コーラの闇に降る花片

平方和

コーラの闇に降る花片

 メール

 作業を終えると汗ばんでいて、季節はそろそろ販売機の瓶入りコーラが美味しい頃です。またこの二百ミリリットルに満たない量が、絶妙です。もたれる程でないから、呑み切って後を引かない。

 そういえばあの続きだけれど、子供の頃、ぼくはよく遊びの途中で姿を消す気紛れもんだったよ。だからかくれんぼの鬼を置き去りにして、翌日に怒られたもの。

 当時は小さな銀色の弾丸を弾く様に発射するピストルが好きだった。学校の帰り道には、歩きつつ道路標識を狙って撃ったものだった。コツは先に一発撃っておいてそのズレを調整する事。だから子供の時から、射撃は2発目で当てるものと思ってた。

                                  」

 桜の樹が、事務棟と倉庫の間にあった。ガラス瓶入りのコーラの販売機がその脇にある。錆の浮いた表面には幾片かの桜の花が、まだ張り付いていた。この一角は坂の途中にあり、同じ番地であるのに裏の敷地とは高さが違う。崖といってもいい程の壁面に沿って下の隣家へ、盛りには花片が降り注いだろうか。

 文房具とファンシーグッズのメーカーであるからか、この事務所には女性ばかりが勤めていた。その顔ぶれに馴染むに従って、年若い康子はマスコット的に扱われる様になっていた。高い所の物や重い物を任せられる事がままあった。「ヤスベエ」とか「やすし」と呼ぶ人がいて、そんな些事を言いつける度に、自分のか弱さを強調している様に見えた。私は男の子扱いされているんだ、と康子は思った。

 彼女達の様に豊かな体型ではないのは認めざるを得ない。髪は短くしている。でもちょっと茶色も入れてお洒落はしているつもりだった。スカートを穿かないからかもしれないが、それもこんな会社の作業内容を思って、働き易さを考慮しての事だった。春めいた色のスカートだって持っている。休日にはそんな可愛い格好で友人と会ったりもしてるのだ。


 メール

 今日は欠勤です。すいません。こんな日には眠るしか手はない。暢気に寝ているのだと思ってるなら、違うよ。眠りは常に妨げられる。足裏に棘が刺さってる様な痛みがある。けれど起き出して足に目をやっても原因箇所は見えない。

 さっきから正時になる度に、小さな電子音が立つ。デジタル時計の音に違いないのだけれど、でもそれがどこにあるか判らない。隣か階下の音なのだろうか。周波数の高い音は、時として妙に近く生々しく聴こえる事があるものね。テレビで鳴る電話の音に自分の携帯を探した事ってあるでしょ。

 この程度ならば出社しても耐えられたかも知れないとは、午後になって思った事。痛い事はどうしたって避けられはしないのだから、さして差のない二者択一だ。酷いものと少しましなもの。選べるのはいつだってその程度のものなんだから。

 行かなければそれで、謗る人がいるんだろうな。今更どうでもいいよ。ぼくへの評価なんて。気にしたりもしないから、怠け者にしておいて欲しい。

 皮肉屋さんが多いんだ。それだって軽い悪意でしかない。彼女達の悪戯にひっかかってしまった時のあなたの悲しそうな顔。この人はこーゆー表情をするんだと思った。でも大丈夫、憎まれてるんじゃないから。そんなに感情を根から表現しなくてもいいんだよ。男の子扱いなんて変なセクハラだよね。だけど続いて行く悪戯じゃないんだから。

                                  」

 こんなメールが届いた時、からかうばかりではなく、気づかってくれるひともいるんだ、と思った。でも、これはいつの事を言ってるのだろう。年上の事務員さん達は、連日の様に他愛ない悪戯を仕掛けて来る。ちょっと拗ねてみたくなる様な仕打ちも時にはあるが、悪意という程のものは感じられないので、直ぐに忘れてしまう。これもそんな折の事を言ってるのだろう。

 社内には数人に一台づつのパソコンがあった。各々には数字の羅列によるIDが与えられて、ネットワーク上でメールをやり取り出来た。ネットーワークは、繁華街にある直営店舗や別棟の倉庫と結んである。けれど業務上でメールの必要に駆られるのは、営業の一部の人達ばかりだった。この事務所内では、もっぱら他愛のない言葉ばかりが、交わされていた。それはあたかも学生が授業中にメモ用紙の手紙を回す悪戯の様なものだった。

 発信人のIDに見覚えは無かった。まだ知らない社員さんが私を見ているのかな、と康子は思った。発送の為の荷造り作業に、パートさん達が幾人か雇われて倉庫につめていた。そんなひと達のひとり一人までは、まだ良く顔を見知ってはいなかった。


