冬は夕暮れの国

平方和

冬は夕暮れの国

 路面電車は賑わう街路に入った。両の窓からとりどりの色彩の光が飛び込んで、車内を飾り立てた。食事時よりは遅く、酒の時間には早いこの浅い夜に、繁華街へ向う路面電車の車内は空いていた。

 路面電車の座席はひとつづつ進行方向を向いていた。ぼくの前に妻が座っていた。正確にはこの女は妻ではない。一度別れている。けれどこの数カ月、どうしてだかまた、ぼくの部屋に転がり込んでいたのだ。

 別れていたのは二年程だった。たったそれだけでぼくを悩ませたあらゆる事は記憶から抜け落ちてしまった。秋の走りに女が舞い戻って来た時、甦ったのは愛しさだけだった。

 そして生活の細部を手探りで再現する様にして、二人の暮しが始まった。一度再現出来た事は、その瞬間から確実なものとなった。掃除の仕方、洗濯の手順、そして買い物や料理まで、確定した手順は、二年を隔ててそれ以前の暮しと正確に連結した。

 洋裁の好きな妻は、やがて中古のミシンを入手して来た。胴体に液晶の小さな画面があるハイテク機種だ。何をどう操作するのか、このミシンから見事なパターンや文字が、紡ぎ出された。文字を連ねる事で文章さえ綴れた。妻は時折、布の上に文章を紡ぎ、それを確かめる様にした後、糸を解いて消し去った。この夕方もそうだった。

 早めの夕食を、まったくいつもと変わらずに終え、その後で妻は出掛けると言い出した。夕食の後の食器の片づけを手早く済まし、支度という程の事もせず、妻は外出を急かした。

 住宅街を抜け路面電車の駅へ出た。ホームの舗装には矢印や直線で、乗降口の位置が書いてある。繁雑なのは、車両の型によってその位置が、かなり違うという事だった。

 やがてやって来た車両は、ぼく達の立っていた場所とは違う位置で乗降口を開いた。新型車両だった。路面を走るにはスマート過ぎるデザインの車両だった。軌道の狭さから来る車両の幅の窮屈さを解消する為に、乗降口は斜めに昇る様に設計されていた。座席は進行方向へ向け乗客の足が通路を塞がない工夫もされていた。

 空いていたので、ぼく達は各々座席を占めた。進行方向の前方に妻は座った。車両は程なく住宅街を抜けて幹線道路に沿い始めた。年の瀬の賑わいが近づいて来た。

 車両が停まって降車扉が開いた時、ふいに妻が席を立った。目的の繁華街にはまだ到達していなかった。けれど妻は降車扉へと小走りに行き、最後のステップでホームへと飛び降りていた。

 ぼくには、座席で身体の向きを変える程の余裕しかなかった。電子音と共に扉は閉じられた。走り出す車両の揺れと拮抗し乍らぼくは、中腰になって窓へと目を遣った。妻はホームを出てその先の街路へと向っていた。

 また気紛れが出た、と思った。ほんの数カ月で、かつての暮しが再現出来た様に、ぼくを悩ませたあらゆる不快なものも、すべて再現を終えていた。それらが揃った今は、また同じ争いへと向うばかりだった。もう、この女とは終わりだな、と思っていた。


 二十年に近い歳月、マンデリンという珈琲をぼくは好んで呑み続けた。これは結婚以前からのぼくの嗜好だった。妻もそれは充分知っている事だった。紅茶を好んで生きて来た妻にとっては、家庭に常備する珈琲が何であっても構いはしなかった。

 だが別居から戻った妻は、何故か珈琲を呑む様になっていた。それも頻繁に呑んで買い置きの豆を消費した。それでもぼくは消費される分だけ、再びマンデリンを買い足していた。

 ある日、妻は自ら豆を買って来て宣言した。

「私には判った。マンデリンの酸味は口に合わない」

 だがマンデリンは酸味の珈琲などではなかった。商品によってはばらつきもあるだろう。時には産地を偽る商品さえあったかも知れない。けれど二十年に亘ってこれを呑んで来たぼくには、マンデリンの酸味が不味いなどというのは、理不尽なクレームとしか言い様がなかった。


 それが妻の新しい抵抗だった。妻が児戯めいた気紛れとわがままを言い出したのは、幼い姪が長女の性格を表出し始めた頃からだった。妻は子供の好きな女ではなかった。けれど妹の生んだ娘を、妻は妙に気に入っていた。

 姉妹の間では子供を共有できる感覚があるという。それは姉妹の支配関係に於いて、次女の玩具を長女が横取りして平気で居られる心理と、通底するのかも知れない。次女の娘もまた同様に、長女は自分の所有物に属すると捉えたのではないだろうか。

