週末のテレビドラマ

平方和

週末のテレビドラマ

 出勤の駅の入り口は、曇天の下にあった。地下へと降りるエスカレーターの脇にはエレベーターもある。エスカレーターに歩を進めていたぼくは、閉じかけたエレベーターの扉の陰に大きなソフトケースを見ていた。運んでいる人物の姿は見えなかった。電気楽器ではない。あれはチェロだろうと推測した。

 定期券を手荒く機械に捌かれて、改札を通過した。更に階段を下って漸くホームに到達出来る。未だに車両の何処に乗り込めば、到着駅で便利なのかを覚えることが出来ない。今日もまたその間合いを測っていた。

 離れた処の柱の陰にチェロのソフトケースが伺えた。それを持つひとの姿はやはり見えなかった。けれどその辺りで交わされている会話の断片は、耳に届いた。

「十年位ひいてないって言ってた」

 それは楽器演奏のブランクを語っているのか、と当然思った。けれどそれに続く会話から夏風邪の事と判った。この数日は、猶予された様な涼しい日だった。まるで秋を思わせる程だった。けれどこれが続いて行き、早々に季節が変わるなどとは思わない。季節の性格は、そうそう信用の措けるものとは思ってはいなかった。


 職場で反古紙を整えていた。陽に焼けてよれていた紙に油断をしたのだ。小口を揃えていた親指に痛みが走った。見ると第一関節の内側辺りを縦に切られていた。日常に小さな怪我をするくらいの事は幾らもあった。だから悔やむ筋合いなど無いのだ。けれどこの傷には悔しさを感じた。

 目を見張る様な派手な事のない日常だ。楽しみと言えば通勤の数十分に読む文庫本ばかりだった。ホームに立つ度に殆ど無意識で手にしている百数十枚の紙の束は、この日常に一番手近にあるものだった。その眷属たる紙に手を切られた。それは何よりも心に利く裏切りだった。

 仕事は週末であろうと変わらずに出勤している。水曜日だけが唯一の休日だった。その事に何の異議もない。ぼくにとってこの会社での時間こそが、社会なのだから。ぼくの週の始まりは木曜日、そして週末は火曜日だった。係わりの無い世間の休日などに合わせる必要など最早無かった。

 けれど部屋に帰り着いて点けるテレビの、夜分のニュースがぼくのウイークディの三日目には放送されないのだ。それが奇妙でもあり、寂しい事だった。

 ぼくの週の半ばに「また来週」と言って去るキャスターを見て、世間の週末を意識する。土曜・日曜のテレビのプログラムは、やはり週日と少し調子が違いカジュアルなのだ。けれどぼくはその夜を、気を休めずに過ごす。

 漸く来る火曜日には、さすがにぼくも疲労が溜まっている。けれど世間ではそれは週の初めなのだ。テレビのプログラムも何処か昂揚を謀るかの様で、気分を休ませては呉れそうにない。

 せめて世間の週末を引き寄せたいと思い、ぼくは休まらない気分をもう少しだけ待機させる。けれどその待機はいつまでも解除される事がないのだ。いつでも途上だった。何処まで行けば休めるのか。いや、そもそも何処かへ辿り着く時はあるのだろうか。


 部屋に帰り着いても、自分のクロックの速度を落とす事は出来なかった。仕事は二十一時までは終わらない。それから始まる時差のある夜を、ぼくは手際良く過ごさなければならない。夏の夜明けはぼくを待っては呉れないのだから。

 部屋の灯りを点けると、先づ湯沸かしポットを仕掛け、すぐに米を洗う。炊飯器は十七分で仕事をし遂げる。その間に野菜を水洗いし手でちぎって盛りつけるのだ。

 お菜は昨夜のものが半分、冷蔵庫にある。これを電子レンジで温めるだけだ。ポットにいっぱいに沸いた湯は先づ、カップに一杯のインスタントスープを溶く。次に残りで、サーバーに一杯のインスタント珈琲を入れる。これは明日持ち出す分のアイス珈琲だ。

 炊飯器は盛んに蒸気を吹き出す。奴が仕事を終えるまでに僅かな隙があって、台所の椅子に腰を落とした。唇から漏れたのはただの呼吸ではない。その前に息を止めた短い時間があったからこそ、それは溜息だ。

 生きる事に、どんな別の意味も隠さない生活をしようと思った。働く事、食べる事、眠る事。行為にその成果以外の意味を持つ必要はない。裏のない生活がしたかった。帰り着いて食事を作る事の無垢な繰り返し。それを極めたかった。

 体力を消費して為す仕事を日々こなし、その疲労に心地よく眠りたかった。けれど昨夜はまた、悪い夢を見た。かつての上司がぼくの作業を詰る。あれは誰もが泡の様な浪費をした時代の、無為な業種の仕事だった。