 メール

 ビタミンB2やB6がいいよなんて言ってくれる人がいる。腫れがちょっと目立つ程になってるだろうか。痛みは時折やって来る。同じ様に時折すっかり痛みを忘れられる時間もある。殆どの時間はその中間にいて、仕事から集中力が弛めば、痛みを思い出す。

 病院で奇妙な話を聞いた。待合室で脇に座った人の会話。亡くなった人のペットだった鸚鵡が、飼い主の気配を真似るんだという。咳払いどころか椅子のきしみや、部屋の反響までを再現するらしい。生きたサンプラーという処か。

 帰り道で雨に降られた。本降りになった頃にバスに逃げ込んだ。吊り革に掴まっての帰途、雨に濡れた身体が乾いて来ると、眠くなった。なんだか犬みたいかな。

 眠りだけが確実に身体を治してくれるんだよね。出来ればもう少し眠りを稼ぎたい。完治に必要な眠りの時間というものがあるんだ。何十時間というその時間を連続して摂る事が出来ないから、日毎分割払いを続けざるを得ない。眠りが短かければ、日数が掛かるというのが道理という事かな。

 ビタミンB2とB6勧めてくれたひとは、これ効くんだけど効くと早くきちゃう、と言って笑顔をしかめた。女のひとの身体は動いているんだね。ぼくなどはいつまでもこの傷すら癒えない。動いているとはとても思えないよ。

                                  」

 お昼休みには、半数が大通りのファミリーレストランへ行き、残った連中が会議室などでお弁当を食べた。康子はパンを買って来ていた。敷地内に犬が紛れ込んだ、と誰かが言った。茶色の中型犬を、事務所の窓から見たという。気後れも見せず、軽やかに遣って来て倉庫の方へ向かったらしい。

 坂道を上りつめた場所に門があって、角の土地がこの会社の敷地だった。裏口はないので、犬が迷い込んだとすれば逃げ場は無かった。倉庫の裏にでもいるのかしら、と誰かが言った。


 日中には暑い程の日があるというのに、朝はまだ寒かった。駅までの途中にあるポストは、ビルの植え込みに設置されていた。場所が妙であるだけに、なんだか固定されている様な気がしない。毎日少しづつ向きが違う様な気がして、康子は可笑しな想像をしていた。あのポストは毎夜、管理人さんが仕舞い込み、朝になると出して来るんじゃないかな。

 通りにバターと小麦のいい匂いが漂って来た。週末に新しいパン屋が開店したのだ。横切る通りの僅か先、マンションの一階だ。今まではどんな店があっただろう、康子は思い出せなかった。出勤時間を睨んでの設定だろうか、この時間にはもう店は開いている。康子はここでパンを買って出勤する様になった。

 机に着いて、パソコンを起動した時、思い付いて康子は短いメールを打った。あの誰だか判らないIDに宛ててだった。

「朝の通り道にパン屋が出来て、行き来の時に香りが楽しめます。」


 六月になって出張を指示された。入ったばかりの私がですか、と言うと先輩社員さんはくすくす笑って、実は殆どお使いなのよ、と言った。提携している関西の卸業者に今年の新製品を提示して説明する恒例行事があるらしい。商品見本と資料を送れば済みそうなものだが、誰かを行かせ顔繋ぎをするのが習慣になってしまっているという。それで暇そうな者がそのお役を仰せつかるという訳だ。ついでに美味しいものでも食べてらっしゃい、と先輩は言った。

 勇んでリクルートスタイルで行ってみたら、意外に暑くて困った日々だった。週末の夕方に帰社すると、社員さんたちは早々に帰ってしまっていた。誰もいない事務室でパソコンを開くと、メールが届いていた。

 メール

 そろそろコンビニエンスストアの、冷蔵庫の側にあるパンを手にしたくなる頃だよね。日毎食べてたチーズにケチャップの類のパンではなく、ここ数日はぼくもサンドイッチにしてる。

 でもタマゴのものは体質上避けたい。コロッケとかはちょっとそそられない。だからハムサンドあたりになっちゃう。近頃のハムサンドって、薄いハムを数枚重ねてあって、丁度切片あたりがふっくらしてるんだよね。そこを噛みたいと思うのは当然でしょ。そこを噛んで歯応えを楽しみたい。あなたもそーじゃないですか。

 東京でさえこんな気温の日々だもの、大阪はどうでした。毎日ご馳走されてるわよ、なんてみんな言ってたけど気楽に過ごせましたか。そーであったならいいけど。

                                  」


 やっぱり私は男の子扱いされてるんだ、と思ったのは、主任から肉体労働を指示された時だった。倉庫の裏で雑草が伸び放題になってるから刈って頂戴、と言われた。倉庫のパートさん達に声を掛けると、植木鋏の在処を教えてくれた。ついでに麦藁帽子を貸してくれたひともいた。

