環状航行船

平方和

環状航行船

 郵便物ならば届く筈はなかった。転居先をこまめにばらまく程の気遣いをする生き方はして来なかった。手紙を呉れる様な親しい友も、この東京にいなかった。だからせいぜいが、携帯電話の請求書の宛先を変更をしたのが、僅か乍らの手続きだった。

 アパートの契約を更新した事はなく、転居して来た季節を一度過ごして、次の同じ季節を迎える頃には、もう違う場所を求めている。日常は場に慣れる事を優先しているくせに、街に飽きた、などと勝手な言い分をいつか口にし始めるのだ。

 本当は季節が癖になっているのかも知れない。冬を過ごすと、違う環境に身を置きたくなる習慣になっているのだ。冬が嫌いな訳ではない、それどころか身の置き処もない様な寒い日は、好きなのかも知れない。

 そんな夜に部屋の隅に蹲って、かじかんで動かない意識で過ごすのも悪くない。そんな意識の時には過ごして来た人生の、悔いも怨みもそうは生々しくなく思え、だからこそこれからの生き方にも、僅かながらの希望を持てたりする。暖かい季節になったら、と装飾のある映像を思い浮かべたりも出来る。

 それを重ねた末に、別の街を求めてしまうのだ。東京にはまだ知らない街があるに違いない。そこには彩りも潤いもあるに違いないと。

 携帯電話にはメールIDを設定していない。受け取れるのは会社に置いたパソコンでメールソフトを開いた時だけだ。仕事にはまだ電話が有効で、メールで届く様な用件はどうせいつでもいい様な内容の事ばかりだった。だからメールソフトも頻繁には立ち上げなかった。そこにプライベートな通信が届いていた。


 地下鉄の新しい路線が出来て、通勤圏の選択範囲も変わった。こんな場所からあの駅へ、と経路が繋がったものだから、今の住まいはこの西の街にある。

 最初は会社に電話をした、と彼女のメールは告げていた。その会社とも縁が切れて久しい。社業に熱心なのはいいが、手掛ける方法は何処かで連続性を欠いていた。この事業とその事業の間に、狭いが深い溝があるという事。その危険性に気が付かない経営者だった。経費が掛からない企画段階のうちは、ぼくも思い着くだけの智恵を出した。けれど経営者がゴーサインを出した途端、無用な経費ばかりが嵩み始めた。

 業績が出るまでにはまだ時間が掛かると判り、それがこの小さな会社に支えられるものではない、と判断出来た段階で、ぼくは会社を辞めたのだ。残された同僚達は、個人的な電話をぼくに伝達してくれる程の余裕はない筈だった。

 そんな時、ぼくのメールIDを彼女は思い出したらしい。居処を代えようと仕事を代えるようと、これになら通信も届く。お元気ですか、とメールはありきたりな言葉で始まっていた。

 新設された路線のプラットフォームは、どこもデザインが同じだった。それでも、目的の駅に滑り込む時、ここだと理解して席を立つ。似たデザインにある僅かな差違を、この速度での窓からの様子で捉えているらしい。

 あなたが仕事を代えた事、あそこに住んでいない事、誰に聞いても全てを把握しているひとはいなくて、ちょっと困りました、とメールは告げている。

「自分の話はめったにしない人だったものね」

 今もきっとそうなんでしょう、と言うのだ。女は簡単に、相手の性格を読み切った様な事を言う。ぼくらはそんなに長く付き合いはしなかった筈だ。

 私も仕事を代えました、とメールは続けた。彼女がしていたのは、電話が数台あるだけの小さなワンルームのオフィスで、掛かって来た電話に同じ内容を返答するだけの、どうにも怪しい仕事だった。

 同僚と呼べるものか、同じ仕事をしている仲間は数人いて、誰もが僅かな休憩だけでそこに座り続ける職場だった。彼女は深夜の番を週に幾度も引き受け、時給に僅かな色を付けて貰って、暮していた。

 学生時代からの付き合いという男が、彼女の部屋に転がり込んでいた。男はアルバイトを幾つも代えていた。どれも長くは続かず、結局は彼女の少ない収入で支えてやっている様なものだった。

 どうにも売れそうもない時代遅れのデザインの雑貨を、ぼくの会社が取次ぎ、彼女のオフィスに運び込んだ。机に電話、そして大量の名簿だけがある部屋に、大きな段ボールの箱を積み上げた。実際の商品を目にしたのは初めてだ、と彼女はぼくに話し掛けたのだ。