 時代が過ぎれば、アリとキリギリスの教訓など活きてはいないかの様に、誰もが共倒れとなった。真面目に働いていたひとも、ぼくの様に時代を弄んだ者も。ここにも勝者と敗者がいるのだろうか。

 これもまたゲームだったのだろうか。時代を過ごし、歳を重ねてその末に手に入れた物を引き比べる卑近な競争だったのだろうか。それならそれでいい。ぼくは殆どの物を最終局面で巻き上げられた。今、手許に残るのは恥ずかしい程に少額の現金に過ぎない。

 家を建てた。自動車を持っている。大型犬を飼っている。そんな勝者達がいる。よかろう。所有できる者は僥倖に酔えばいい。全てが平等である事もなかろう。ここで閑居し、夜分に侘しい食事をしていても、ぼくはこの境遇を甘受している。


 この日曜は暑い夜だった。けれどコインランドリーまでの道のりにすれ違ったジョガーは、六人にも及んだ。敢えてする苦行はまた、何処かで屈折した贅沢なのだろうか。

 陽が落ちても気温はついに下がらず、二十七度の熱帯夜と報じられた。門柱の上に寝そべる猫は、小さなスペース一杯に足を延べ、無防備な姿態を曝していた。余りの暑さに最早、自分の演じるべき役の演技を忘れてしまったのだ。その姿はまるで女の様だった。

 だから猫は、信用が措けない。人に見せるあの愛嬌など、やはり媚びという演技でしかなかったのだ。それに比して犬はなんと愚直なのだろう。延べた両方の前肢に顎を乗せ、諦念を視線に浮かべつつ暑さを甘受している。

 その素直さにぼくは抗う事も出来ず、愛情を抱いてしまう。愛情を注がれる存在というものが確かに存在するのだ。そいつは何一つ代償を払わずに愛情を集め得るのだ。

 その娘は瞼の形が微妙で、感情に拘わらず悲しそうな表情に見えてしまうのだった。帰途の表通りのスーパーマーケットで、夜のレジに立つ娘だった。化粧気も少なく、衣服の趣味もおとなしかった。ぼくはつい、彼女のレジを選んでしまう。けれど買い物に不必要な言葉など掛けた事は無かった。

「会員カードをお持ちですか」

と問われて肯定し、過剰な包装を押し留め、金額の端数に見あう小銭の有無を告げる。それだけの事を、この単調な生活の小さな楽しみにしていた。

「例えばそれはあなたの彼女でも」

と言われた時、ぼくはあのレジの娘をそれと示した。勿論それは嘘だった。


 コインランドリーの営業時間は八時から二十四時と表示されていた。ぼくの勤めでは、その最後の時間帯に辛うじて間に合う程だった。着替えの枚数が七日分なのが面倒の元だった。現在の仕事に就く前のサイクルは頑強に引き継がれ、ぼくはどうしても毎週同じ日にここを訪れなくてはならなくなっていた。それが日曜日の夜更けだった。

 例えば前日に、早く帰れるものならこのサイクルを崩せたかも知れない。だが現実はそれを容易には許して呉れない。早く終われればなどと願う日に限って、仕事は長引いた。そして結局は今週も、同じ時間にコインランドリーに行く事になってしまったのだ。

 不思議な事には、この時間に決まって顔を合わせる先客が数人いる。彼等にしてもこうまで律儀にサイクルを合わせる事はなかろうに、何故か皆、同じ時間帯に同じ場所に集ってしまう。

 かと言ってぼくらは、馴れ馴れしく言葉を交わす事など、ある筈も無かった。自動車雑誌を読みふけるスポーツ刈りの中年男性は、無骨な人柄は良く伺えるのだが、いつも目を合わせる事さえ避け、機械の停まるまでの時間を無口に過ごす。

 太めの中年女性は、炭カル袋に一杯の洗濯物を自転車で運んで来て、洗濯機を起動させ去る。そして三十分後には、缶ジュースなどを呑み乍ら再び姿を見せる。

 そんな言葉も交わさない馴染み客が、一様に作業を終えて去る時刻に、大抵はぼくだけが取り残されるのだ。乾燥機が停まる時刻を見計らってぼくはここへ戻った。時刻が十一時三十分を回った頃、あたかも起動の料金が切れたかの様に、大気もまた暑さを停めた。

 熱の残る衣類を乾燥機から取り出した。下着、タオル、シャツ。長袖のシャツの脇に黄色い染みを見つけた。これが落ちなくて色々と試みをしていた事を思い出した。けれどこのシャツは確か、今では手許にない物の筈だった。春の終わりにこれは、ここの乾燥機から紛失したのだ。