 すっかり地方都市の少年になりすまして、裏手に回った。噂の犬がいるかな、と思ってそっと覗いてみたけれど、気配は無かった。隣のテニスコートとの境のフェンスに沿って、元気な夏草が蒼々と伸びていた。

 切るんでいいのかな、とは思ったが、引き抜くには力が要って、一本二本ならともかく、全てを腕力に頼っては敵わないと思った。鋏を抱えた小人の気分になって叢に屈んだ。

 気温は昼から上がっていた。もう夏なのだ。身体が季節に追いついていないうちに曝された暑さは、なんだか目に来る。ひりひりと痛いような気がした。


 メール

 夕べ実は彼が来たんだ。ノックするなり彼は部屋へ入って来た。ぼくはのたうつしかない発作に襲われている時だった。なんとかうめき声だけは抑えて、それでも身体を起こせないまま、部屋の片隅で彼の言葉を聴いていた。彼は怒りを表明しに来たのではなかった。口調はどこか沈んでいた。やがては言い訳の様に彼等の暮しを語り始めた。

 ぼくの態度を悪くとってくれた方が良かったんだ。病に苦悶してるなんて悟って欲しくは無かった。だからぼくは曖昧な受け応えしかしなかった。でも力が入らない身体というのは、悪意すら演じられないんだね。やがて彼は判ったらしい。

 こんな顔色だしね、棚にある薬に目を遣れば簡単に想像はつく事だった。話題は変わってしまった。雇用者の側にいるという立場を思い出したのかも知れない。いつ頃からこんなだ、とか薬は充分か、と訊きだした。

 それでも曖昧な事しか言わないでいると、彼は、

「まるで体調を悪く保とうとしてるみたいじゃないか」

と言って、それを捨て台詞にして出て行った。これはちょっと言われたくない言葉だった。そんな事を彼に言われた事で、妙に腹立たしくなったのは、正直な処、言っておかなくてはならない。

                                  」

 悪戯な夏は日差しのあるうちだけ暴れて、夕暮れには帰ってしまうのだ。夏もまだ幼いのだろうか。夕方からは過ぎる程に涼しくなった。通りに出てバスを待つ間、腕を組んで風を防いでしまった。

 駅からの道には忙しく帰途を辿る人影が続いていた。左右と前後の街灯が幾つもの姿の影を落とし、路面で複雑に重なり合った。低い位置で素早く移動する、そのいちだんと暗い交点に、犬が居るような気がした。


 メール

 眠りに持ち込む事で痛みを全て手懐けた。それ自体が相当にやっかいな作業だった。相討ちに倒れる様に雪崩れ込む眠りだった。だから目覚めは快適ではない。ぼくの覚醒と同時に痛みも意識を取り戻す。掌、肩、背中、臀部、脚。またひとつづつ痛みを意識し、連中を点呼してやらなくてはならない。寡黙にぼくを追い回すぼく自身の分身だ。

 束になって掛かられれば、激痛と言ってもいい程のものだった。それでも出社する。理由づけはシンプルに、月曜日だから、という事でいいだろう。出社すれば、目先が代わって痛みを忘れて居られる。忘れていられれば働く気力も出るというもの。

 そしてぼくは布団をたたみ、顔を洗い、パンなども少し食べて、部屋を出る。外階段から見渡す町内の屋根に降り注ぐ日差しは、もう力を得ている。気温が上がりそうな気配は、皮膚感覚として辛い。

 バスが角を曲がって来る気配ももう覚えた。同じ時間の車内にいる顔ぶれは、座席の配置だけが違っていて、実は同じなのだろうか。坂を下って、それからバスは急な坂を上る。そのあたりがぼくの降りる場所だ。

 脇道へ入って、もう少し徒歩で上る事になる。門を入れば事務室には、既に出社してるあなたの顔が覗ける。通う場所があるという事は、そこでこそ会える人と場所を共有出来るという事なんだよね。

 症状は夏を控えてまた酷くなっている。けれど仕事を優先したい。働きつつなんとか改善して行きたいと思ってるんだ。思えば去年は酷い状況だった。

 望む様な仕事が見つからず、ぼくは夜勤の仕事をした。人の去った職場で、朝までたったひとりで作業をしなければならないというのは、精神的に辛すぎた。でも故郷へ帰るなんて選択肢は、今更なしさ。卒業して五年経た今、どうしても、ひとりで暮してゆける、と実証したい。

 朝に出勤して夕方に帰り、まともな時間に買い物の出来る事の充実感を想像してみて。だからぼくは今、誰かに感謝したい気持ちでいっぱいなんだ。

                                  」

 在庫の確認をして、とひと月に一度、康子は指示された。倉庫の作業についてはパートのひと達が充分に熟達していて、いちいち脇について指示をする必要はなかった。毎日、パートさん達が出勤する頃には、倉庫の片隅のプリンタが伝票を長く打ち出している。それを一件づつ切り放す事から作業は始まる。

