四十分前の晴天

平方和

四十分前の晴天

 遺影に使いたいからデータが残っていたら、と在籍当時にぼくが撮った写真について問い合わせの電話を貰った。独身男性だったし、付き合いの良い方では無かったから、あいつの写真は極端に少なかったらしい。会社の机を探ってはみたが遺っていたのは、どれを取ってもまだ学生だった頃の青臭い髭面ばかりだった、と元同僚は言った。

 ぼくは当時まだ出始めたばかりデジタルカメラを社内に置いていて、よくスナップショットを盗み撮りしていた。データはパソコンに移し、メディアを使い回していた。だからあいつのショットが残っているとしたら、手許のMOの雑多なデータの中だろう。

 判った探しておく、と電話を切って、けれど急ぎの仕事を先にしてしまった。電話の音に気づくと昼を回っていた。放って置いて留守番電話に任せようかとも思った。けれど相手が名乗った時、思わず受話器を上げていた。

 お手許にデータがあったら預かって来いと言われてるんです、と彼女は言った。社内でレタッチして通夜までにプリントアウトするのだという。ぼくは言い淀んでから、正直に告げた。まだMOを見てないんだけど。

 それならそちらに伺って一緒にデータを探してもいいですか、と彼女は言った。それ程急いでいるのなら、と同意した。四十分で伺います、と言って電話は切られた。ぼくの部屋は都心から遠い。告げられた所要時間が半端だった。すると会社からではないのだろうか。

 仕方なしに仕事部屋を片付けた。日付しか書いてないMOから在籍当時の年代のものをより分けた。やりかけた仕事の方はもう、集中出来なくなっていた。彼女がここへ来るのは、何年ぶりになるだろうか。


 画面に並んだサムネイルのアイコンを纏めてソフトウエアに放り込んだ。画面に整然と画像が積み重ねられた。やがてその一番上に、あまりに懐かしい社内の風景が形を成した。彼女の表情が思わず緩んだ。ぼくの在籍当時の同僚達だった。その様子はあまりにも楽しげだ。事態の不謹慎さを意識してぼくはすぐに画像を閉じるショートカットキーを打った。

 下から現れた画像もまた楽しげな、おそらくは初夏の昼の様子だった。ぼくのレンズの前で、同僚達は食べかけの食事を晒したり、隠したりしていた。彼女もそのフレームの隅に入っていた。そして上司もまた笑顔を向けていた。

 懐かしい、と彼女は言った。その言葉の意味を探って僅かな時間指が止まった。それは辞めたって事、と訊くと、二年も前に、と彼女は答えた。

 それでどーして、と問うと上司の名を出して、お前なら暇だろうから、ひとっぱしり行って来て呉れ、と頼まれた事を説明した。それならまだあの上司との関係は続いているのだろうな、と想像出来た。

 故人の顔が大きく切り抜けるカットを選んで、別のMOにコピーして渡した。彼女は会社へと向かった。通夜は・本葬は、と彼女は日時を言い置いたが、聞き流した。ぼくは中断していた作業に戻った。納期は迫っている。

 キーボードが右に傾いでいる気がした。時折感じるのだ。だが机が傾いでいる筈もない。全くの気のせいだった。あるいは卓上の電灯から差す影が、そんな錯覚を生むのだろうか。


 画面にはトリミングを必要とする写真を三百%にして表示していた。この上に点を置き線を引いて行く。剰りに大きくした写真は、各々の色彩を点として表示していて、最早意味をなす画像ではなかった。その色彩の境を見極めて線を引かなくてはならない。

 作業に集中しているというのに、ぼくの思考は優雅にも昨夜の夢を思い出していた。強い陽光の下で石造りの町を歩いていた。左右の石垣は長く続いていた。道はどこで果てるのか判らなかった。日差しは辺りに照り返し、ぼく自身の影も蒸発したかの様に短くなっていた。だから立体感を失っていた。ぼくはいつか暑熱すら実感していた。目覚めたソファの上で、汗をかいていた。あれは何処へ続く道だったのだろうか。

 通夜の時間は迫っていた。だがぼくは出掛けるつもりは無かった。元の同僚達には、どの様な気不味さも残してはいなかった。けれどあの上司だけは別だった。スナップ写真に写り込んだとぼけた表情には、無邪気に懐かしさを感じもした。上司はあんな絵に描いた様な和みの情景をこよなく好んだ。予定された通りのオチが何よりも好きな事は、長い付き合いでよく判っていた。それを思い出してぼくもつい心を和ませた。けれど、あの上司に再び会いたいとは思わなかった。