 ここ数日の涼しさはやはり仮のものに過ぎなかったと、天気予報に告げられた。猶予された涼しさの夜更け、ぼくは机の引き出しをかき回していた。骨を探す犬の様に。

 あれからあのコインランドリーで顔を合わせなくなっていたから、彼女は生活のサイクルを換える事が出来たのだろう。いつも下顎に力を入れていたから、表情が硬かった。彼女はあの場所で、どんな事を警戒していたのだろうか。

 彼女もまたあの場所の馴染み客のひとりだった。まだ肌寒ささえ残っていた頃、あの場に居合わせた。ぼくは乾燥機を起動した後も、珍しくコインランドリーに足を留めていた。

 何本目かの煙草に火を点けた時、彼女は漸く言葉を発する力を溜め得た様だった。指先で煙草をくすぶらせ乍ら、

「そのシャツの柄がいいね」

と彼女は切り出した。良かったら譲って呉れないかな、とまで彼女は言った。

 ぼくはこの長袖のシャツを乾燥機に放り込もうとしていた。色彩感のある柄では無い。むしろ淋しい色と言ってもいい程だった。随分着古してるけど、とぼくが言い淀んだのは、女性の好む物とは到底思えなかったからだ。

 彼女の着こなしは、柔らかな色彩のスラックスやシャツだった。決して派手ではない。けれどその上に羽織っているジャケットの色が無骨だった。取り合わせなど考えず、そこいらにあった彼氏の物でも羽織って来たのだろうか、と思った。けれど乾燥機で回っている衣類は二人分ある様には見えなかった。

 新手のナンパだと思わないで。私はオトコには興味ないから、と彼女は言った。その裁けた言い方に好感を持ったのは確かな事だ。その意味が何処まで事実かを手探りしているうちに、罠に填まったのかも知れない。

 恋愛感情なんて、と彼女は大脳生理学を援用して語り始めた。ある人物と過ごしている時に、たまたま脳内で快感物質が分泌されると、記憶にはその情報が付加されるの。これが他人に対する好意の正体なんだ。と言う事は、相手に快感物質を分泌させる様に仕向けられれば、恋愛感情もコントロール出来るのよ。それはオトコでもオンナでも同じ。私はオンナだって落として見せられるよ。四カ月あれば相思相愛になってる。例えばそれがあなたの彼女でも。

 それなら、とぼくはこのシャツを景品に賭をしたのだ。夜分のコインランドリーでの戯事のつもりだった。だから嘘は気楽に口をついて出た。あのスーパーマーケットの夜のレジの娘がぼくの彼女だと。

 夜更けの町内の公園で抱き合うオンナ同士を見たのは、それから三週間程のうちだった。Tシャツの後ろ姿は明らかにレジの娘だった。娘は彼女の肩に腕を回し、頭を頭にこすりつけていた。

 彼女はダンガリーシャツで髪も結ばずにいた。両腕は娘の腰から下を左右から撫でていた。娘の肩越しにこちらに投げた視線は、確かにぼくを捉えていた筈だ。娘の初々しい仕草に、まだ未分化な年齢だったのだ、と思った。それに比してダンガリーの彼女は、明らかに確信犯なのだ。ぼくは無垢な娘を陥れてしまったのだろうか、と僅かに悔いた事を思い出す。

 コインランドリーの乾燥機から長袖のシャツが消え失せたのはその週末だった。彼女と顔を合わせた訳ではなかったが、勿論これは戦利品として持ち去られたのだ、と判った。盗賊の勝利宣言の様だった。

 あれから彼女とは出逢う事が無かった。言葉の通りに二人は相思相愛となったのだろうか、と思い、二人で始めているであろう生活を想像したりもした。モラルなどは問うつもりも無かった。二人が幸福であるならば、どうでもいい事だった。けれどこの日曜になってここに再び現れたシャツの意味は何だろう。


 職場での社風はコンピューターを過信せず、かなりの事を手書きで伝達していた。それはぼくには心地よい事だった。使用済みのコピー用紙を裁断して、別な用途に再利用する。それが思いの他よく環流していて、無駄の無さに喜んでいた。小さな事務仕事は、何だか日々が楽しかった。

 けれど手書きの文字に自分の衰えを直視する事態は、些か切なかった。文章を書くのに、文字を飛ばしてしまう。それどころか漢字を書くのに、線の一画を飛ばしてしまう。紙の上で文字がバランスを崩して転びそうになっている。文字が下手であると思われるのは悲しいが、それすらも甘受せざるを得ない。

 仕事を覚える上で、要領も悪かった。自分の記憶力が頼り無かった。四十代に差し掛かっての転職は、能力としてはかなりの負担がある様だった。けれど仕事を見つけられただけ僥倖と感謝しなければいけない。

