烏の羽根飾り

平方和

烏の羽根飾り

 運良くその電話を、ぼくが取る事が出来た。ご連絡を待っていたんのですが、と相手は言う。ここが演技の見せ処だった。ぼくは怪訝な声を出した。もう一度おっしゃって下さい。誰をお尋ねですか。

 昼時を過ぎて、出足の遅かった社員もようやく昼食に出ていた。オフィスにはぼくと部長と、もう一人しかいなかった。部長の席とはかなり離れているので、ぼくの話している内容を聴かれる筈はなかった。

 それでもぼくは、少々焦っていた。聴かれてはまずいのだ。ぼくは、とぼけて返答した。当社にはそう言う名前の人物はおりませんが。今度は相手が怪訝になる番だった。どちらか他社さんとお間違いではないですか、とぼくは畳み掛けていた。

 相手は彼女のフルネームを言って、確認しようとした。いえ、その様な者は在籍しておりません。ここまでは嘘ではない。ぼくは尚も、とぼけ続けた。いいえ過去にも在籍した事はありません。もう一度必要書類をご確認になってはいかがでしょうか。相手が言葉に詰まるのをきっかけにして、ぼくは電話を終えた。

 受話器を置いて、部長の顔を盗み見た。部長は自分のパソコンに向っていて、ぼくの電話の内容には気づいていないかの様だった。けれど、その日の午後、エレベーターに乗り合わせた時、ふいに部長が訊いた。昼間の電話は何だったんだ。いえ、他社さんの担当者とお間違えだったようです、とぼくは取り繕った。部長は、領き乍らも、何処かに疑問を残している様だった。


 始まりは先週の月曜日の事だった。総務部のフロアで郵便物を纏めて受け取った。階段を登り乍ら、その宛名を見て行った。部長宛に多くの請求書が届いていた。その他に各々のデザイナーへ、ダイレクトメールや案内状があった。そんな中に、彼女宛の封書があった。出版社のものだ。

 けれど彼女が辞めてしまって既に半年が過ぎていた。確か、母親が病弱なので家事を手伝うから、と辞めたのだ。お別れの宴もなく、ある週明けに彼女はいなくなっていた。その朝のミーティングで部長から、辞めた事を知らされたのだ。センスの良いデザイナーだったので、残念な事だった。

 封筒にある社名は、クライアントではなかった。業界雑誌を出している出版社だった。横長の封筒にセンスの良いレイアウトで文字を入れてあった。紙の質も良く、ビジネスライクな感じを持たせなかった。それが気になった。単なるダイレクトメールではない気がした。

 封書はぼくが預かった。彼女に連絡して転送してあげようと思ったのだ。在籍当時の電話番号は社員の名簿を見れば判った。だが電話はこの番号が使われていない、と繰り返し告げるだけだった。


 その週末もぼくは休日出勤した。すでに印刷所などが年末の進行状況に入っていて、仕事はどれもタイトなスケジュールになっていた。今日ひとつ入稿データを仕上げて、帰り道に印刷所へ届けなければならない。

 昼前から出社して、ぼくは手早くデータを作っていた。これを仕上げても、今月中にもうひとつ次の号の分まで入稿しなければならなかった。画像を貼り込んで、一端プリントアウトした。プリンターは懸命に処理をしている。けれど一枚目が出るまで、暫く掛かりそうだった。

 ぼくはすっかり冷めてしまった珈琲を口にして、思い着いて彼女の使っていた席に向かった。彼女が辞めた後、後任を補充しようと言う話は出たが、会社の情勢から未だ、求人をしていなかった。

 彼女の席は、彼女が去った時のままだった。机の上は綺麗に片づけられている。パソコンとキーボードだけが、半年分のほこりを被っていた。ぼくはそのパソコンの起動スイッチを押した。

 冷えきった機械がゆっくりと熱を取り戻す様に画面が明るくなり、起動画面を表示した。いくつものアイコンが画面に並び始める。キーボードに手を置いてぼくはその様を眺めていた。

 マウスが矢印になった処で、ぼくはハードディスクを展開してみた。彼女が手掛けた仕事が、幾つものフォルダーになって残っていた。そのひとつを、ぼくはドラッグして画面のごみ箱に重ねた。それで怯む気持ちは無くなった。