 夜更けて電話が鳴った。彼女だった。もうどなたも残ってませんよ、どーして来られないんですか、と言う。少し酒が入っている様子だった。お別れなら、ここでスナップショットにしてやるから、とぼくは応えた。少し考えたらしい沈黙の後で、私もご一緒していーですか、と彼女は言った。四十分で行きます、と彼女は電話を切った。

 仕事は区切りが着いていた。彼女は折り詰めに、精進落しの料理を分けて貰い、道中の何処かで酒も仕入れて、再びぼくの部屋を訪れた。ぼくは言葉通りに再びスナップショットのデータを表示しなくてはならなくなった。

 少々仕事が遅かったがイイ奴だった。故人の画像は当然乍ら若々しく、それだけで微笑をそそらせた。そーそーあの頃には、こっちに会議テーブルを置いて、ここに観葉植物があったんですよね、と彼女は言う。同僚のひとりを差して、この人は今あの会社で働いてます、と取引のあった会社の名前を出した。それから幾人かの異動を彼女は説明して呉れた。そーなると残っているぼくの同僚といったら、昼間に電話を呉れた奴くらいのものだろうか。そんな懐かしい話をしたくて、通夜の席ではそれが叶わず、不満を抱えてぼくの部屋へ彼女は来たらしかった。

 そしてあの上司だけはいる訳だ。今夜は仕切ってました、と彼女は肯定した。取引先の方が見えるとそのお相手を怠りなく務め、一同を引き連れて帰って行きました。そこまで語って、漸く彼女の口調に少しだけの皮肉が混じった。

 あのひとは、社内ではどー見られてるの、とぼくは訊いた。私は立場が不味くなって来たので辞めてしまって、今の様子は良く知りませんけど、と彼女は口を濁した。でも、多くの同僚達がぼくの後に続いてあそこを去ったという事は、あまり様子は変わってないんだろ、とぼくは水を向けた。彼女は渋々頷いた。

 自分の事ばかり喋って相手の話を聞こうとしない奴は、やがて自分が聞いて貰えなくなるのさ、とぼくは思ったが、これは口には出さなかった。やはり会いたくはないですか、と彼女は流し目をしつつ問うた。二度と会いたくはないね、とぼくははっきり応えた。それをしても、もう彼女に皮肉の刺激を与えられはしないだろうと判った。酔った彼女は程なくソファで眠りこんでしまった。


 データの納品を終えて、漸く時間が出来た。MOを持参し、相手先で少し話し込んで昼時になった。表通りは学生街にあたる街だった。ぼくはコンビニエンスストアでサンドイッチと缶コーヒーを買って、公園に行きベンチに座った。公園の入り口へと続く街路を横切って、右から左へと中型犬が進む。犬に引かれて人が姿を現し、そのまま左の街角へと消えた。

「動物って小さいものはそれだけアタマの回路も単純化されるの」

 と素朴な疑問を投げかけたのは、彼女だった。あれも昼時の社内だったろうか。CG画像の最小の点は大きさが決まってしまうが、頭脳の組織は小さいものはそれなりに小さく出来てるんじゃないか、とぼくは答えた様な気がする。

 彼女は今は、フリーの立場でニットを編む仕事をしていると言った。手芸雑誌の編集部に頼まれてセーターなどを指定通りに編む。時にはオリジナルな物を編んで採用されたりもするという。

 あの翌朝、ぼくの部屋で目覚めた彼女は、手際良くパンや珈琲を用意するぼくをぼんやりと見ていた。コンピューターや周辺機器を目にして、感心していた。放逐されたあなたが、独りで仕事を見つけてこうしてやっているのだと知って、健気だなーとお姉さんは思うぞ、と彼女は呟いた。

 何言ってんだよ、言い乍ら珈琲を手渡した。だってコンピューターといいスキャナーといい、会社だからこそ所有してるもんだと思っていたから、それを失ってあなたが、どーやって生活してるのか、心配してたんですよ、と彼女は言った。それがまさか同じ仕事を続けてたなんて、なんだか嬉しいじゃないですか。

