的に甘い物を欲していたのだ。あれこれに手が伸びた。傍らで笑う女がいた。

「だんご、だいふく、次は何を手にするかと思って」

 言い訳の様に話し掛けて来た女は、明らかに酔っていた。ぼくより五つ程は若いだろうか。ぼくが手にしたパッケージに目を向けていた。餡を絡めた一口大の蓬餅が十個程入っている商品の、最後のひとつだった。

 譲ろうか、と言うと、それ半分だけ食べたい、と言う。分けて呉れるなら、うちへ来ない、と誘われた。陽気な酒が入っているらしく、警戒心が無かった。

 1DKの部屋に招き入れられた。硝子の天板のついた小さなテーブルに座った。女はカラフルな薬缶で湯を沸かした。水回りの台の前で、薬缶の立てる音を聴いている様だった。沸騰へ向う高まりを聴くと女は電熱器のスイッチを切った。茶筒は小さなものだった。茶葉の量さえも慎重に計って女は茶をいれて呉れた。

 それを待つ間に、既にぼくは大福にかぶり着いていた。蓬餅のパッケージを開けて、女が出した皿に半分づつを盛った。傍らにそれを置いた。脇に座っていた筈の女は、その時には崩れる様に眠り込んでいた。

 食べなよ、と声を掛けても、小さく唸るばかりで眠りから醒める事はなかった。団子を食べ、お茶をお代わりしてからぼくは、女をベッドに運び寝かし着けた。程なく夜明けだった。傍らの床にクッションを並べ、ブルゾンを羽織ってぼくも眠りに落ちた。

「居ていいのか」と訊いたのは翌朝だった。

「行くあてなんてないんでしょ」と言われ、それから十日をそこで過ごしたのだ。


 鉄道の山側は西へ直進する道ばかりが並行に走っている。その西の端で仕事を終えると、南下する方法はバスに頼らなくてはならない。常勤の仕事をしていた当時は、それが帰宅のルートだった。

 その頃にはまだ家庭があった。終業時間の正確な妻が、夕食を用意して待っている筈だった。会社を出て細い道を急ぎ足で歩いた。公園の脇のバス停に到達すると、どうした訳かいつでもバスは三十分程後になってしまった。気忙しくここ迄至って、吹き溜まる様に歩みを止めなければならなかった。

 今となっては二十代ですら、幼かったと言わねばならない。夫婦は互いに相手を教育しつつ日常を過ごした。それにしても妻としては夫に、ひとりでは何も出来ない様な教育をすべきだったのではないだろうか。この夫は家事の全般を厭わずにした。だからやがては妻さえ無用の人員となった。

 この地方都市での賃金は決して潤沢ではなかった。その上に経費の削減などを断行され、残業で潤わせていた生活費さえ不足した。やがては難破する事を社内の誰もが見越していた。

 そんな折に希望退職者の募集が通達された。その後の宛てなど無かったが、真っ先に応じた。僅かでも退職金を得て貯えを持って備えるのと、擦り切れる迄働いてある日職場が破綻するのと、どちらを選ぶかという問題だった。

 それはぼくの価値観でこそ成り立ち得る選択だった。妻は無言で詰っていた。手を束ねて部屋にいる事で、日毎追いつめられ意識させられたのは、安定を欠いた立場だった。だから否応なく去らねばならなかった。

 収入のない事などの不安までを、分かたずにおく為にこそ、ぼくは離婚をした。気丈な妻は、ひとりでも大丈夫、という素振りを見せた。その判断が正しかったのかは、今になっても分明ではない。

 北の外れに小さな部屋を借りて、家財の半分を運んだ。物の無くなった部屋は、春先の柔らかな日差しの中で、どこか居心地の良さを取り戻していた。


 転がり込んだ見知らない街は、どの道も暖かく思えた。歩く事に心が弾んだ。晴れた日には女と散歩に出た。設計事務所とバイク屋ばかりが目立つ通りを、女に導かれて歩んだ。

 残暑が去って以来、湿度もなく晴れる日が続いていた。視線を上に向けて歩くぼくに向けて、空が青い星に生まれて良かったね、と女が言った。暢気な言葉に頷き乍らも、このぼくと話が合う様では、時代の速度に乗り遅れているぞ、と思った。