 本当はもっと動ける筈だった、本当はもっと理解度が良い筈だった、と思ってしまうのも、意識の上ではまだ若く柔軟なつもりだからなのだ。かつての親の様に若い歌手の顔が見分けられない事など無いつもりだった。

 それなのに写真フィルムのCMに出てくる女優が、時折記憶を混乱させる。あの女優にはよく似た別人がいる様な気がしてならない。あんな顔立ちで年齢もデビューの時期も一緒のタレントがいた筈だと思う。その名前が思い出せないのだが、これは妄想なのだろうか。妄想だから思い出す対象が存在しないのだろうか。実は性格が全く違う役柄のCMでもあったという事なのか。


 どうしてここで暮しているのだろうか。生活には何の不満も無く、日常を満喫している。この土地に生活の基盤を置いている事に、何等疑問すら抱いていない。だからこそ敢えて、自分に問いたい時がある。ぼくはここに居ていいのだろうか。ここでの暮しを足掛かりにして何処かへ、人生を発展させる必要はないのだろうか。けれどこの自問には回答が見えない。今は欲しい物など何ひとつ無いのだ。

 穏やかに笑って過ごせる日常。この辺りに人生の終着点を想定しているのだろうか。学生の頃には自分を危険な男に見せたかった。けれどこの年齢になって、いつか安全な人に見られる事こそを大事にしている。

 仕事の場では、丁寧な対応と優しい言葉遣いを心掛けている。判りやすい人格であると判断される方が、対人関係には良好なのだ。長い社会人生活から学ばされた要領だった。

 けれどその実、これも演技を無意識にしているのだろうか。押さえても閉じてしまうドアにも、あらぬ方向へ転がって行ってしまう掃除機にも、ぼくは優しい言葉を掛けているのだ。


 いつかコインランドリーで拾ったリングは何処へ遣ったろうか。一杯に引いた引き出しを探って、ぼくは目を凝らしていた。脇腹に微かな痛み感じてタンクトップをめくり上げてみた。いつ何で突いたのか短い傷が走り、血が滲んでいた。引き出しから溢れた文房具のどれかの仕業だろう。こいつらはどれも意外に鋭利なものだから。タンクトップを押さえていた手を離した時に気づいた。いつまでも落ちずに困ったシャツの染みの位置は、丁度ここなのだ。

 血の染みが先にあって、四カ月の後にそこに傷を負った。四カ月という期間を彼女は何と説明したのだったか。相手の周期を自分と一致させる為にこの期間を要すると、聞いた筈だ。相手を自分に同調させれば、その欲望すらも操る事が出来るのだ、と言った。周期とは血の周期の事だったのか。

 これも単なるゲームだったのだろうか。少なくともぼくなどは、彼女の出来事にはむしろダシに過ぎないのではないか。裏切られない愛を得られるか、という賭を、実は彼女自身がしていたのではないだろうか。

 そして四カ月目にして、彼女はその賭に敗れた。戻って来たシャツは、敗北の印である白旗なのではないだろうか。

 彼女の使った洗濯機の中にあったリングを、今度こそ返せるのではないか、とぼくは期待していた。だからこそこの深夜、引き出しをかき回しているのだ。


 部屋を出た時には日差しは強く無かった。夜にシフトされているからこそ、慌しくないのが取り柄の出勤時間だった。駅からやや遠い地域だったから、同じアパートの住人は皆、それぞれに自転車を持っていた。ぼくが出る頃には、敷地の隅に並んでいた自転車はどれも主と共に出勤している。

 道程はやがて暗渠の並木道に差し掛かる。今は歩く時間さえもが得難いものに思えている。だからこそ自転車で走り抜けるなどとは勿体ない。葉群の下の道は二度は気温が低い気がした。

 角を曲がると駅に近い地域に至った。照り返しがきついのは、入道雲の下を抜けたからだった。雲の直径は上空での徒歩で、十分に相当するらしい。仕事を牽引し駆け抜けた十年の後に、言いつけられる通りに作業する勤務になった。多少は前後が違っているのかも知れない。けれどこの日常を遠く過ぎた後では、大した問題ではなくなっているだろう。

 中年という年代は、大抵の事の順序を理解しているのだ。すべてが終わった後には記憶の項目をソートして、順当に起きた出来事として記憶を整えてしまう事だろう。そして人生に波乱は無かった、と心安らかにページを閉じるのだ。

 漸く見つけ出したリングは鞄のポケットの奥に収めた。その手前のポケットでは、ボトルに詰めたアイス珈琲が早くも汗をかき始めていた。子供の頃の様な、ざっくりと暑い夏がここにはまだある。            (了)

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