 モノなんでどーにかなるよ、とぼくは言った。それよりはクライアントだ。自分を必要として呉れる人を見つける事で、最小限の世界は整うのだ。ほら何処かで実験してる施設があるじゃない。ビオトープと言ったかな、ケースの中だけで完結してる生態系。その辺りになると彼女のアタマの中には疑問符が沢山浮いている様で、返事が曖昧になった。


 そして時折、彼女はぼくの部屋で編み物をする様になった。フリーランスなので時間は自由になった。手先で出来る作業なので、場所は問わなかった。だからぼくが仕事で徹夜になると判ると、彼女は毛糸を抱えて遣って来た。彼女の住む街もこの東京西部だった。ターミナル駅を経過せずに済むので、四十分という所要時間で来れるのだ。

 コンピューターに向かうぼくの脇で、彼女は編み棒を動かしていた。夜のFMが優雅な音楽を流す時間に、煌々と灯りを点けて共に過ごした。時には深夜のコンビニエンスストアへ連れ立って出掛けた事もある。そして深夜のとんでもない時間に、うどんなどを茹でて二人で食べた。

 そんな徹夜の後には決まって、小さな目覚まし時計がひとつ増える事に気づいた。100円ショップで売っている安物なのだろうが、彼女は毎回新しい物を携えて来て、置いて行った。

 或る夜にディスプレイから振り向いて見ると、彼女は自分の正面にその小さな時計を据えて、クッションに座り込んで編み物をしていた。編み目と時間が何か関わりを持つのだろうか、と疑問を持ちつつぼくはキッチンへ行った。珈琲カップを抱えて戻った時には、もう次の作業の手順に没頭してしまい、疑問はそのまま保存された。


 午後の喫茶店に入って座り込んだ。納品を済ませ、街を歩いて少し疲れてしまったのだ。遅めのランチタイムを終えた店は、客達もまばらだった。そしてその殆どが中年男性ばかりだった。営業職らしいが、こんな時間に行く宛も失くしてしまったのだろうか。

 今ではこうしてクライアントもあり仕事は安定してるが、職を失った当初には生活にも困る程だった。三十歳を過ぎて、雇って貰える仕事は限定された。だからビルの警備の仕事などもした。

 この喫茶店に漂うせつない想いはよく判るのだ。誰もが疲労を抱えて、背筋の力も萎えていた。そして珈琲の温もりに縋っていた。こうして珈琲は疲労の妙薬に転じるのだな、と理解した。

 締め切りを抱えた週末の、修羅場と呼ばれる事態を共に楽しんで、彼女は帰って行く。かつて同じ職場だった時には、二週間ごとにやって来た年中行事だった。あの緊張感と高揚を、職を辞した今になって彼女は最も懐かしんでいるのだろうか。


 午後の買い物に出て通り掛かったコンビニエンスストアの、扉の前に中型の柴犬が繋がれていた。ぼくが目を向けただけで、犬は期待に満ちた笑顔を向けて呉れた。屈んで、こんちわ、と声を掛けるともう身を乗り出して来た。頬に触れていいよ、身体に触れていいよ、お尻にも触れていいよ、と尻尾を振ってメッセージした。

 互いに触れ方と触れられ方を理解して、全く手順に齟齬が無かった。どこかで出逢ったヒトの遥かな遠縁として、そいつはぼくを遇した。ぼくもまたいつか出逢った犬の遥かな遠縁として、こいつを愛でた。初めて逢った仲だが、ぼくらは旧友だった。背にしたコンビニエンスストアから始まって、この街のあらゆる場所が、こいつの定住地だった。その何処かで出逢うヒトは皆、こいつの家族だった。


 休日の昼間をぼくの部屋で、彼女が過ごした事もあった。紅茶を入れて、サーバーに紅い色が深まるのを待った。近所の中学校からは賑やかな音楽が流れていた。時折は銃声もする。あれはクレッツマーとかゆー音楽だね、とぼくは言った。

 運動会の音楽はせわしくて嫌い、と彼女はゆっくりと応えた。それにはぼくも同感だった。こうしてフリーランスになってからの生活で、心掛けているたったひとつの事と言ったら、ゆっくりと動く事、これに尽きるかも知れない。