 確かに品は悪くないんですけどね、とぼくは応えた。でもこんなもん買う人いるんでしょうか。いいのよ、商品は蓋も開かれずに動くだけだから、と彼女は応えた。

 ぼくが名刺を渡し、彼女から幾度か電話を貰う様になって、付き合いが始まった。男と住んでいる、と告白したのは3カ月程後の事だった。刹那の快楽で男と離れられない。そんな暮しを続ける為に、怪しい仕事と知ってあの会社を辞められない。考えの浅い生き方を、子供じみてる、とぼくは言った。

 あの人には出て行って貰いました、とメールは告げていた。仕事も変えました。街の激安洋品店の店員さんです。貯金も始めました。あなたが言っていた3カ月分の生活費に相当する額も溜まりました。子供じみた生き方ではないと思います。

 そしてメールは、一度会ってくれますか、と結ばれていた。男が向こう側にぶら下がっていると判っていても、愛してしまった女だった。面影はいつだって呼び出せる。柔らかな髪を撫でた感触は掌に残っている。今も愛してるかも知れない。けれど二度と会う必要はないと思っている。


 相手先のビルを出て駅までの道のりは、日差しの下に続いていた。それを半分も行かないうちに暑さに負けた。目に付いた珈琲ショップに入った。こんなに暑い日ならば、フローズンを口にしても大丈夫だろう。

 煙草の灰が散るテーブルに着いて、とろけた氷の飲み物を流し込んだ。店内に流れているのはレゲエのオフビートなリズムだった。最初はそれも良かった。緊張を解く遅めのリズムに乗って、涼しい気分になった。

 けれど次の曲もレゲエだった。それが終わってもレゲエだった。どうやら有線放送のレゲエ専門のチャンネルに合わせてあるらしい。緩やかなリズムもこう打ち続くとむしろ煩わしい。せめて五曲に一曲程度にしておいて欲しかった。

 事務職の連中は外へ行く事もなく、冷房が効きすぎて寒ーい、などと贅沢な事を言う。ぼくら営業のしかも下っ端は、どの季節も外に出掛けなくてはならないのだ。天気予報は今日もまた三十数度と気温を告げていた。けれどいくら暑かろうと、予定は決まっていた。のんびり構えている暇は無かった。

 そして漸く午後のこんな時間になって、一見の店で二度と口にしないかも知れない怪しげなラテン系の名前の飲み物を呑んでいるのだ。

 男が帰らないと判っていた夜に、ぼくは彼女をぼくの部屋に招いた。ぼくが食事と酒を用意する間に、彼女がCDプレーヤーにかけたのは、クラシカルに編曲されたビートルズだった。彼女が駅構内の屋台で選んだ。ぼくがテレビをうるさがる事はもう知っていた。

 メロディは端正すぎて、後ろめたい夜には少し違和感があった。ピアノが弾くメロディはまろやか過ぎた。幼い頃に聞さかれたモーツァルトやバッハと同じ路線だった。これが実はロックバンドだったなどと知ったのは、随分後の事だ。

 レノンが残した音に他のメンバーが音を足して新曲が発表された事があった。その時、話題に乗って他の曲もラジオで流れた。学生時代の事だ。幼い頃から耳慣れた優美なメロディが、スケルトンな編成の演奏で歌われ、これがバンドの音楽だと判った。

 音楽を自分で評価出来るようになるまでには、年月が必要だった。音楽を生活の中に活かす時、その効用が重要な要素となる。ぼくらは改めて、音楽を探り、自分にとって重要なものを、ひとつひとつ見つけて来たのだ。

 学友のうちでも生意気だった奴は、ラベルがいい、と言い出した。ぼくはフォーレを見つけ出した。そんな風にしてぼくの中では、ビートルズはモーツァルトと一緒に、骨董品の部類に押しやられていた。

 酔ううちにぼくは、CDをサティに掛け代えた。軽やかでいてどこか不安も煽るメロディだった。彼女の肩を引き寄せ乍ら、音楽に酔わされたと言い訳をすればいい、と思った。端正なだけではない音楽もあるという事、それを彼女は知るべきだった。


 電柱に貼紙があったという。「子犬さしあげます」とあるそのコピー紙には笑っている様な顔の犬の写真がレイアウトされていたという。あの街に住んでいた初夏に、よく見掛けた貼紙だった。飼いたいわぁ、と彼女はそれを見て言ったものだった。