 やがて言葉を覚えた娘が、長女らしい身勝手さを見せ始めた頃、妻はそれを眉を顰めて語っていた。だがこの娘との付き合いが重なるに連れ、その身勝手さを面白がる様になっていた。

 そしてやがてぼく達の家庭で、妻がこの娘の身勝手さを真似る様になったのだ。それはある意味で子供返りでもあった。おそらくは姪を末尾に従えて、新しい姉妹の序列が出来上がったのだ。そして妻はその長女として、末の娘の精神年齢を奪い取ったのだ。


 車両の前方には大きなパネルがあって、発光ダイオードの連鎖による文字で次の駅名を告げていた。左右の街路に時折、暖かな灯りを落とす店舗があった。ウインドウのすぐ内側はダイニングキッチンに見えた。派手さを抑えたデザインのテーブルが配置されている。テーブルには食器類も並んでいた。けれど食卓に着く家族の姿は見えなかった。

 幾らか進むと、再び暖かな灯りを落とす店舗があった。こちらは、ウインドウから居間を覗かせていた。サイドボードや大きなテレビ、そして部屋の中央にはゆったりとしたソファーがあった。ここにも家族の姿は見えなかった。

 それはこの通り沿いに急速に数を増している新築マンションの、モデルルームだった。建物そのものとは別な箇所に、こうして部屋だけを再現しているのだ。おそらくは優れたコーディネイターがいるのだろう。その再現ぶりは、あたかもそこに幸せな家族がいるかの様で、街路に漏れる灯りに温もりが感じられるのだった。ぼく達の部屋にこれがあるだろうか。

 新聞に挟み込まれる分厚い広告の束に、妻は関心を寄せた。マンションの広告は何より楽しんだ。その見取り図の縮尺通りに身体を縮めて、可愛い模様のスリッパを履き図の中を歩き、部屋を覗いて回っているかの様だった。


 繁華街を越えると辺りは急速に暗くなった。街路に出店しているマンションの、実物が作られつつある再開発地域だった。かつては低い家並みが続く地域だった。景気の良かった時期にそれらの古い家屋が、ひとつまたひとつと姿を消した。数年を経てこのあたりは、やがてフェンスで区切られた空き地ばかりになってしまった。

 ぼく自身この地域へ足を踏み入れるのは何年振りの事だろう。ぼくを、小さい兄さん、と呼ぶ親戚がいた。その父親の葬式に来た事があった。低い家並みの狭い街路は、生け垣で区切られていた。

 親戚の中では従兄弟同士の仲が良かったのだ。年長の伯父の子はぼくも、大きい兄さん、と呼んだ。歳月は流れ各々が中年になっていた。けれど従兄弟は、その通夜にぼくの姿を見つけると、小さい兄さん、と呼び掛けた。

 街路灯も遠い闇の中では、通りの生け垣があんなに古びているとは判らなかった。昼過ぎの葬儀に再びあの道を辿って、ぼくは叔父の家へ向った。読経の前に祭壇へ歩を進めた。

 ポケットから缶ビールを出した。通り掛りの販売機で買って来たのだ。酒が振る舞われるのは当然乍ら葬儀の後になる。それを待たずに、祭壇の叔父に供えたかった。気温が低くて、缶ビールは買った時のままの温度をポケットの中でも維持していた。

 焼香を終えて街路に出た。参列は長く続いて故人の徳を示していた。読経は静かに続いていた。暮れてはいないのだが、太陽は連なるビルの尾根を越え得ず、この地域からは姿を望めなかった。青空ではある。けれど光量はまるで心許なかった。そんな淋しさが、この日には快かった事も覚えている。

 幼い頃にはこの街まで路面電車で来れたのだなぁ、と思い出していた。その後、この路線は廃止されていた筈だった。そこへこの車両はつき進んでいた。そんな訝しい事態さえ意識の中では、容認していた。歳月の進行の中で風景は不連続だが、こうして鉄路は続いているのだ、と納得出来ていた。


 腕の時計が充電不足の記号を表示していた。ぼくは夕暮れの公園にいた。幹線道路から脇道に入れば直ぐに到達出来る場所だが、地形としては台地の際にあたり、眼下は急峻な崖になっていた。

 崖の面は西北にあたり、九十九折れに通路を作ってある。その途中を過ぎって滝もしつらえてあり、夏には給水があるのだろう。けれどこの秋口には、水源は乾き流れの床を見せていた。場所を良く知っている若い男女には、格好の隠れ場所にもなっている。

 九十九折れの下は住宅街だ。背の高い建築物はなく、閑静だ。だから崖に面した手摺からは、かなり広い空間を見る事が出来る。まして夕暮れともなれば、彼方のビル街が絶妙の背景となって、風景を飾って呉れる。

 手摺に沿った通路は、犬達の散歩道らしい。日常の憩いを兼ねて犬を連れ出す飼い主達は、もう少しゆっくりとここを歩きたいのだろうに、犬には何等価値のない場所らしい。彼等は足早に通過して行く。