 時計は、見つめていればゆっくり動くから、と彼女は言った。だから膝の前に置くのだという。時計に目を遣るのではなく、自分の視線の先に時計を見たくて、様々な場所に時計を置くのだそうだ。


 ディスプレイには集中出来なかった。窓の外の塀の上を歩く猫に気を取られた。猫は自分の暮す場所を限定し、占有する感覚を持たないのだろう。飼い猫はいつか勝手に出て行くものだ。この暖かな晴天の日が、もしかしたらこいつの旅立ちの日かも知れない。

 彼女が夢を語った事があった。自分の係累には存在しないのだが、兄の夢を見たという。兄の背を追って夕映えの中を行くと、いつか背丈程の麦の穂の原を渡っていた。彼女は兄の名を呼びつつ懸命に後を追ったのだが、その名を見失った事で、兄とはぐれたのだという。大きなセーターを編み乍らそんな話をした夜更けから、もう三週間も過ぎたというのに、その間彼女からの連絡は無かった。

 ぼくの部屋に来ない日に、彼女が元上司と会っている事は否定出来ない。上司は彼女を気軽に呼び出す。現にここで彼女が電話を受ける場面にも幾度か遭遇してしまっている。そして上司の電話があれば彼女は、何を差し置いても呼び出しに応じる。ターミナル駅を経過しての道中は、どうしたって一時間を越える。そこにどんな信頼関係があるというのだろう。

 元上司は彼女を必要としてなんかいない筈だ。関係が社内に知れると、さっさと彼女を追い遣ってしまった。それでも関係だけは繋いでおこうとする。その発想は男性として意地汚いだけだと思う。そしてそんな彼女を必要としている男が、ここにいる。

 この午後は仕事をする気になれなかった。冬へと向う季節に、こんな風に晴れて僅かでも暖かい日があればそれは貴重だった。上司は適当な理由を付けてオフィスを抜け出し、彼女を傍らに置いているに違いなかった。

 彼女が通夜の夜に買って来た酒を手にしてぼくは、ソファに蹲っていた。昼までは久し振りの好天で、僅かだけ気温が上がったらしかった。けれどそれもやがて雲に覆われつつあった。昨日と今日の温度差を考えれば当然かも知れなかった。

 仕事場は次第に暗さを増していた。ぼくは酔いを深めていた。夢のアバンタイトルが見えていた。石造りの街へとぼくはまた踏み出していた。ぼくは子供だった。子供の時には確かにここにぼくは居たのだ。やがて成長し、ぼくはここを遠く離れてしまったらしい。どーしたらここに戻れるか判らなかった。だから様々に回り道をして道を探ったのだ。そして漸く今ここに戻ろうとしていた。

 青空の下に白い壁が続いていた。人影は何処にも見えない。街へ踏み込むと街路は傾斜していた。剰りに広い範囲が傾斜しているので、次第にぼくは感覚が麻痺してしまった。傾いているのは街なのか、それともぼく自身なのか。

 その時、画像の倍率を変えるショートカットキーを誰かが打った。数回のストロークで、三百%だった街路は忽ち縮んでしまった。街路の連なりが画像となって像を結ぼうとしていた。それは誰かの肖像の様にも見て取れた。もう少しで判るんだ、頼む、もう一回縮小のショートカットキーを打って呉れ。


 酒の誘う眠りは不意に途切れる。傍らには彼女がいて、ぼくの使ったグラスと酒瓶を片付けようとしていた。今日はどうして来たの、と問うと、寒さが丁度良かったからかな、と彼女は言った。四十分で来たのか、と問うてみた。彼女は微笑みだけを向けてキッチンへ立った。

 ソファの脇のテーブルには、解いて巻き直したらしい毛糸玉と、MOが一枚載っていた。いつか通夜の日に彼女に手渡し、上司に届けさせたものだ。酔ったアタマは妙な関連を想起していた。ここにぼくの紛れ込んだ画像があるのだ、と納得していたのだ。

 夕暮れに近づいていた。窓から見える空は、下半分だけに昼の青空を残していた。雲は小春日和の暖かさを上から圧し潰していた。君ってひとは、とぼくは呟いていた。けれどそれは再び眠りに陥る寸前のたわごとだったのかも知れない。君ってひとは淋しさに暮しの焦点を合わせてしまってるから、こんな寒さの戻る夕暮れなんかが好きなんだ。まったくしょうがないね。            (了)

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