 時流を見越して方針を決めるという事など、これまで一度もぼくはして来なかった。結果を出す為にこそ行動するというのが、いつもの選択だった。

 ギャンブルが好きな訳ではない。けれどナンバーズという宝籤には興味があった。何でもない数字に値段が着く事が面白いのだ。それも語呂合わせの通じない数字ほど面白い。意味のない数字の羅列にさえ、何本かの当選者がある。

 結局、ぼくが好んでいるのは賭け事でなはく、偶然性なのだろう。それはどこか信仰めいてさえいた。意図せずに出逢うものにこそ必然を感じていた。

 夕暮れまで歩いた。神社を脇へ抜けると、見慣れた通りの端に出た。程々に疲労を感じて、そのあたりで折り返す事にした。夕食の総菜などを買い、女の部屋へ戻った。


 北の外れに住み着いて、派遣業者に登録をした。仕事依頼の電話を待って暮した。仕事は概ね日雇いだった。せいぜい続いて一週間程のもので、当面の生活費を稼ぐのがやっとだった。

 指示されるままにあちらこちらへと出向いた。駐車場の整理、交通量の調査。疲労はあっても頭まで疲れる仕事ではなかった。それはいつまでも悲しみを温存させた。

 出先が変われば帰途に降り立つバス停も様々だった。東側から、西側からぼくはひとり住む町へ戻った。ひと夏の間にぼくは様々な脇道を覚えた。頭の中の地図は詳細になって行った筈だった。するとやがて、通るのに気が進まない路地というものも出来た。

 路地の入り口で足が止まるのだ。悲しみを抱えて通過した道筋を再び通る時、悲しい気分を再現してしまう。そんな事を、数度繰り返すと、身体が覚えてしまう。建物の相だろうか、道の容貌だろうか、そんなものに悲しみを結びつけてしまったのだ。

 そんな場所を通るのは辛く、なるべく避けたかった。自動車にとっての交通標識の様に、街角にぼくの歩みを封じるものが立っている様だった。

 そんな風にして通れる道が無くなってしまった。曲がれない路地はやがて意識から消えた。いつか道が見えなくなっていた。使える経路は、次第に複雑な図形を描く様になった。それは迷路だった。

 迷路になってしまった街を抜けようと、曲がれる角は躊躇なく曲がって進んだ。そうしてやっとの思いで脱出した場所がここだった。


 二羽の蝶が絡み合い乍ら舞っていた。互いの軌道は螺旋を描いていた。相手を取り込むべく円を描いて、蝶は上昇を続けていた。蝶は互いだけを意識しているかの様だった。

 女もこれを見つめていた。空間を二人の間だけで封じようとしている蝶の、その様をぼくは、ぼく達に敷衍しようとしていた。女も同じ思いを抱いているのだろうか。

 女は売れないモデルだった。仕事はチラシに載る様な写真ばかりで、量販店の既成服を着こなす見本という役割を演じていた。その他に派遣業者が回して来るのは内覧会などのコンパニオンだった。時折、部屋で舌を噛みそうな術語ばかりの原稿を声に出して、ナレーションの練習をしていた。

 ぼくもこの部屋から幾度か仕事に出た。建て売り住宅の現場で矢印の大書されたプラカードを持って一日座る仕事。あるいは集客の望めないイベントのサクラ。そんな事で日銭だけはあった。

 帰宅の途上で、つい甘い物を買った。チョコレートを買って帰った日には、女がおはぎを買って来た。ドーナツを買って帰ると、女はミルクレープを買って帰っていた。互いに甘味で何かを癒そうとしていた。


 通り添いに長く続く金網の向こうは、埃っぽい校庭だった。さすがに敷地は広く、様々な球技が同時に行われている。遠く管楽器の練習曲も流れている。傾きを増す日差しは、学生たちの影を濃く落し、立体感を深めていた。何かが切なさを呼んだ。