 通路よりすこし後ろにあるベンチに座って、来ては去る犬達を見ていた。歩く事に真剣な犬達の表情を見ると、思わず口許が綻んでしまう。幼い頃に飼っていた雑種を思い出すのだ。

 女に対する愛情はいつか忘れてしまうが、犬に対する愛情は決して忘れないものなのだ、と気づいた。九十九折れに植えられた木々に赤い実がついていた。名も判らない小鳥が、それをついばんでいた。木の実の赤さは、どこかサクランボウにも似ていて、幼い頃にはこれを口にしてみた事があった。思うような味は全く無く、えぐみだけが味覚を刺激した。小鳥はそれを、飽かずついばむ。彼等には別な味覚でもあって、あの木の実を美味しく思えるのだろうか。

 安全を配慮して設計された人工の崖には大きな岩石も配置されていた。夕陽の落とす影はどこか祈る人にも見えた。人が石になる伝説を、どこかで読んだ事がある。あるいは人が樹木になる伝説もあったろうか。

 例えばぼくがここで時間の流れとの関係を絶たれたら、この姿は樹木や岩石の様に堅く凍りつくのではないだろうか、と思った。木になった人、石になった人とは時間との関係を失くしてしまった人達なのだ。

 空のグラデーションは頭上の蒼から色を暗くして眼前では茶色に近いものになっていた。そこへ陽が落ちるから、日差しはあの紅茶の色に染まるのか、と理解した。思い出して腕の時計を夕陽にかざした。暮れてしまうまでに、電力が満たされるとは思えなかったが。


 部屋のあちらこちらに、安物の時計を妻は置いた。部屋中の時計は微妙にずれた時間を表示していた。けれど奴等は几帳面にも正確に同じサイクルで、時を押し進めていたから、各々の世界が重なる事は決して無かった。

 動物は自分と類型の小さなものに保護本能が働くという。妻を見ているとその本能というものの存在が判る様な気がしていた。時計は妻の性格の表象だと思った。自分の身体の一部を外す様に、妻はこれらの時計を飾っているのだ。

 戻って来た妻に再び抱いたのは可愛いという感情だった。本来は恋愛の初めに抱くべきものだというのに、あの時これをまた感じる事が出来たのは、先立つ二年間に、それだけ多くのものを忘れてしまえたからだったのだろう。

 可愛いなどと思えるのは、その後に愛してしまう事を、予め容認していればこそなのだ。多くの否定的要素をかつて身を以て知ってい乍ら、あの時どうしてぼくはそこへ踏み込んでしまったのだろう。

 偏頭痛が数日来続いていた。珈琲が足りないのだ。カフェインは毛細血管を閉じる作用があるので、頭痛を抑えて呉れると何処かで聞いた。ミシンを操る妻にぼくは、珈琲をいれようか、と問うた。

 鼻から息を抜く様な言葉にならない反応をして、妻は視線も向けなかった。関心のない事には感情も表さなかった。誰であろうと構わずに、そんな態度を妻は取る。礼儀の程度は自分で決めるのだ。

 相手がどう受けとめるかを、自分で裁量する。相手の性格や人柄を忖度するのではない。自分の都合に相手を迎合させるのだ。妻が礼儀を排したいと思う時、相手には非礼と受け取る事を許さない。

 ぼくに対する敵対感情は、まるでかつて対戦した相手の国民ででもあるかの様だ。取りあえず表向きは平穏に付き合いはする。けれどひと度何かあれば即刻、悪意に取る。そんな感情を甦らせるのに、たいして時間は掛からなかった。もう続けられないだろう、とその頃にはまたぼくも感情を甦らせた。


 冷えるな、と思っていた。また乗り物に酔ったのだろうか。幼少には随分とバスや電車に酔った。けれど青年期を過ぎてからは、そんな事はなくなっていた筈だった。しかしここ数年、明らかに乗り物に弱くなっている。車両の動きを追えず、振り回される様な感覚を持つのだ。酔う事を畏れる様になれば、畏れがまた不安を呼ぶ。それが車両の中で神経を昂ぶらせるのかも知れない。

 物忘れも確かに増えた。無理な仕事をすれば忽ち目が霞む事も、身を以て知った。それでなくとも焦点を合わせるのに、物を遠ざける傾向にさえある様な気がする。老いた事なのだろうか。

 いや、寒さのせいなのだ、と思いたい。季節が巡って再び陽光に溢れる頃になれば元に復するのだ、と。しかしこうまで寒さを感じている事が、身体の変化を如実に語っているのだろう。弱い動物に変化しているのだ。怒りをぶちまけ、噛み付いてやった。その時からぼくはめっきり体力を失ってしまった。