 綺麗に色分けしてあったフォルダーの全てを選択し、ごみ箱へ移した。画面は一瞬にして空白になった。ごみ箱を空にするショートカットを打って、ぼくはOSを終了させた。


 いつか彼女は偶然を喜んでいた。会社へ遣って来た雑誌社の営業と一通りの話をした後、雑談の中で共通の友人がいる事を知ったのだ。火曜日、ぼくはふいにその事を思い出した。媒体資料をめくっていた時だった。

 彼女の机へ行き、引き出しを開いた。ピンクの付箋の塊が転がっていた。在籍当時に彼女がため込んでいた名刺ホルダーを見た。だがホルダーに名刺は一枚も残っていなかった。彼女の仕事を引き継いだデザイナー同士で分配してしまったのだ。

 そのメディアをぼくは担当していなかった。営業部のフロアに内線をして、担当者を訊いたが、外回りに出ていて捉まらなかった。担当者が帰社したのは夕方近かった。雑誌社の営業の女性の名と電話番号を訊いた。

 さっそく掛けてみたが電話の相手は当人の不在を告げた。その日は、電話を掛けた相手がことごとく捉まらなかった。何処の会社も同じ様に忙しい時期になっているのだろうと諦めた。ついてない事をこうして溜め込んでみるのもいいか、と思った。十ポイント程溜めれば、何処かでこれをラッキーと引換えられるかも知れないじゃないか。


 データのプリントアウトを見て、微調整が必要な部分を洗い出した。営業部の奴も来て呉れればいいのだが、休日に仕事がズレ込んでしまったのは、あくまでもぼくの責任なので、文句も言えない。全ては自分で判断して、完成させるしかなかった。

 微調整する度に他の箇所へ修正が必要になる。そんな風に全体の修正を終えて、再びプリントアウトをした。冬の日はもう、傾いている。これで完成させたい処なのだが、どうだろうか。

 何杯目になるのか判らない珈琲を、室外の水回りにある珈琲サーバーまで取りに行き、余りに煮詰まっていたので、呑むのを断念した。サーバーを空け、濯いでから珈琲をセットした。業務用の大きなサーバーに一杯に溜まるには少々時間が掛かる。

 ぼくはオフィスに戻り、資料の棚へ向かった。棚には貸しポジのカタログが多数あり、その他に業界の雑誌のバックナンバーを揃えていた。あれは今年の春より前だったか、とぼくは思い出しつつバックナンバーを探った。

 取り出した数冊の小口を見ると、ピンクの付箋の飛び出している箇所があった。開くと広告デザイン新人賞の応募要綱が掲載されていた。前年度に製作された広告のうち、優秀な物を顕彰する賞だった。

 まさに新人だった彼女は、自信の一作をこれに投じたのだ。あの広告は、斬新なデザインだった。クライアントの評価も良かった。彼女は優秀なデザイナーになれる筈だったのだ。付箋は、明らかに彼女が残したものだった。ぼくはそれを剥した。


 水曜日、ぼくはようやく当たりくじを引けた。いつか当社へおいでになった時、当社のデザイナーと意気投合してらしたでしょ、とぼくは相手の女性に告げた。

 電話の向こうで女性はしばし黙り込み、それから、あーあー、と打ち解けて呉れた。携帯電話の声なのに音量があって、ぼくは思わず耳から離した。珈琲スタンドの店内を見回し、他人に聴かれてはいないかと気にした。

 彼女お元気、などと訊くので、もう半年前に辞めました、と言った。彼女と連絡を取れなくなってしまったので、あの時話題に上っていた共通のご友人を教えて頂けませんか、と訊いてみた。女性は事情を理解して呉れて、その友人の電話番号を教えて呉れた。

 ありがとうございます、と言うと、うまくいくといいわね、などと気を回して呉れる。ロマンチックな誤解を、敢えて解かずに通話を終えた。それから教えられた番号に掛けた。

 同じ会社のデザイナーなんですが、と名乗り、仕事の件で連絡が取りたいと言ったのだが、その女性は、私も今の連絡先は判らない、と言う。連絡はあるんですよね、と念を押してみた。相手は曖昧に肯定した。