 サッカーに夢中だった学生時代。ゴールめがけて蹴った球が足許から描いた軌跡。記憶の中では地面の高さに視点があった。ボールは見る間に空に小さくなり、やがてゴールへと降下して行く。

 二十年前の空だからあんなに広かったのだろうか。それともこの校庭にいる少年達の空は、まだあの広さがあるのだろうか。ぼくにとって今やこの街さえもが、狭く閉ざされようとしている。やがて知るそんな未来を、少年達は思いもせずにいるのだろう。


 女の部屋でぼくは、窓を開け放っていた。夕暮れの冷たい風が入り、閉じてと女に言われれば、一旦は閉じる。けれどやがて部屋が暖まれば、またぼくは窓を開いた。閉ざされる事に嫌悪感があったのだ。

 また眠りを振り棄ててしまった。微睡みの中に釘が飛び出している。柔らかな物の中の異物を手触りで知覚すると、背筋に嫌悪感が走りぼくは覚醒を呼んでしまうのだ。

 掛けていた毛布を取り除け、片寄せられているテーブルからぼくは餡パンを口にする。袋には五つの小さな餡パンがあった。ひとつ食べて満足せず、ぼくはまたひとつ手にする。甘味で口を満たしても、それを飲み込んでも、心の空隙を満たす事は出来なかった。けれど他にどうすれば良かったのだろうか。ぼくはまたひとつ手にして、過食症患者の気持ちを知った。

 脈絡なく思い出すのは、女がマンションの入口の郵便受けから持ち帰り、背で隠す様にしてバッグにしまった手紙だった。弟から、と言った。それを疑う訳ではない。けれどあの隠す動作は何だったのか。何が書いてあったのか。

 ベッドで女はあどけなく眠っている。傍らのドレッサーに並んだ化粧品の瓶の間に、携帯電話の充電器があった。勿論、電話機も何処かにあるのだろう。それに依って仕事の連絡を受けているのだから。けれど思い出せる範囲では、女がこの部屋で電話を受けている場面は無かった。スイッチを切っているのだろうか。

 夜は静寂の中にあった。ここにはまだ苦みなど無かった。けれどここに暮して行くうちには、これがまた苦みに転じると予測が着いていた。その時にはこの女を、また憎むのだろうか。それが苦痛だった。


 学校のある地域に歩を進めると、様々な階層の学生が行き交っていた。同じ年齢層の者同士が寄り添って流れを作り、複数のせせらぎが歩道に流入していた。速度の違う流れは、何処まで行っても互いに混じり合わないまま、皆一様に道を下って行った。高校生と小学生は空間を共有していないだろうか。

 子供達は声高に囀っていた。それは会話の破壊行為だった。他人の語尾を抑え込む様に、子供は声のトーンを上げ、話題を繋ぐ。そんな様を分析して苦い思いを抱き乍ら、ぼくは自分もまた児戯めいた事をしている、と思った。

 ささくれを逆になぞれば微細な痛みが刺すばかりなのだ。心のささくれをいつまでも治められず、座っている事に落ち着けなくて、ぼくは女の部屋を出た。昼を過ぎた時間だった。女は仕事に出ていた。ぼくはひとり電話を待つばかりの午後だった。

 行くあてすら決めず、大きな通りを道の流れるままに歩んでいた。道はそうと意識しなくては気づかない程の、緩やかな上りだった。歩んでもどこかにある微細な痛みの刺激は去らなかった。だから歩みを止めるきっかけを得られなかった。まるで子供が拗ねて家を出て、何処までも歩いてしまう様に似ていた。

 自分を根本的に変える事なく何が変革出来るのだろう。妻と暮らせなかった者が、どうして新しい女と暮らせるものか。ぼくは生活と言うものに挫折していた。暮らせない者が、暮しの場所を求めてどうなるのか。居場所は何処にもないのではないか。