 切り放された一片は四枚綴りの伝票で、受注書・発送控・受領書・納品書となっている。パートさん達は、受注書に従って、倉庫から商品を出して来る。商品は三百種類程あるのだが、いずれもポータブルなものばかりだ。梱包用の箱は大中小とあって、そのいずれかで何とか収められる。

 下の二枚の伝票を添えて箱を閉じれば、一件の作業は終わる。後は日に三度来る宅配便業者の為に、入り口近くに荷を積み上げておくだけだ。発送控は纏めて事務所へ回される。これをパソコンに打ち込むのが、康子の仕事だった。

 誤りが無ければ、データ上の在庫は棚の在庫と一致する。けれどこれはひとのやる仕事。商品を取り違える事も無くはない。そこで月に一度、康子がデータと実際の棚を照合する事になる。慣れたひと達の事で、大きな誤りは今まで殆ど無かった。

 倉庫は活気に充ちていた。パートさん達は賑やかに声を掛け乍ら作業を続けていた。手際良く荷を捌くパートさん達の間を擦り抜け乍ら、康子は在庫数を確認して行った。そうし乍ら、ここにあのひともいるのだ、と意識していた。ここのパソコンが発信元なのだ。どこで作業をしているのだろう。パートさん達は大きな棚のそこここにいて、その全ての姿を捉えるのは難しかった。


 メール

 不思議なのは、この年齢になっても時折、小学校の卒業式の夢を見てしまう事なんだ。夢の中の昔の春、良く晴れた朝に、ぼくは早々に目覚める。卒業式は通常の通学時間より遅く始まるので、時間には余裕があった。ゆっくり朝食を摂って尚、まだ周章てる必要は無かった。まだいいわよ、と母親に言われ手持ち無沙汰に座っていると、やがて時計代わりにしていた番組が終わってしまう。そしてそれまでの日々には見た事もなかったワイドショウなどが始まる。

 よそ行きの服を着てぼくは茶の間にいた。妙に余っている時間は、次第に鬱陶しく思えて来る。もう行くよ、とぼくは声を掛けて家を出てしまう。学校までの道を遠回りで行く。角からは友達が出て来る。こいつも習慣に急かされて出掛けてしまった奴なんだ。角を過ぎる度に友人は次々に現われる。いつか五人程になって、ぼくらは学校へ到着してしまう。

 教室に入ってもなかなか担任が姿を現わさない。昨日指示された登校時間はやがて過ぎた。級友は次第に顔ぶれを揃え、お喋りは果てしなく続いている。もう一時間も続いているんじゃないか。

 昨日まで六年続いた統率が、ほんの一日で緩んでしまったのだろうか。ぼくらはこうして放って置かれ続けるのだろうか。規制されない事に不安を感じて、ぼくは窓から蒼い山並みを見つめていた。

 そんな辺りでいつも夢は醒めた。あまりに遠い事なので、これが事実に即しているのかさえ良く判らなくなっている。待たされる事への不満なのか、それとも卒業を拒んでいるのか。これがどんな意味を持つ夢なのか、分析する手掛かりもない。

                                 」

 値切る夢を見た。いつもなら値札の金額に異議を唱える様な活発さはないのだけれど、そこは古道具屋だった。値札は主人の意のままだと思った。なにより康子はそのバッグが欲しかった。それなのに金額は手持ちのお金よりかなり高かった。

 バッグ自体はよくある古びたものだった。けれどその中に、長く探して来たものが入ってる、と康子には判っていた。だからこれを今、買って帰らなければならなかった。けれど交渉が成立する前に、机に額が落ちて目覚めてしまった。

 傍らで先輩が笑っている。照れて珈琲カップを取り、呑む素振りで口許を覆った。それにしても居眠りは、こうして俯いていても後ろに倒れる感覚があるのは何故なのだろう。


 メール

 やたらと多かった発送が終わった後では、事務室には誰もいなかった。随分と遅くなってしまったから当然だよね。ぼくも鍵を返したら、早々に帰るつもりだったんだ。けれどあなたの座席に一瞬のつもりで腰を下ろしたら、足腰が疲労を思い出してしまった。

 過度な疲労はむしろ有難いんだ。痛みを覚えずに深く眠れるかも知れないから。この時にも、僅かに微睡みが兆した。あなたの椅子の温もりに甘えたのを許して欲しい。ぼくは犬なんだ。僅かな温もりだってかぎわけてしまう。

