ふたりの冬時間

平方和

ふたりの冬時間

 ともかくぼくは彼女の部屋を後にした。世間はこれから休日の朝が始まる時刻だけれど、ぼく達にとっては晩餐の終わりで、普段なら酒瓶の蓋を開いて和む頃だった。

 一日考えてみてよ、とぼくは言った。そして和もうとする彼女を押し留めて帰途についたのだ。茫洋とした夜明けの街を歩きつつぼくは、心に絡み付くものを感じていた。彼女の手渡して呉れた酒瓶をぼくは、返してしまった。それに後悔しているのだろうか。あるいは、それよりも先に口にした言葉に後悔しているのだろうか。そうしなければ良かったのだろうか、と。


 夏時間というものがあったという話を聞いた時、それはうまい表現だ、とふたりで納得した。そしてぼくらふたりだけで習慣にしている妙な時間の晩餐を、それから冬時間と呼んでみた。

 土曜日の深夜を回って午前二時。週末の仕事を終えてひと眠りし、目覚めると夜の初めの頃になる。おそらく同じ頃に目覚めた彼女は今日の献立の打ち合わせの電話を呉れる。それから買い物をしつつぼくの部屋を目指すのだ。彼女がドアを叩いて入って来るこの時間に、ぼくは漸く頭が働きだす。

 それからふたりで食事の支度に取り掛かる。昔していた仕事の腕前もあって、ぼくらは結構な料理が作れる。週末くらいはまともなものを食べようね、と繰り返すうちに習慣となった晩餐なのだ。

 彼女は貸しビデオ屋で終夜の店員をしている。ぼくはコンピュータ会社の保守要員として深夜に勤務している。ぼくの方は時折、朝で終わりという訳にも行かなくて昼に至る残業も無くはない。あるいは昼の担当者から、あれはどうなった、と呼び出しの電話を受ける事さえあって、妙に忙しい日常なのだ。

 誰もが仕事を終える週末の夜にも、ぼくらは仕事をしていて、それが明けた土曜の朝に漸くその週を終える事が出来る。その時間に酒場が開いている筈もなく、夜勤の労働者は遊ぶ事よりも先づ、睡眠を摂る。昼にならないうちに眠り、普段目覚める筈の夕刻さえ寝過ごす。

 十数時間眠って一週間の疲れを癒せたら、そろそろと起き出す。眠りに落ち掛けている街へ買い物に出る。ぼくらは朝の日差しは知っていても、明るい時間を知らないのだ。

 週末は一日を二十一時間にして過ごす。生活時間を十五時間程にし、就眠の時間を毎日三時間づつ繰り上げる。休日に設定してある月曜日だけは普通人に合致して二十三時に就眠する。そんな暮し方をふたりで考案してみた。

 ぼくの部屋の台所で彼女は煮物に時間を掛けていた。こんなのどうかね、と彼女は鍋の蓋を取った。昔作ったなんとかスペシャルに似てはいないか、とぼくは答えた。

 晩餐の後は彼女を送り届ける。そして今日ならば互いに五時には眠りについている筈だ。それですら嬉しい早寝だ。この季節ならばまだ夜が続いている事も、心理的には落ち着ける要因になる。

 この時間、既に明るくなり暑くさえなっていた夏の頃には、眠りに就く事が出来なくて、つい散歩などしたものだった。程近い処にある大きな川のほとりを、歩いているのは老人と彼等を先導する犬達ばかりだった。そんな場所で彼女と再会したのだった。

 どうしてこんな時間に、と互いに疑問を口にした。そして互いに昼の生活には戻れなかった事を苦笑した。夜に魅入られて、寝ちゃいけない呪いを受けた、と彼女は言った。そしてこの川の対岸に辿り着けなかった昔を、互いに思い出していた。


 世間的には日曜の朝という優雅な時間に、ぼくは悲しくも早々に目覚めてしまう。六時間という睡眠で、何故か意識は冴えてしまう。まだ午前中であるというのに。

 眼の痛みに目覚めさせられたのだ。眠っているというのに、眼の乾きを感じていた。閉じた瞼の下で眼を動かす度に、引き擦る様な嫌な感覚をもった。それはやがて痛みに変わり、意識を覚ます程にさえなってしまった。

