春の名を持つ女たち

平方和

春の名を持つ女たち

 もう半年も彼女を見ていた筈だと言うのに、その事にぼくが気づいたのはつい最近の事なのだ。季節は秋の半ば。ぼくは三十二になっていた。

 この会社に入って六年が過ぎて、ぼくはすっかり中堅どころになってしまっていた。彼女はこの春から入った新人のデザイナーだ。営業畑のぼくとは、なかなか交流がなく、言葉を交わしたのは半年の間にも数える程だった。

 だからその性格も、良く判ってはいなかった。もっとも彼女の方も、三ヶ月位は緊張して、本来の性格を表に出したりはしなかった様だが。

 彼女が仕事の戦列に加わって、ようやく直接に話をする様になった。その頃から何となく気にはなっていたのだ。

「新しい住処を見つけた気がしたんです」

と、彼女は言った。こんな喋り方をする人を知っているぞ、と記憶にひっかかるものがあった。喋り方から思考パターンが見えて、初めてもう一人の女性の姿が思い浮かんだ。そういえばこの娘もあの人も、春にちなんだ名を持っている。生まれた月を、親は素直に名前に織り込んだのだろう。そして生まれた月は、性格を作るのに何らかの影響を及ぼすのだろうか。記憶の中で、キャンパスの芝生で微笑んでいるのはあの人だ。ぼくが若い日に恋した女性に、彼女は良く似ている。


 二十歳の頃の恋は、まるで心が裸であったかの様に、喜びも悲しみも強い刺激として残っている。それはぼくだけではあるまい。

 そして結局彼女には、苦い想いだけが残っている事だろう。ぼくに残っているのは痛みだが、けれどそれは甘美なものだ。それだけがぼくの思い出の、今に残す価値なのだ。


 夏が終わって、屋外で気持ち良く過ごせる季節になった頃、ぼくは読書に最適の場所を、学内に見つけた。キャンパスの北側、芝生の一角に風雨にさらされたベンチとテーブルが何客か並んだ場所があった。この季節そこには午後になると日差しが差し込んで、程良く明るくなった。ぼくは食事を終えてからその場所に赴いて、のんびりと読書に浸る習慣になっていた。

「卒論の為にアンケートさせて下さい」

と、声を掛けられた。振り仰ぐと彼女が立っていた。カールの掛かった長い髪、パッチワークのロングスカート。アーリーアメリカン調が流行っていた頃だった。

 社会何とか論の論文の為と言われて、日常生活の細かな事について、今まで意識しなかった様な切り口で質問された。彼女はそれを自分でコピーして作ったらしい用紙に書き込んで行った。

 質問が終わってから彼女は、いつもここにいますね、と笑い掛けた。うん、ぼくの定位置だから、とぼくは答えた。

 それから彼女は時々、昼食時にこのベンチへ来て、パンなどを食べ乍らお喋りをする様になった。時々は、彼女のアンケート採集を手伝ったりもした。僅かに季節が移り夕暮れに寒さを感じる様になった頃、ぼく達はようやく連れだって帰る様になった。ベンチが日溜まりにならなくなった頃には、学外でも待ち合わせる様になった。

 そんな風に彼女とは、楽しく付き合った。彼女の就職活動の合間にも、よく会って、共に過ごした。恋をしていたのだ。


 けれど彼女は突然、去って行った。春を迎える前に彼女は連絡を絶った。電話をしても出てはくれなくなった。やがてその番号も変えられてしまった。学生時代を過ごした部屋さえ、いつの間にか移ってしまっていた。

 冷たい拒絶。ぼくの何が悪かったのかと、いつまでも悩んだ。余りにも短い期間だったので、その答は探し様がなかった。酔って友人に愚痴をこぼし続けた夜もある。けれど短い恋は、やがて忘れる事が出来た。

 今でも彼女を悪くは思っていない。何処だか判らないけれど、ぼくが悪かったのだ。

 そうして若い日に、ぼくは心に傷を残した。ほんの僅かだけ、性格に歪みを残した。他人と語る時、ぼくは問いかけをして、けれど返事を待たない人になった。


 大学時代のアルバイトの延長で居着いてしまった小さな会社で、ぼくは編集者を続けていつか二十六になっていた。会社には中途採用で時折、仕事に経験のある新人が入って来た。最初、ぼくを含めて五人だったスタッフも、いつか十人を越えていた。

 小さな会社は、会社らしい待遇もなく、ぼくらは殆どアルバイト同然だった。入社も退社もいきなり決まるのだ。年明けの煩忙な時期を過ごした頃に、営業に新人が入った。


 狭いオフィスに、制作と営業の二つの机の島があった。六つの机からなる制作の島の片隅から、四つの机からなる経理の島を越えて、六つの机からなる営業の島の片隅に座った新人をぼくは見ていた。

 広い部屋という程ではなく、その距離もたいした事がない。離れていてもその二カ所は向き合っていた。折々に何気なくぼくは、彼女を目に止めていた。その面影が気になった。その顔の輪郭、その口元。あの人に似ている、とぼくはやがて思う様になった。