 意識はいつでも回転している。痛み眠気覚醒痛み眠気覚醒。耐え難い痛みをどうにか忘れられると、誘惑の様に眠気が来る。それを振り払うと今度は痛みが戻ってしまう。

 昼食の後、B倉庫へ入り込んで、梱包材に身を横たえる時、妙に深い睡眠が摂れる。それは夜の睡眠とまるで質の違う眠りなのだ。束の間の事なのだけれどあれは本当に困憊の末に陥るシステムダウンなのだろうね。

 帰途のバスで開いた本のページの片隅に、あなたの指紋を見つけた。ハンドクリームを塗った後の指で触ったのでしょう。あなたはこれを冬に読んだという事なのかな。借りてから随分時間が経ってしまってて申し訳ありません。

                                  」

 借りた本のページにハンドクリームの指紋があった、というメールを受けた。誰かに貸した事があったろうか。そういえば机に立てて置いた本が、いつからか見当たらなくなっていた。

 鉛筆を投げ出して、返信のアイコンをクリックした。貸したという覚えはないけれど、まぁよしとしましょ。その事を追求するでなく、

「えんぴつの転がる音は妙に耳にカユイよね。」

とだけ返事をしたためた。


 暑さの盛りの時期には、部屋へ戻って扉を開く時が脅威だ。外気よりももっと温度の高い空気が、部屋には充ちていた。追い立てる様に入って、ふたつの窓を全開にした。それからベッドに身を投げ出した。

 暑さは嫌。なんだか体調が優れない。足指の爪でちりちりと弾ける痛みは何なのだろう。電話が鳴った。録音してある康子の声が応えた。起きて受話器を上げるのも物憂い。留守番電話に任せる事にした。

 相手は何か用件を告げているけれど、明確な言葉としては捉えられなかった。割り込む様に康子の声が、発信音の後にメッセージを、と言う。相手はそれに答えた様だ。また話を続けた。康子の声が相槌を打っている。なんだか話が弾んでいる。ちょっと私も混ぜてよ、と思った時、通話は切れた。誰と誰が話していたのだろう。勿論、一度も受話器は上がらなかった。


暑さの日々は一向に衰えなかった。けれど暦は秋になっていた。どうもこのひとからのメールは誤配じゃないか、とは疑ってはいたけれど、その朝開いたメールで確信した。これには全く思い当たる事が無かった。

 メール

 冬へ向けて早々に、ダイレクトメールの準備ですって。それでシステムが落ちたとか騒いでたのかな。誰ですかコンピュータ罵ってたの。罵ったって解決はしないよ。ぼくはコンピュータ叱りつけ乍ら使う人じゃないからね。

 夕べはうわの空だったかも知れない。すいませんでした。港の夜景は美しかったけど、本当はいたたまれなさを感じてたんだ。自動車は大丈夫、そっと倉庫に戻しておいた。誰にも気づかれはしないよ。

 あなたを泣かせる様な事はしたくない。いつだってぼくはそう思ってるんだ。だからいつか彼が来た時にも、喧嘩を買う様な真似は避けた。ぼくではなく、彼がこの状況を解決すべきだと思っていたんだ。

 けれどどうしたんだろう。あの大阪出張の前夜はオールナイトの映画館に居たんだと、何故あなたは打ち明けなかったの。結果として夕べあなたは、泣いてしまった。だからぼくは横浜へ誘ったんだ。

                                  」

 ずっとそんな疑いは持っていたけれど、出来れば自分へ宛てたメールであって欲しかった。このメールの発信者には心配もさせられていたけれど、励まされていた部分もあった。友人達の居る町を離れ実家を離れてひとりになり、不慣れな暮しを試みていた。その心細さを支えてくれていたのだ。

 けれど初めて判らない話題が出た。横浜。そこへ誘われた事は無かった。


 メール

 うずくまる時の手足は、身体に寄せて丸まるでなく開くでもない位置に置くと、不思議に痛みを忘れられる。絶妙なポジションがあると発見した。

 突然の発作にのたうち、痛まないスタイルで動きを止めている間に、グラスに注いだジンジャーエールはすっかり気が抜けてしまった。表面に付着した水滴のシズル感だけが美味そうに見えて、実体を偽っている。

 昨年の夜勤の仕事からこの春、むりやり昼の仕事に戻った。それが免疫を氾濫させたのだという事は想像がついた。昼間に本来眠っているべき免疫機能を、去年一年掛けて夜に移した。今はまたそれをまた昼に戻さなくてはならないのだ。

 再びの移植が為されないうちは、免疫機能は昼間に働いてしまう。それがこの激しい症状を呼んでいるのだ。十二時間ずれた免疫によるぼくの分身が、ぼくを追って襲い掛かって来ている。

 痛みはいかに激しくとも、実体を持ってはいない。ベータ・エンドルフィンが出て麻痺させてくれる状態とどちらが真実なのだろうか。すべては脳内の幻想なのではないだろうか。