 歩みが止まったのは、まさにその時だった。ぼくは路上で俯いていた。脇からやって来た散歩の犬が、不思議そうに見上げた。名を呼ばれて犬は、振り返りつつ去って行った。

 犬の毛の白黒は可逆的なものだ、と女と散歩し乍ら話した事を思い出した。雑種の犬の茶の中に混じる白い毛のパターンは、同じく茶の中に混じる黒い毛のパターンと同じ場所に出る、と女は自分の観察結果を得意になって語った。その誇らしげな表情が可愛らしかった。


 憑かれた歩みの呪縛が解けて、公園のベンチに座っていた。隣のベンチにいる男の子は絵本を手に音読をしていた。だが未だ意味を咀嚼する能力は無かった。子供はひらがなを一文字づつ間隔をあけて声にしているに過ぎなかった。

 一体どれほどの年齢からぼくらは本を読む能力を身に着けられたのだろう。ぼくらの獲得した能力は、一文字づつどころか十文字以上の文章を、十行以上に亘ってブロックとして取り込み得るものだ。取り込んだ文字の塊を、改めて文章として再構成しつつ意味を汲むので、その間は本から目を離してしまう事さえ出来る。

 女の家財の小さな赤い冷蔵庫の狭い冷凍庫でチョコレートを冷やしてみた。あれもまた眠れない夜だった。起き出して、卓上の小さなランプを点けた。ぼんやりした思考の中からチョコレートを思い出し、冷蔵庫を開いた。

 パッケージを毟り取ると、艶やかな表面は大理石の様な光沢を持っていた。チョコレートに噛りついた。最初はこれが食品かと疑う程に、歯が立たない様な堅さになっていた。幾度か噛み直すうちに、鋭い音を発して割れた。

 冷たさを口の中に感じているうちに、破片は硬度を失った。ぼくは噛み砕いた。けれど美味しくはなかった。味が曖昧なのだ。甘味や苦みが何かに覆われているかの様で、伝わり方が鈍かった。

 傍らで女が起き出した。眩しさに表情をしかめ乍も、光源に注意を惹かれていた。乱れた髪を梳き乍ら、

「あー、つまみぐい」

 と言って、私にも、と手を出した。どうも美味しくなくて、と言い乍らぼくは、手で割った半分を渡した。女は小さく噛み取って、そうよね、と頷いた。

 これ冷え過ぎてて油分がなかなか溶けて来ないんだもん、と女はいとも容易く分析をした。味を理解する能力に於いては女の方が遥かに優れていた。そんな女にぼくはこれ程のものはない親近感を持った。


 僅か十日のうちに、これを恋だと断言してしまう事には躊躇があった。けれどぼくはそれを信じていた。おそらくは女も信じていた筈だ。それなのにぼくは、そんな拙速な恋など信じていない、といつか言ってしまった。

 女は溜息をつく様に肩を落して、手にしていたワイングラスを置いた。ぼくはまた不安定さを感じ始めていた。何処へ移っても足許が揺らぐ感覚が従いて回る。暫くは忘れる事が出来ても、やがては再発してしまう。

 救けて欲しい、と言う言葉させ口に出来れば、状況はどんなに変わった事だろうか。けれどこの言葉を口にした時に始まってしまう事への恐れも確かにあった。夜更ける程に、互いに口数が減った。その夜の酒宴はそうして静かに終焉した。


 傍らの子供を姉が呼びに来た。それに合わせて、ぼくはベンチから立ち上がった。また直線道路に出て歩き始めた。道は県境の川へ向けて下って行く様だった。ここから始まる歩みは、もう何処へ帰るのでもなくて、居場所の全てを失う事なのだ、とぼくは考えていた。

 直線道路にも幾つかの交差点があった。けれどぼくの足は直進しか選択しなかった。曲がり角に至っても、視線を振る事さえ出来なくなっていた。女の部屋を出て四時間になるだろうか。この先に橋はあるのだろうか。橋さえあるなら、まだ歩みを続ける事が出来る。

 この季節らしい鰯雲が夕焼けに染まって、あたかも桜の花が頭上に散っているかの様だった。角度が合って夕陽が目を射た。眼鏡の視野はその時、全てが黄昏に塞がれていた。                            (了)

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