 二年を経て彼女は、かつてのぼくの部屋を訪れてみたらしい。そこには、若い女性が住んでいたという。古くはあったが、汚ない建物ではなかった。ぼくの後に女性が住んでも不思議ではなかった。

 そして、あの街角で今年また同じ貼紙があるのを見つけたというのだ。犬は幾度か仔を産む。偶々同じ様な貼紙を出したという事なのだろうか。それともこれはもっと計画的な事で、産ませ、頒布しているのだろうか。

 そんな街路を一夜の食材と酒の肴を抱えて、ぼくは彼女を連れ帰った。歩道橋から遠望出来る夕暮れの雲の蔭を、彼女は山並みだと言って譲らなかった。こんな街中からじゃ山は見えないよ、と言っても頷かなかった。近郊都市の出身だった彼女には、家路の向うには山並みが必需品だったのだ。

 進学の為に東京に出て、男と出逢ってしまった。学業などやがてはおざなりになり、いつか生活の為に怪しい会社に出入りする様になった。男は就職もままならず、かと言って故郷に戻る事は業腹で、意に添わないアルバイトをし、やがては職を離れる繰り返しだった。二人の暮しは、先に延びるどのような芽も持ってはいなかった。そんな彼女に、ぼくが現れたのだった。

 学生時代の関係をドアの内に閉じこめた様な暮しをして、円環を描く時間に封じ込まれていた彼女は、ぼくの暮しに触れて思う処があったらしい。ビートルズやバブルガムポップの話題は、やがて遠ざける様になった。何かいい本があったら教えて、と彼女は訊ねた。今まで読んでいたのはティーンズノベルばかりだったという。そして、酒を味わう事を覚えて行った。

 目の大きなピンク色のウサギを、携帯電話のストラップに彼女は付けていた。けれどいつか彼女は、それをやめた。妙な取り合わせの服装もしなくなっていた。彼女は自然に、好みを変化させていた。その先にあるものをぼくは察知していた。無軌道な生き方を、彼女はぼくの為に捨てようとしていた。

 彼女が遅番の夜、ぼくは待ち伏せをした。夕暮れに彼女の部屋へ帰って来た男に、ぼくは声を掛けた。彼女の変化に気づいているか。その意味を理解しているか。同じ年齢の男女だったからこそ、男は彼女より幼かった。彼もやはり閉じた円環の中にいた。しかもそれにまだ気づかずにいた。

 それを境にぼくは彼女を遠ざけた。電話を受けなかった。メールも返さなかった。そうして彼女の想いが沈静化するのを待った。会社の雲行きが悪くなったのを汐に、仕事を代わった。更新時期となって住まいも代えた。


 ひとりで生きる男の暮しを彼女は夢想したのだろう。節操のないテレビ番組を見ない。書物に凝り、音楽を添える。酒に節度を持つ。そして、仕事に熱意を持ちつつも、会社に頼ろうとしない。

 そう並べて語れば、確かにそうなってしまう。けれどぼくの内面には、屈折もあって、結果がこうなってしまっているだけなのだ。会社組織に安住してしまって、自分の生き方を円環の中に閉じてしまう事だけはしたくなかった。

 彼女と付き合いを続けて行くと、その構造が変化してしまうと思った。彼女の思う様なクールな生き方を、ぼくが演じて行かなくてはならなくなる様な気がしていたのだ。

 生活を変えた時、ぼく自身も理想とするスタイルを変えた。だからこそ、今になって彼女と逢いたくはなかった。ぼくが巡り逢いたい人は別にいた。そのひとのイメージにこそ添いたかった。

 男と切れ仕事もまともな業種に変えたという。生きる形を整え子供じみた生き方を改めたと。そうまでして欲しいと頼んだ覚えはない。ぼくに合わせろなどとも言った事はない。ぼくをイメージしてるのはもう、君じゃないのだ。


 小さい乍らも会社だった。そこに勤めていたから会社員だった。そこを辞めてみると、この時代だからこそ、新しい仕事にはなかなかありつけなかった。一時はアルバイトをして繋いだ。やがて、かつての仕事相手のつてがあって、職にありつけた。

 そんな製造業のこんな営業職で、とイメージした通りの仕事だった。最初おずおずと仕事を見習い、最近では忙しく立ち働いている。これを仕事にしておきたいという想いが、仕事を呼び込んで来たのだと信じている。そしてそんな信仰ににも似た労働意欲が、これを手放させないのだ。