                                  」

 倉庫のパートさんの中に男性はいなかった。倉庫に設置されたパソコンは、時折自動的に納品書を打ち出すばかりで、誰かが管轄している物ではないらしい。メールの発信者は身を潜めている。

 友人と会った帰り、地下鉄のホームにいた。待っていた電車が来る前に、逆に入線してきた車両があった。乗客はなく、全ての灯火が消されている。回送です、お乗りになれません、とアナウンスが響く。

 やがて車両は、次の車両が来る筈の方向へ滑って行った。どこかでぶつかりはしないのだろうか。いやきっと今の車両は本当は存在してないんだ。トンネルの中でふわり、と消えてしまうに違いない。妙な確信を、康子は持った。


 雨の日は寒かった。メールの発信者はしきりに体調の不調を訴えている。それはとても心配なのだけれど、彼が実在している根拠すらなくて、どうにも出来ない。返事のメールを打った。けれどこれは文章にすらなっていなかった。

「雨の道・車が奏でる高周波」

 脇の坂道を過ぎる自動車は、高周波の霧の中から近づいて来て、ひとつかふたつの波を起こして去って行く。その音のうねりにどこか心が和む気がしていた。河の流れに似ているからなのだろうか。雨の日には、見えない河が現出して街を潤すのだろうか。

 定時に仕事を終えて、坂を下ってみた。倉庫のパートさん達も、もう誰も残ってはいなかった。発信者はここを下ってバス停へ出るらしい。もしかしたら、その先あたりを歩いてはいないだろうか。

 緑のある横長なスペースに出た。舗装はしていなくて、処どころに水溜りがある。足許の土の感触から漸く、この場所の状態を知った。それは川を埋設した公園だった。それを理解して、学生時代に持っていた妙な不安感が甦った。

 学生時代を過ごした町にもかつての川を埋設した公園が、帯となって続いていた。公園は分断する車道に途切れつつも、上流まで続いていた。休日にはそこで、ベンチに座って通り行く犬達を見るひとときを過ごした事もあった。右岸から来た犬は左岸にいる主人の許へ行く。その方向に違和感があった。

 あの町に住み着いた入学当初にはまだそこは、公園ではなかった。その公園がかつて小さな流れだったと見知っていればこそ、康子は後々までそこを横切れなかったのだ。埋設はしてあっても、足の下にまだ水は流れている筈だった。それを想うと、自分の立つ位置が水面から数メートル上の中空であるかの様な感覚を持ってしまう。その高さが怖かった。だから公園には常に、かつての岸づたいに入り、岸にあるベンチに座るばかりだった。命綱を握る様に、上流と下流の位置関係は必ず掴んでいた。

 人気のない公園を通りまで抜け乍ら、雨が足許へ吸収されて行く様を想っていた。地下で川は勢いを増しているに違い無かった。水溜りは地盤が緩んではいないだろうか、と想うとうかつに踏めなかった。漸く通りに出てバス停を見たが、そこには誰も居なかった。それは予期出来た事だった。


 倉庫には奥にひとつだけ小部屋がある、と教えられた。B倉庫と言う名が残っているが、既に物置と化して不要な物ばかりが積み重なっているらしい。

 鍵が掛かっている訳でもなく、その扉は簡単に開いた。灯りのスイッチが判らない。遠い窓からのほの灯りに、照らされるばかりだった。

 言われた通りに乱雑な室内に横長な作業台があって、パソコンが一台設置されていた。スクリーンセーバーなのだろうか、暗い画面に時折ピンクの小さなパターンが踊る。脇には旧式のドットプリンターもあった。伝票の用紙が、機械の中で先端をちぎられたままになり、背後に尾を引いていた。

 康子は台の前に膝をついてパソコンのキーに触れた。ハードディスクの起動する音がして、画面に桜のイラストが展がった。それは暗い室内に適度な光量を与えた。何かの気配が背後にあった。暖かいものが左肩に触れたと思った。左肩の感触が消えないうちに、同じ感触が右肩にも止まった。肩を抱かれたと思った。かさり、と小さな音がして感触は消えた。パソコンがスクリーンセイバーの暗い画面に戻ってから康子は振り向いた。誰もいる筈は無かった。

 メール

 ネイティブアメリカンの言葉には4人称があるんだって。それがどういう概念なのか、どう考えても判らない。テレビでは説明をしてくれたのだけれど、到底理解出来なかった。

 この寒い夜にぼくはどうしてB倉庫へ入って行ったのだろう。何かが誘なったとしか言い様がない。窓からの薄灯りの中で、あなたの姿はぼんやりと浮かび上がっていた。あなたは作業台の古いパソコンに向っていた。近づけばあなたの顔は、画面のピンク色が映えて生き生きとして見えた。