「では、ぼくが探している、と何かのついでに伝えてください」

 と頼み込んだ。ぼくの携帯の番号を無理矢理メモさせた。女性は不承乍ら了解して呉れた。


 名残りの日差しはこの時期、午後の遅い時刻に不思議な色彩を帯びる。まるでジンジャーエールのグラスの中の様に、周囲の風景に黄金のフィルターが掛かるのだ。入れたての珈琲を手に、街路を見下ろしていた。休日のオフィス街は店も開いてはいず、人影も疎らだった。

 彼女を思い出す時、何処か不審気な表情ばかりが浮かんだ。無駄口の多いデザイナー達の中で、彼女は随分と大人しいひとだった。誰かの決めたギャグにデザイン部一同が、どっと笑いに包まれる時、彼女はようやくほのかな微笑みを口許に浮かべるのだった。

 ぼくにしても、この会社に慣れるまでには、随分と時間が掛かった。学生時代には笑いなどという一番微妙な部分は、他人と共有できなかった。けれどそんな奴に限って、無理矢理笑わせようとする先輩社員がいた。いつかぼくは構えが取れたのだ。笑わせられる事に、抵抗など必要ないのだ、と。

 他人に対して最初に採り得る反応が、笑いか・構えか。そんな事が社会に順応できるかどうかを、分けているのかも知れなかった。彼女は、最後まで構えが取れなかった。だから辞めて行ったという事か。

 ぼくは思い着いて作品の棚へ向った。作品などと言っても、実際にここにあるのは、済んだ仕事の校正紙の控えだった。毎年、年末には整理するのだが、それまでは次々に置き去りにされ、膨大な紙の束が溜まりに溜まっている場所だった。

 それをごっそりと抱え、ぼくは会議テーブルに投げ出した。半分より下に彼女の作った広告の校正紙がある筈だった。めくって行くうちに、僕自身の作った物も出て来た。それによってだいたいの時期が特定できる。これより前だ。

 彼女の手掛けた物を除けて行った。やがてひときわ端正な広告ページが出て来た。彼女の応募作だ。それより数カ月遡ると、彼女の作った物は尽きた。残った校正紙を棚に戻してから、除けておいた物をひと纏めにした。

 今夜これを持ち出して、何処かで処分しなければならなかった。それは気の重い作業だった。けれど、約束は守らなければならない。ぼくは頭を切り替え、自分の仕事の最後の仕上げに掛かっていた。


 木曜日の夜になって、連絡が取れた。ぼくの携帯電話に彼女が掛けて来て呉れたのだ。ぼくは仕事を切り上げて、近郊都市へ向かう列車に乗った。駅に降り立つと街路は週末の夜を楽しむ人々で溢れていた。

 商店街を僅か行くと、その文具店はすぐに見つけられた。ウインドウを派手ではない赤と深みのある緑で装飾してあった。そのコンセプトに何処か惹かれるものがあった。彼女は店員のアルバイトをしていた。

 ぼくは早速、出版社の封筒を手渡した。彼女はレジにあったはさみで、封を切った。彼女の横合いから文面に目を凝らした。「あなたは広告デザイン新人賞を受賞されました。つきましては諾否をご連絡下さい」とあった。

 喜ぶ顔を見られるというぼくの予測は、見事に外れた。彼女は硬い表情のままエプロンのポケットから携帯電話を取り出すと、出版社の電話番号を押した。受賞式も近いだけに、担当者はこの時刻でも捉まった。

 名乗りもしないうちから彼女は「辞退したいのですが」と切り出した。ぼくは焦って、彼女の電話機を取り上げた。すいません、よく話し合ってから、またお電話します、などと言い繕ってぼくは電話を切った。

 彼女は脇を向いて、腕を組んでいた。どーしてなんだ、期待して応募してたじゃないか、とぼくは言った。

「そんなの会社にいてこそじゃない、もーデザイナーでもないんだし」

 と彼女は言った。それならばこそ、これ貰っておいて再就職すればいいじゃないか、とぼくは言い募った。黙ってしまった彼女にぼくは事情を訊ねた。


 データを完成させた頃には夜も更けていた。ぼくは地下鉄を乗り継いでいた。地下鉄の改札を出てコンコースを行き、その先で更に深いコンコースへと階段を降りた。乗り継ぎの切符を改札のスリットに滑り込ませた。