 収入を安定させた処で、住まいも改めた。そこにアドバイスをくれたひとの存在があった。ぼくの生活が安定したら、と望みを持って呉れているのかも知れない。頻繁に会えるひとではなかったが、その女性が好意を持って呉れているのは判った。今のぼくをイメージしてくれているのは、そのひとなのかも知れなかった。


「早起きするなんて無理なんだ」

と彼女はよく言っていた。ぼくの出勤時間に合わせて起き出した朝に、寝乱れた髪で身体を傾げたまま、視線も合わせずに彼女は言った。早起きなんて違う重力の星へ行くようなもんよ。

 彼女の分もパンを焼き、珈琲も用意してぼくは一人で部屋を出た。けれどその後で彼女がちゃんと目を覚ましていられたかどうかは、怪しかった。彼女の出勤時間は午後からで良かった。きっとそれまでにもう一寝入りしていた事だろう。

 夜更けて帰宅すると皿やカップは一応洗われ、水切り笊に伏せられていた。どの時間かは判らないが、パンは食べた様だった。あの頃ぼく自身は、実は小心な生き方をしていた。仕事など面白い筈も無かったが、それをアフターアワーズの趣味的生活で紛らせていたのだ。だからこそ生活さえ不安定な彼女の、無軌道な生き方に、ぼくは何処かで惹かれていたのだ。


 帰途に見上げると赤い月が出ていた。湿度のある夜空に低く滞空する月は、赤くなるらしい。ストレートのウイスキーを注いだグラスにこんな赤い月を受けて、彼女は言った。先行きも考えず生きて行くあたしの人生は、沈み行く舟のようなもの、と。

 氷山に衝突して沈んだ豪華客船ではなく、喫水線が船縁を上りつめそうな、浮力を失い掛けている舟なのだそうだ。故郷を出て長い距離を漕ぎ続けて来た。航行する程に喫水線は上がって、いつか船首は水中へと傾いているのかも知れない、と彼女は言った。

 夜の遅い時間のニュース番組が始まっていた。扇風機が首を振る度に、音声が噛み砕かれて、言葉を途切れさせた。きつい酒の呑み方をたしなめると、彼女はしとやかに詫びた。そして言い訳をした。眠りの時間のずれた生活は、容易に眠りへとは入り込めなくなっていたのだという。だからつい、お酒の濃度を上げてしまった、と。

 眠りについた彼女の腕や首筋には、引っかき傷がうっすらと見えた。軽い自傷行為らしい。傷をつらね痛みを重ねて、脳内の麻薬成分を引きずり出して眠っていたのだろうか。


 夜の湿度を晴らせないまま、朝になってしまった様だ。空は白く濁っていた。それでも夏は同じ量の光を降らせていたから、辺りは白く乱反射しているかの様だった。気温は既に三十度を上回っている筈だから、涼しい訳などなかった。けれど膚を刺す熱気を感じずにいられるのが、今朝は有り難かった。

 部屋を出て、次の角に至るまでに既に汗ばんでしまった気がした。襟を正し乍ら鼻を利かせた。だが気にする様な体臭もなく、鼻に集中した感度が空回りをするばかりだった。イメージの中で拡大した受容体は、心に大きな空白のスペースを作った。

 夕べはいつまでも眠れず、彼女の小さな仕草や言葉の断片を、幾度も思い返してしまっていた。愛情は今も同じ形である、と認めざるを得なかった。それでも、彼女と再会しようとは思わなかった。誰かのイメージが、人の人生に干渉してその動向を左右してしまうとすれば、彼女をこの方向へ運んだのはぼくかも知れなかった。けれど今のぼくの生き方をイメージし動かしているのは、もう彼女ではない筈だった。

 通勤の地下鉄に乗り込んだ時、ぼくの体内のクロックは少し遅くなっていたらしい。ドアが閉まるまでの時間を僅かに長く感じていた。その隙に、幼少の頃の心理が甦った。電車に乗り込み、ドアが閉じられ、やがて動力系に力が注ぎ込まれて行く感覚を、子供のぼくはスニーカーの足裏で感じ取る事が出来た。

 自分がこれから何処かへ運ばれようとしているという期待感に、胸膨らませたあの瞬間を、ぼくはその時、充分に甦らせていたのだ。          (了)

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