 あなたはパソコンに何を打ち込んでいたのですか。今までのどこか落ち込んだ様子とは違って、あの時のあなたは昂揚している様にも見えた。だからぼくは思い切った事をしてしまったのかも知れない。

 倉庫の暗がりで、ぼくはあなたの肩に触れた。触れた肩をぼくは確かに抱いた。尻尾があれば振りたい程に嬉しかった。けれどぼくの言葉は意思を伝えられなかった。それがどうしてなのか判らなかった。

 あなたは微笑んでぼくの腕を振り解いた。そしてB倉庫を出て行った。どう呼びかけてもあなたには聴こえない様だった。だからぼくはそこに立ち竦んでいた。やがてパソコンの画面が暗くなった。振り向くと画面には小さな桜の花片が舞うだけになっていた。弾かれた様にぼくは倉庫を出た。

 門の辺りまで行った。坂を見下ろしても、どこにもあなたの姿は見えなかった。ぼくは何だか悲しくなっていた。言語は先程からモジュールが外れてしまった様だったから、感情をそのままの形で、声に出したくなった。

 ぼくはこの辺りを徘徊してる犬だったのか、と思った。あの時には一番納得できる回答だったんだ。激痛と駆け引きをしてるうちにぼくはきっと妙な幻想を抱いてしまったんだね。

                                  」


 事務室の窓から見上げれば、桜は七分咲きだった。快晴の空を背景色に、白い点が疎と密のコントラストを見せる。密であればそこはピンクにも見える。この点描のバランスを美しいと思う感性には、何か根拠があるのではないだろうか。墨痕のかすれ具合だろうか、銀河の不確かな輪郭だろうか。

「花が咲く頃にはお別れだと、先づ言っておきます。」

というメールを読んで康子は桜の開花を畏れる程になっていた。

 メール

 窓のガラスはうっすらと曇っています。今日は寒いのでしょうか。ぼくはついに入院してしまいました。もうそちらで働く事も出来ません。

 部屋は引き払わざるを得ず、ここに来てホームレスになってしまいました。ついてない人生だと思って来たけど、こんな終わり方をする事になってしまうとはね。花が咲く頃にはお別れだと、先づ言っておきます。死ぬ事になんてまるで畏れがない。それ程長く生きて来た訳でもないのに、どーした事でしょうか。

 あなたはあれから、ぼくと会ってはくれません。ぼくを切り捨てたんだね。大丈夫、あなたの選択は正しい。これを書いてる今はもう許せている。

 B倉庫のパソコンにマクロを組みました。テキストを日付順に発信する簡単なプログラムです。これでぼくのメールが時折届いてたのです。あなたと彼の関係をどうにか修復出来れば、と思っての仕掛けです。ここで打っているテキストも、B倉庫のパソコンへ転送する仕掛けになってます。だからもう暫くは、メールを届けられる筈。あと少し、ぼくのたわ言を聞いてくれますか。

                                  」

 数字しかないIDであればこそ、かつて似たものを使っていたひとがいたのではないか、と推測した。古参の社員さんのパソコンでアドレスブックを開いて貰って、それを確信した。その人のご亭主がまだ在籍していると判った。社員の名簿を見ると、店舗の方に所属している。お話が聞きたいんです、と電話をした。その人は夕方にこちらへ回る、と答えた。


 桜の樹の下で、その人と向き合った。年齢は一回り位上だろうか。長身を麻のスーツに包んだ怖そうな人だった。康子は推測を語った。かつて事務所に彼の奥さんが勤めていたのだろう。

「その春ひとりのバイトが入って、奥さんに近づいた。彼が去ってあなた達は冷えた。そんな事情だったのでしょう」

 ダイレクトな問い掛けに一瞬戸惑った後、彼は端的に答えた。

 その春、会社が雇いたかったのは、単なるパートだった。近所の主婦で良かったんだ。倉庫作業と言っても、うちの商品などは小さな物ばかりだしな。

 あいつはパートの賃金ででも、と言って来た。それなら、と雇う事になった。何につけ男手の方が使える部分が多いからな。

 彼女は結婚前からこちらの事務室に勤めていた。私は店にいて、時折はこちらへも立ち寄った。それまでこちらの女性ばかりの集団の中で、年若い彼女は男役の様な立場にあったらしい。妙なからかい方があったものだ。そこへあいつが入った。それで彼女は女に戻り始めた。その変化を私は聡く捉えているべきだったろうか。日常に多く語られる様になったあいつの噂話を。

 あいつは良く汗を流して働いてくれた。この瓶入りコーラを好んでいた。朝のバスで出勤して来た。夕暮れには、バスの時刻ですので、と明るく退出して行った。定時の仕事を喜んでいたらしい。


 同僚幾人かで集った酒の席だった。あの時私は苛立って、そうなる様に仕向けたんだ。彼女は座を移し、あいつの脇へ座った。それからあいつの手を取って出て行った。私は残された。その夜、彼女は戻らなかった。喧嘩したまま大阪へと出張してしまった。