 眠る時、多少の涙が出るのは何故、といつか彼女は言った。潤える人は幸せなものだ。ぼくは乾きに苦しんでいる。ドライアイ。眼精疲労というものだろうか。この職種もそう長くは続けられないな、と思い知った。

 起きる必要ない時間だった。せめてあと一時間程度は、とぼくは尚も寝床の中で眠れる瞬間を待っていた。眠りは、何かを捜す事に似ているかも知れないと、取り留めもなく思った。ほんの数十分という睡眠の為の時間を、一時間という猶予の中から見つけ出し、漸くそこに意識を沈める。それが眠るという事なのではないか、と思った。

 沈められない意識は、妙な発想を深めて眠りを呼ばない。けれど例え寝た振りに過ぎなくても、効果はあると思いたい。こうして居れば、全身の体温が一定に揃う気がする、それだけでも眠りに似た効用はあるのではないだろうか。

 あの歌覚えてる、とゆうべ彼女は古い曲を口ずさんだ。忘れたくても、今でも耳の奥では鳴ってるよ、とぼくは答えた。趣味だけは統一されていたあの店に、何故こんな駄作が、というような盤があった。最も全盛期には棚に溢れていたレコードの山が、あの頃には三分の一にまで減っていた。先に辞めて行った店員に、いつの間にか持ち出されていたのだ。

 いいものは悉く消えて、滓ばかりが残っていた。そしてそんな滓のレコードにも一曲くらいは耳に残る曲はあった。店に掛ける金がなくなって、レコード針も買えなくなっていた。針というものがあそこまで擦り減るとは、知らなかった。それでも盤に載せれば音がした。何がしかの曲が聴こえていたのは、不思議な事とさえ言える。

 さすがにそんな針では、アームの力さえ支えられなかった。時折、針は流れる様に跳びいきなり終曲を奏でた。それが今でも耳に残ってしまっている歌だ。生きる喜びなど求めない、とその歌は訴えていた。


 先輩達は潰れ掛けた店を早々に見限った。ぼく達は、逃げ遅れたのだ。店長は情けない中年で、見捨てるには忍びなかった。毎日何処かへ金策に出掛けている彼に代わってぼくらが店を守らなければならなかった。

 薄暗い地下の扉を開く為に、ぼくらは通った。ぼくも彼女もまだ二十歳そこそこだった。休日さえなく昼過ぎには出勤して、いつも深夜まで営業した。何も判らないままぼく達は、店を切り回すしかなかった。

 当然、その日冷蔵庫にある材料でしか肴が出来なかった。酒だけは裏の倉庫に箱で積んであったけれど、それを補充する宛はなく、これを空けてしまったらもう営業は出来なくなる、と覚悟していた。

 何か食べ物作ってよ、と註文されて、相手が常連ならばぼくらは、自分の食事用に買って来ていた食パンをトーストにして出したりもした。アイス珈琲はインスタントのものを配分して作った。有り合わせの安い野菜を取り合わせ、これまた安く買ったガラで煮て、スペシャルと称する料理を作った。

 こんな店にも来る客がいたのだ。うらぶれた場所こそを好む人種は、いつも何処にもいる、という事なのだろうか。彼等がいてくれて、僅かな金が入るものだから、翌日も店を開く事になった。彼等はあの酷い音響で鳴る滓のレコードに聴き入って、杯を重ねて呉れた。それは安酒だったが。

 棚には良い酒も並べてはあった。それを註文する客はいなかった。誰もがそれを本物とは思わなかった。その噂を裏打ちする様に、どうせ中身は紅茶さ、と何かの折りに店長が裏で耳打ちしてくれた。


 田舎を出てぼくはあの街へ流れ着いた。そして妙な巡り合わせでこんな店に関わり、学校にさえ行けなくなっていた。深夜までの営業を毎日続ければ、それだけで昼の生活など失ってしまう。

 目覚めては地下の店へ入り、夜明けに帰り着く日常だった。せめてたまには、どこか他の場所へ行く時間が欲しいと、思う様になっていた。遠くない処には大きな川が流れていた。それは故郷の山河に似ているのだろうか、と想像した。そこへ行って、茫っとして過ごしたい、と念じていた。

 あれは三本の路線に囲まれたおかしな街だった。西へ向かった路線は、北から来た路線に呑み込まれて、やがて東へと戻ってしまう。その西に川があるのに。その先まで行ければ、大きな川へ行き着けるのに。彼女もその川へ行ってみたいと思っていたらしい。深夜の酒場で話がそこへ跳んで、いつか行こう、と頷きあった。