 彼女は五つ年上だった。だから大学で一年上だったあの人より、更に年上な筈だった。気づいた後では常に重なって見えるその面影は、決して嫌なものではなかった。好きだった人の印象に日常に接していられるのは、むしろ何だか嬉しかった。


 狭い社内の事だったから、親しく話をする様になるのにも時間は掛からなかった。昼食を誘い合ったり、退社後にお酒を呑んだりしているうちに、彼女の性格が次第に見えて来た。

 スキーがしたくてアルバイトで暮らしている、と彼女は言った。シーズンになると長い休みを取る。休みをくれない会社は辞めてしまい、何よりも先づスキーを優先して来た、と彼女は言う。

 思いきりの良さは、あの人と同じだ。そして男のあしらいも。ある酒席で彼女はこんな発言をした。

「ふっと彼が煩わしくなったの。気づくとそれは他の男に気をとられ始めたからだった。訳も言わずに別れたわ」

 語り口はさっぱりとして、まるで屈託がなかった。取り残された男の側に立って、その心情に同情しつつ言うぼくの突っ込みにも、

「二人の男とバランス取って付き合うなんて、そんなの面倒よ」

と、彼女はあっさりと答えた。


 その言葉は、彼女の昔の男と一緒に、彼に感情移入していたぼくも押し流したかの様に感じた。面影が似ていて性格も似ている彼女は、おそらく行動も似ているに違いない、と妙な連想が働いた。

 同僚達が陽気に騒ぐ酒場の片隅で、ぼくは回想に浸っていた。あの人もそうだったのだ、と気づいてしまった。誰か別の男が、あの人の心を占めてしまったのか。そしてあの人は去ってしまったのか。

 問い掛けに答など必要なかった。疑問はそのままぼくの確信だった。ここで酒を楽しんでいる彼女は、やはり春にちなんだ名を持っている。それこそが証拠だ、とぼくは思った。


 彼女と恋をする事はなかった。彼女はぼくを、社内の男達の中から引き立てて見る事もしなかった。誰も彼女の眼鏡に叶いはしなかった。やがてぼくは、フリーアルバイターなどという立場に不安を感じ、堅い職業を求めてこの会社を去った。


 アルバイトという立場を嫌った癖に、次の会社を見つけるのに手間取ってしまい、不本意乍らしばらく無職の時期を過ごした。結局は身につけた技術に頼らざるを得ず、半年のブランクの後ぼくはまた編集関係の仕事に着いた。それが今の会社だ。


 この春、一人のデザイナーが独立して去った。彼とは同じ雑誌のプロジェクトを数年来、二人三脚でやって来た。ぼくはしばらく寂しさを味わっていた。気の合う友人を失う事は二度目だった。

 彼が辞職の決意を語ってくれたのは、辞めて行くほんの十日程前の事だった。校了の晩、行き付けの居酒屋で、杯を煽りながら同僚はその理由を語ってくれた。それにはこの春から入った新人デザイナーが、絡んでいた。

「彼女に立場を譲って、自分の居場所を失くしてしまったんだ」

と、同僚は先づ言った。

 あの娘は俺がこの会社へ連れて来たんだ。彼女が学生の頃から知り合いだった、と彼は言う。

「それが恋愛感情だとは認めたくなかったんだ。自分の傍らに置いておきたくて引っ張り込んだのに」

 けれど同僚は、いつか自分の感情を自分に隠し切れなくなった。この夏、彼は然るべき場所に彼女を招いて、胸中を告白した。そしてそれは不本意な結果に終わったのだという。

 彼女と毎日オフィスで顔を合わせるのが辛くて、同僚は辞職を決意した、と語った。彼女は何と言ったのだ、とぼくは尋ねた。けれど同僚はその言葉を語ってはくれなかった。ただ最初の言葉を繰り返すのみだった。


「彼女に立場を譲って、自分の居場所を失くしてしまったんだ」

 その言葉は、むしろあいつの立場にこそ似合う言葉じゃないかという気がした。去った同僚のその言葉をきっかけにして、学生時代に親友と呼んだ奴の事を、ぼくは思い出す様になった。人に親しむという感情が対象を欲して、そんな感情を呼び覚ますのだ。あいつは東京に出て来てからの、唯一の友だった。そして失った友人の最初のひとりだった。

 話が合わない事が、あいつに親しみを感じた理由だった。趣味は一致するのだ。モダンジャズと推理小説。だがその評価は、ぼくと彼では全く違った。それが面白かった。

 大学の隣町。駅からも近い場所に、彼のアパートがあった。大学の傍の本屋でアルバイトしていた彼の帰宅時間を狙って、ぼくは彼の部屋を訪ねた。カップの酒、あるいは缶ビール。そして彼から借りたLPなどを抱えてぼくは、一夜の議論を楽しみに行った。