 改札の中で上り下りを分ける僅かなスペースに、烏の羽根がひとつ落ちていた。地上の駅ならともかく、この深い地中の駅に、いったい何処からこの羽根は入り込んだのだろう。烏が飛び込んで落として行った筈はない。羽根だけが地上の何処からか忍び入ったのだ。おそらくは長い時間をかけ、地中をゆっくり移動して来たに違いない。

 鳥の羽根の化石が見つかったという記事を見つける度に、新聞を切り取っている。鳥類というものが、化石になる程に古いのだと考えると、不思議な気分になるのだ。奴らは遠い昔に、既に空を飛ぶ事を会得していた。人類が未だ、自力で飛ぶ事など出来ないというのに。

 そんな遠い時代にも、鳥の身体を離れた羽根は、僅かな風に乗って思いも寄らない場所に紛れ込んでいたに違いない。それが現代になって、岩の中から現われる。小さな繊維の一筋までも、見事に残して。


 確認の電話はあの後にも掛かって来たのだろう。部長は受賞を知ってしまった。月曜日の受賞式には代わりに出る、と言っている。休日出勤のうえ更に残業までしたその夜、ぼくは社を出る前に一通のファクシミリを送信した。

 うちの会社名を用紙の上部に印字して、ぼくの手紙が続いた筈だ。

「この度の広告デザイン新人賞の受賞につきましては、事実を偽りました事をおわび致します。今回の応募作品は、当社のベテランデザイナーが制作し、実在しない新人デザイナーの名を使って応募致しました。従って、応募の資格を満たしていない事を申告させて頂きます」


 病弱な母親の為、家事に専念するから、なんていうのは女の子が会社を辞める時の慣用句でしょ、と彼女は苦笑した。本当は違うんだ、とぼくは呆れて訊いた。部長がね、言い寄ったのよ、と彼女は目を逸らして言った。

 まだ社内に溶け込めていないみたいだね、などと部長は彼女に声を掛け、食事に誘ったりしていたらしい。自分の事で相談に乗って呉れるという部長の誘いを断る訳にも行かず、彼女は幾度か部長と食事を共にしたという。

 メシでも奢れば男は大きな気になってしまうのよね、と彼女は言う。社内での対人関係に戸惑っている彼女の側に弱みがあればこその事で、部長が誘えば酒の席でも嫌とは言えなかった。しかしやがて部長の態度もやや度を越し始めた。

 部長と新人デザイナーという立場では、きっぱりと断る事もできず、仕方無く彼女は、会社を辞めるという選択をしたのだという。そんなぁ、とぼくは呆れて言った。男には判らないわよ、と彼女は言った。

 それでもこの賞は貰っておけば、と言い募ったけれど、彼女は頑強に、もうこれ以上はかまわないで、と言い張った。私というデザイナーはいなかったの、と怖い顔で言われ、ぼくは社内に残った彼女の作品のデータを全て消す事を約束させられた。


 月曜日、朝から良く晴れていた。駅までの道のりで、まばゆさに目をしばたいた。見上げると冬の青空には濃淡が感じられた。何処も同じ青ではある。光は瀰漫している。けれどその輝度に差があるのだ。

 ひと仕事終えて、また今日から次の作業を始めなければならない。繁忙な時期は月末まで続く。人が考え得る作品の総量はどれ位あるのだろう。ぼくの頭脳にあるアイデアのストックも、やがては尽きるのだろうか。

 昼からの受賞式に部長は直行する筈だった。そこで何が起こるだろう。一人のデザイナーの将来を摘み取ったのだから、それなりの報いはあってしかるべきだろう。

 彼女は素晴らしいセンスを持っていた。持ち帰った多くの校正紙をぼくは結局捨てられずにいた。深夜の自室で、ぼくはそれぞれの校正紙を床に並べ、一つひとつに感心していた。どれも斬新さを持って、商品をアピールしていた。その結実があの応募作なのだから、受賞も当然だと思った。

 彼女のこのセンスをこのまま埋もれさせるべきではないと思った。それには何処から説得を始めればいいだろうか。頑固もんらしく、それは容易ではないと予測がついた。けれど全ては無駄ではない。きっとやがては実を結ぶだろう。あの店のウインドウは彼女が飾ったというのだから。               (了)

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烏の羽根飾り 平方和 @Horas21presents

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