 暑さの厳しい季節には、店を閉める頃にもうすっかり明るくなる。その日、店の酒を少し相伴したぼくらは、僅かに元気があってまだ何かが出来る気になっていた。川へ行こうか、とぼくは彼女を誘った。

 店のある裏通りを出て幹線道路へ出れば、その道が川へ向かっている筈だった。道は川を渡ってとなりの街へ行く。ぼく達は大通りへの坂を上った。早朝の幹線道路の自動車は、殺気立っているかの様に速度があった。道はぼくらを拒むかの様に、やがて緩やかに下りその先でまた上りになって、なかなかその行く先を覗かせて呉れなかった。

 長い下りに足許が怪しくなった後、今度は長い上りになり、さすがにぼく達は疲れを覚えた。一夜立ち尽くしていたのだから、当然だった。ふいにヘリコプターが上空を掠め、爆音が頭を叩いた。ぼくらは機銃掃射を受けた様に、その場に屈み込んでしまった。ぼくらは諦めた。川へは行き着けなかった。

 記憶はそこからすぐに、ぼくは辞めるよ、と彼女に告げている場面に繋がる。身体が保たなかった。昼を知らない暮しは、精神状態を悪くした。客のまばらな店内のカウンターの内側で、酒の棚に凭れてぼくは突然彼女に言ったのだ。その言葉を口にした時、ぼく自身が自分に失望していた。ついに誰の味方にも友達にもなれなかった、と。同じ境遇で辛い思いをしている彼女をどうする事もできず、ぼくはひとりで、そこを去った。


 あれはつい数日前の事だった。帰途の通勤列車に乗り込む時、すれ違った乗降客の人混みの中から手が伸びて、ぼくの肩を叩いた。そして一言だけ残して流れて去った。

「あれ受け取ってくれたか」

 その言葉の意味する事に覚えがなかったから、暫くその人が誰であったか、判らなかった。人違いだったんだろう、とさえ思った。けれど今になってそれが判る。判ってみると、あの一瞬にすれ違っただけの人物の映像が、明確な姿をとり始めた。随分歳を取った様に思えるけれど、あれはおそらく店長だったのだ。


 十年過ぎていた。その間ぼくはあの街を離れて暮した。そして今は、あの街の対岸に住んでいる。彼女もそうだった。何の事はない。十年かけてぼくらは大通りの先の橋を、漸く渡れただけなのだ。

 あれは抜け駆けだった、とぼくは彼女に出逢った時に先づ、謝った。あれからぼくは後ろめたくてたまらず、この街を離れ、昼の仕事を選んだ。それからは大人の暮しが始まった。ぼくは結婚もした。

 けれど生活は崩れた。ぼくは睡眠異常になってしまったのだ。眠れなかった。ひとたび眠れば起きられなかった。出社する時間に起きる事が大変な苦痛になってしまった。やがて通勤時間が乱れ、出社さえままならなくなって、ぼくは会社員を辞めた。それと同時に結婚生活も終わってしまった。

 誰もがこれを病気とは思って呉れなかった。だからぼくはひとりになって当初、只々眠り続けた。惰眠を貪るうちに、生活パターンはまた、夜型に収束して行った。若い頃に覚えた生活習慣が、身体に焼き付いてしまっていたのだ。

 夜の生活に戻らざるを得なかった。ぼくは敢えて、夜の勤務を選んだ。再び呑み屋をやるのは嫌で、その結果こんなきつい仕事をする事になってしまったのだ。


 宗教者のもの言いみたいな歌がはびこっているね、と彼女が言ったのは、終夜営業のハンバーガー屋だった。その夜ぼくらは、帰り道にそこで待ち合わせたのだ。店内に流れる歌は、まるで楽観的に愛を讃える。

 愛される事の何がそんなに甘美なのだろう、とぼくは訝った。結婚の破綻はまだぼくの心にしこりを残していた。男も女も何故恋したがるんだろう、とぼくは口にしてみた。

 二人同時に思い出した顔があった。捌けた性格のいい女の常連があの店にいた。彼女も姐さんと慕っていた。男を寄せ付けない勢いの様なものがあった。だから何かに依存する様な処は微塵も見せなかった。