 ビバップなんぞは、まるで面白くない、と彼は言った。あれはミュージシャンのテクニックのひけらかしだ。ウイントン・ケリーが美しいぞ。という彼に、ぼくはクールの時代がカッコイイじゃないか、と問いかけた。

 島田荘司は面白い、と彼は言った。凝ったトリックの推理小説こそが面白い、と言って、怪しい雰囲気と妙な探偵を描く作家を彼は好んだ。自然な謎の作り方がいい、とぼくは反論した。そのくせハリー・ケメルマンは双方とも気に入っていた。

 三年の秋口、デートにいそしむ様になったぼくを、彼は野次った。

「また女と会うのか。しょうがねえな、でれでれして」


 彼が女嫌いだったとは思えない。三年迄の間にも、数人の女性に恋をして、あるいは暫く付き合ったり、または振られたりしていた筈だ。だから彼の皮肉など口先だけのものだと、よく判っていた。

 そして彼は、ある時宗旨を変えた。

「人は恋したら、一度愚かにならなきゃいけないよ。そして肩組んだり、腰に手を回したりして歩くんだ」

と、突然肯定的になった。ぼくにはその変化の理由が判らなかった。そしてその奇妙な言動の変化の後、彼は部屋を退き払ってしまった。だからその理由は今に至るまでぼくは判らない。


 ぼくの部屋にはあいつから借りたギターが、未だに残っている。これをどうしたらいいのだろうか。彼は何も言わずにいなくなった。大学を中退して、東京さえ後にしてしまったらしい。何もかも不確かな伝聞の情報に過ぎない。理由も事情もぼくには判らない。ここにもまた、回答の得られない疑問だけが残されたのだ。


 秋の終わりからぼくは、不眠ぎみになっていた。あの人に似た新人デザイナーが、仕舞い込んでおいた思い出を引きずり出してしまった。眠れない夜にはベッドの上で、天井を見つめていつまでも考え事を続けた。いずれも答のない問い掛けばかりだ。突然に去った彼女、突然に消えた友人、その語られなかった理由。疑問は果てしなく枝を広げる。眠れないぼくにとっては、夜なんてすぐに終わる時間だ。

 親友がいなくなっちまった、とぼくは彼女に言った事があった。ああ、本屋さんの、と彼女はその人物を知っていた。ぼくは引き合わせた事はなかった筈だ。それ程の期間は、ぼく達には無かった。


 友と過ごした長い期間。彼女と過ごした密度の濃い時間。二つの思い出が重なり合う。年を経るごとに物の見方が変わる。キャンパスの高みに滞空して、ぼくは二人の影を追っていた。

 否定する理由こそないではないか。二人は同時期に姿を消したのだ、双方ともぼくに何ひとつ語らずに。二人は手を取り合って去ったのだ。


 若い日には見えていなかったものが、歳を経るごとに視野に入って来る。意識していなかった背景が、けれど鮮明に記憶には残っていて、歳を取る程に次第にそれを知覚できる様になる。

 あるいは意識の深い場所では、この真相にぼくは気づいていたのかも知れない。それを無理矢理押し留めていたのかも知れない。歳を取る事で、その真相を容認できる程に、その痛みを忘れられた、という事かも知れない。

 いずれにしろ、解答などはいらない。問い掛け続ける事だけが、ぼくの生きる原動力なのだ。視野を広げ乍ら暮らし続けて、四十代になる時今度はぼくは、この事にどんな理由を見つける事だろうか。


 新人デザイナーと夕食を共にする機会があった。入稿を間近にしてたまたま空いた、早い夜のブランクの時間だった。食事をしたらすぐに、仕事に戻らなければならない状況だった。

 ぼくと同僚の親しさを知ってるでしょ。彼から話を訊いたんだ。君の事も聞いたよ。でも彼はひとつだけ語ってくれなかった。君は彼に何と言ったんだい。そうぼくが問い掛けると、彼女はあっさりと答えてくれた。

「新しい住処を見つけた気がする、と言ったんです」

 自分の居るべき場所、自分のするべき仕事を見つけた気がする、と彼女は言い添えた。

 一方で同僚は年齢からして、するべき仕事にも居るべき場所にも疑問を持ち始めた時期だった。

「だから、ここにならずっと居たい、と言ったんです」

 その言葉を聞いて同僚は、不確かな立場だった自分の居場所を、彼女に譲るかたちで渡してしまった、と感じたのだろうか。だからこそこの彼女の言葉は、同僚にとっては口にしたくない程に、核心に近い言葉なのだろうか。


 周章てて戻ったオフィスで、新人デザイナーは珈琲カップを片手に軽やかなお喋りを続けている。その言動を見るにつけ、やはりあの人に似ているという事を追認してしまう。自分の立つ場所を自分のものと確信する時、あの人はそこを中心に周囲にものを配置して考える人だった。

 この年齢に至る迄に、多くの人達と知り合った。けれどその各々の人柄というものは、学生時代に知った幾人かの人物達に集約されてしまう。

 そして確信しているのは、春の名を持つ女性達には、共通の性格があるという事なのだ。                              (了)

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