 ビジネスの現場で裏切られた。恃みにした制作会社の援軍を、止められてしまったのだ。その結果は孤軍奮闘せざるを得なくなった。集団でこなす事を想定したプロジェクトを、ひとりで背負った。

 四十歳を過ぎると誰でも寛容さが凝り固まってしまうのだ。だからこそ、それまで穏便にやって来た仲間とさえ、亀裂が生じる。その結果が、仲間を裏切る事態にまで進展する。不寛容へと転じる心を、うまくコントロール出来なければ、その後の人生を誤ってしまう事さえあるだろう。


 眠りが浅いのも、この処の寒さのせいだと思いたい。あまりの寝付きの悪さに、ひと頃は睡眠導入剤の処方を受けた事さえあった。秋口にはそれも少しは改善されていた筈だった。だがこの数日は、また具合が悪い。

 昨夜は夢まで見られた。それは寝る前にバナナを食べたからではなかったろうか。夢の浜辺で、巻き貝を耳に当てると遠い音がした。巻き貝の次第に狭まる螺旋には、時間が封じ込まれている、と夢の中では判っていた。

 夢を記憶として再生出来る事が訝しかった。眠りはその日の出来事の記憶を整理する時間だという。眠りの時間に脳は、残す情報と捨てる情報を選別する。捨てる情報の集積する場所で、ぼくらは夢を見ているのではないだろうか。だからこそあれ程に、支離滅裂なのだ。

 残される情報がシナプスで繋がれる一方で、捨てられる情報はシナプスを断ち切られるのだ。だがそうだとしたら、目覚めて覚えている夢とは、何なのだろう。再生出来るという事はまだシナプスが繋がっているのだ。忘れたものは消え去るのではなく、何処か脳の下層に堆積しているのだろうか。


 妻だった女が残した荷物を少しづつ捨てて過ごした二年だった。その存在が心に残っていない物は、捨てて良いと判断した。そうして靴や鞄から始まり、やがて衣類に至るまで、ぼくは折をみては捨てた。

 部屋は妻がいた頃とは様変わりして行った。装飾は一切無くなった。それは同時に色彩感の喪失でもあった。放置される物もなくなった。あらゆる物をぼくは丹念に収納した。そうして部屋に無機的な静寂が定着した頃、ふいに妻が戻って来たのだ。

 妻が扉を開いた時、その背に夕陽が差して輪郭だけが浮き上がって見えた。モノクロームの部屋に紅い日差しが流れ込んで来た。ぼくがその姿を認知し得たのを知って、初めて妻は、帰って来た、と言った。


 車輪が分岐点を越えたのだろう。大きな揺れがあった。ぼくは軽い眠りから醒めた。路面電車は終点の繁華街の駅へ入ろうとしていた。別れた女と捩りを戻す夢を時折見てしまう。人肌の温もりは嬉しいのだが、直ぐに怒りや悲しみを思い出し、夢は破局へと向ってしまう。いつもそうなのだ。

 車両を降りる乗客の最後に着いた。早い夜の繁華街には人が溢れていた。幾つもの小道が合流する駅前の広場で、街路灯は様々な方向からぼくを照らした。ぼくの影は様々な方向へと伸びていた。

 脇の細い道の向こうから遣って来る小さな影があった。それが誰であるかは、一瞬にして判った。ぼくは立ち止まりその方向へ向き直った。妻だった女だ。ほんの少し前にぼくの夢の中で、路面電車を降りて行った様な気がした。確かな記憶ではない。

 女がぼくに近づいた時、駅前広場から全ての人が消え去った。夢の中で妻が見ていた布の上の文字をぼくは思い出していた。

「連想を孤立させシナプスを断ち切るのだ」

 時間の連続を捉え脳の中に接続するシナプスというものも、あって当然だろう。ならばその接続を断ち切れば、大地に固定された不動の物の他には、一切が認知されない筈だ。

 けれど妻は歩みを続けていた。妻はぼくの前に立つと、微笑んで見せた。まだあの薬を使っているの、と妻は訊いた。ぼくは自分の使っていた睡眠導入剤の名前を思い出した。

 ハルシオン。人を眠りに誘い乍ら、記憶の整理作業は一切怠らせる不完全な薬品。この薬を使用すると、眠る前の出来事の記憶を失くしてしまう。そして理解した。この凍結した世界に妻の映像を繋ぎ留めているのは、夢の側のシナプスだった。いつかハルシオンによって繋ぎ忘れ、脳の下層に残された記憶なのだ。

 思う事、気づく事は新たなシナプスを繋ぐ事だ。途端に、繁華街は群衆で溢れた。妻の姿はかき消え、ぼくははっきりと覚醒していた。この暮れの街へ、ぼくは買いそびれた本を探しに来たのだった。                (了)

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冬は夕暮れの国 平方和 @Horas21presents

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