 それがいつからだったか、変わってしまった。妹分の彼女には、その辺りの事情が判っていたという。男が出来た。そして恋に振り回されていた。あんなにいい女が、陥穽にはまる様に恋をしてしまう。何故、恋をしないではいられなかったのだろう。

 人としてあそこまで完成されていた人格が、振り回される間に変化してしまった。依存する対象は酒にも求める様になった。あんなに酔った姿を見なければならなかったのは、酒場の店員だからこそなのだが、それが辛かった。

 あの人はそしてやがて消えた。別れりゃ良かったのに、どうしてかな、と今さら乍ら言ってみた。

 彼女はそれに複雑なコメントをした。自分とは全く対極の、世界で一番いけ好かない奴を見つけて手に入れてしまったから、絶対に手放したくなかったのよ。全く理解出来ない女の心理だ。

 そんなコメントを訊いて、あの人よりも彼女の方が今は大人なのだと思った。十年を経て彼女が、今では捌けたいい女になっている、と思った。あの頃にぼくらが肉体関係を持たなかったから、今になってこんな同期の桜みたいな、付き合いができるんだよね、とつくづく言ってみた。彼女は鼻先で笑った。

 隣の座席のカップルの話声が断片だけ流れて来る。男の話す内容が常に何処かへ放り出される様な気がする。それはあの変な単語のせいだ。

「てゆーか」なんて言葉で話をひっくり返すだけ会話なんて、駄洒落を言うよりセンスないよね、と彼女の方が分析は細かかった。別れた妻が、そんな会話をよくした事を、突然思い出してしまった。

 身に覚えがある気がする、とぼくは気弱になって言った。結婚の失敗の数多い原因の幾つかを語ってみた。やっぱり子供がホチキスになるってもんだったかね、と言うと彼女は、子供作ってしまうのも子供っぽい行為かも知れないじゃない、と嘲笑した。それと同時に隣のカップルが会話に詰まって席を立った。まるで彼女の言葉に気を悪くしたみたいだったけれど、まぁ気のせいだろう。


 君は結婚もせずにあれからどうしていたの、と水を向けてみた。

 彼女は紙コップの珈琲を口にしてほんの少し黙った。おそらくは記憶の整理をしていたんだろう。それから昔噺が始まった。

 どう見ても最早、立ち行かなくなった頃、最後まで粘っていた常連を送り出した夜明け近い時間に、店長が裏から現れた。店長は棚に残った三本の酒瓶を彼女に呉れたという。そして、明日からは店を開けなくていい、と言った。それから、顔知られてるから、この街を出ろ、と言い添えたと言う。

 彼女はそれからすぐに、東の街へ流れた。そしてぼくの様に、追われる気分を抱え昼の職業に就いたという。OLもした、と彼女は笑った。お茶汲みなんて簡単なものよ、カウンターにいたんだから。コピー取りが何よ、借金取り追い返すより余程簡単じゃない。それに何より、会社というのは人が沢山いる場所なのよね。

 あれは結構楽しい暮しだった、と彼女は笑った。でも忘れられない物があって、と表情を停めて言葉を途切れさせたのでぼくは、せがむ様に訊ねた。

「忘れられなかったものは何」

 夜かもね、と彼女は再び笑った。


 暮れに近づくに従って、朝が衰えている。日毎に闇の暗さが増している様な気がする。会社を出て通りへ出ても、まだ夜は終わっていない。もう明るい時間は二度と来ないんじゃないか、と思う程に、夜明け前は暗いのだ。

 それでも帰途の電車に乗っているうちに夜が明ける。それで今日もちゃんと朝が来たと心を落ち着けられる。車内にぶら下がる旅行の広告は、冬のものになっている。温泉旅行行きたいね、などと彼女に言われれば口調も軽く答えて、否定はしない。けれどお互い、一体どうやって昼の時間と折り合いを付ければいいのやら。夜行列車というものは目的地までは深夜を走るけれど、都会を出るその出発時刻は、決して深夜という程の時間ではない。

 互いに結構な年齢になっている。深夜に遊ぶ子供達を支えるのは、ぼくらその上の世代なのだ。いったいこのままで身体は保つのだろうか。こんな年齢だからこそ同い歳の友達とはワルイ事して遊ぶ仲でいたい、と彼女は屈託なく笑う。その性格が嬉しい。


 夜明けの街に帰り着いても、朝の時間では部屋が暗い。スイッチを入れると、蛍光灯がカラリンと音立てて点いた。あんな事言っていても、彼女がぼくを見る表情には、単なる懐かしい友人に向ける感情以上のものが篭っている事を判ってはいるのだ。

 この夏の夜明けの川原で互いを見つけた時、ぼくらは互いの姿に同じものを見い出していて、そして苦笑したのだ。傍らには走り回る犬達がいて、それと対照的に眠りさえ衰えてしまった老人達がいた。そしてぼくらもまた、夜を消費し尽くしてしまった者達だった。深夜という時間にはもう、どんな秘密も隠されていない、と言える程に、夕暮れてから再び明ける迄の時間の全てを、ぼくらは知り尽くしていた。

 どうしてこんな時間に、と互いに問うた時ぼくらは、夜という時間と自分との親密な関係を独占しているものと信じていたのだ。それは寂しい例えだけれど。だからこそぼくらは、自分のステディである夜を身近に置く者が、もうひとり居る事実に気づいて、夜の多情さに呆れつつ苦笑していたのだ。

 質の悪い男から離れられない女の様に夜に魅入られた、と彼女が言ったのは、そんな意味だったに違いない。


「ほら寒いからって走るなよ」

 今日は初めて晩餐を彼女の部屋でする事になった。広い街でもないのだが、敢えて彼女の部屋を訪ねる事は控えていた。結婚に失敗した男の節操というものかも知れない。そしてこの日ここへ来たのは、その節操に見切りを付けるつもりがなかったとは、言わない。

 晩餐はこの朝も楽しく過ぎた。この後はぼく達にとって就眠の時刻だった。酒を口に出来るのは、朝のこの時間しかない。仕事前に呑んでしまっては、仕事の最中に眠気に襲われる事になる。

 呑もうか、と壁際の棚へ目を遣った。ほんの数本だけボトルが並んでいる。その中には見慣れた洋酒の酒瓶があった。こんないいもの、と手にしてみると、随分色褪せている。僅かに残った埃の具合から、それがあの街のあの店にあったものだと判った。

 すると中身は紅茶か、と思ったが、良く見ると口は切られていなかった。ぼくがそれを見つけた事に彼女も気づいた様だった。これどうしたの、と問うた。

「結局それだけは開けずにおいたの」

 あとは呑んじゃったけれど、と彼女は言った。するとこれは店長が最後に呉れた三本の酒瓶のうち最後の一本なのか、と理解した。本物だったのか、と思った。略奪の後の様なあの店の棚に、当たり前の様にあったこの瓶がその実、誰にも開けられていなかったなんて。

 あなたの退職金代わりだって、と彼女は言った。それをやっと渡せるね、と彼女は笑った。その笑顔に浮かぶ感情をぼくは、最後にもう一度だけ忖度した。君はいつかぼくに恋してる気になってたね、と言うと彼女は照れくさそうに頷いた。

 そこでぼくは酒瓶を示して言った。そうじゃないんだよ。君はこの預かり物を長年保ち続けているうちに、ぼくに想いを残してる気になっただけなんだよ。

 彼女は照れた表情のまま視線を合わせずに、そーか、と言った。だからぼくは、一日良く考えてみてよ、と言った。そして今日、それからの時間を楽しく過ごす筈だった予定をそこで放棄した。

 深夜五時という最も暗い時間に、彼女の部屋のドアを出た。その瞬間からぼくの後悔は始まっていたのだ。夜明け前が心底冷える季節のひと気のない道を行きつつ、ぼくは寒ささえ忘れて彼女を想っていた。長いブランクを経て甦った友情というもの。それを支えていて呉れたのは彼女だったんじゃないか。このまま帰っていいのだろうか。

 そして同じ日付が漸く終わろうとしているこの深夜と言っていい時間に、電話が鳴った。いつもの晩餐の打ち合わせと同じ要領だ。それは彼女が同じ冬時間に暮している証しでもある。今日は何にしようか、という話題のあとで、彼女はつけ加える様に言った。それで良く考えてみたんだけど。勿論、一日良く考えてみたのは、ぼくも同じだった。                        (了)

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ふたりの冬時間 平方和 @Horas21presents

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