 出張の終わった筈の夜にも彼女は戻らなかった。だからあいつの処へと尋ねて行った。あの夜は妙だった。カーナビが無い筈の道を道を示して、なかなかあの街へは辿り着けなかった。部屋に彼女は居なかった。あいつは酔ってでもいるかの様に横たわり、そのまま禄に返事もしなかった。

 怒鳴り込んで彼女を連れ戻すつもりが宛てが外れ、勢いを削がれ去るにもきっかけを外し、言い訳の様な事を話すしか無かった。私は語った。

 家庭というものは結局、閉じたサークルになる。二人だけで行動せざるを得なくなり、他者との付き合いは途絶える事になる。ひとというものの行動パターンとして、ひとつがいが生活の為の単位になる。社会というものは、そんな風に最小の単位に因数分解されるんじゃないだろうか。

 マンションの四階の二間という小さな箱に、閉じこもる為に日毎、家路を急ぐ。蓋を閉じれば、それがふたりには世界の全てとなる。だからこそコミュニケーションが必要な筈だった。語る言葉に何であれ反応があるべきだと望むのは贅沢だろうか。しかし彼女はそれを絶やした。

 出し汁と醤油の味付け。それを彼女は極めて貧しい料理だと嘲る。調理法に貧富があるだろうか。味覚に於ける豊かさは、捉え方次第で得られるのではないだろうか。

 貧しさを畏れる者は、その発想故に何処まで行っても満ち足りる事無く、結果は貧しさから逃れられない。本当に楽しんでくれるならと、何処へでも連れて行ってやったのに、何処へ行っても彼女は五分で飽きる女だった。

 そんな細部を拾う様な事ばかり、あいつを前にして何を語ろううとしていたのだろう。今思えば彼女と行き違い続ける生活の追認だった様だ。

 言葉は届いていたのかどうか、あいつただ黙っていた。いつまでも姿勢を変えないあいつは、まるで置き去りにされた様な悲しげな寝姿だった。思わず私は、言ってしまった。

「まるで体調を悪く保とうとしてるみたいじゃないか」


 彼女は家には居着かなくなった。箱の開け方を知ってしまったのだ。どこやらから戻れば、十日程は家で過ごしたが、翌週にはまた何処かへ消えてしまう。それも次第に脚が遠退いている事が判った。最後の置手紙は社内LANのメールだった。

 秋の終わりにあいつは出社しなくなった。おそらく身体を壊したのだろう、と思って周辺を尋ね歩いた。やがて漸く病院を探りあてた。

 彼女の失踪に、もはやあいつは何の関わりも持ってはいなかった。それだからだろうか、病室でまた私は、未練がましい事を語った様だ。人を評価出来る事を見識というべきなのだろうか、などと。

 若い彼女がやがて見識を身につけ得る時を待とうと思っていた。いずれ私を理解してくれるだろうと、まだ期待を持っていた。離れて過ごす日々の中で再び理解を得られる迄に、十年いやせめて五年は掛かるだろうか。

 あいつは力無く笑顔を向けてくれてはいたが、会話にもなっていなかった。私ひとりで語っていたんだ。

 ひとりの女が魅力を失い、やがてまるで輝きを失くすまでを見守ってしまう。私の生き方は何につけそれなのかも知れない。輝きとはパートナーに寄せる関心だ。それが相手を惹きつける力となる。

 私は未だかつて自分から別れを切り出した事はなかった。私から離れる為には、パートナーは自分で退路を確保しなければならない。結婚を破綻させるのは、多大な労力を要する事だったろう。

 そして彼女が去り、あいつが消えて、私だけがここで冬を過ごした。


 あいつが逝った後、行き掛かりから葬儀を取り仕切った。親族に連絡を取り、遺骨を渡した後、ノートパソコンが手許に残った。あいつが病室で使っていたものだった。携帯電話が直結されていた。

 通信ソフトにはオートパイロットが組まれていた。あいつが打ち込んだテキストは、毎日その日の最後にここのサーバーに転送され、ノートパソコンには残らない仕掛けになっていた。だからあのノートパソコンには通信ソフトだけが残されていた。

 そんなに多くの文書がメールとして送られていたとは知らなかった。それらはここのサーバーからダイレクトに彼女のパソコンへ送られる筈だったんだろう。だが、あいつは送り先のIDを書き間違えたのだ。

 IDが存在しないというエラーが返る度にあいつのマクロはリセットされ続けた、そして今年、該当するIDが出現したので、マクロは漸くジョブをこなし始めたという事だ。

「B倉庫の台上のパソコンがサーバーなんだ。ソフトスイッチがいかれてて切れなくなってる。誰かがマクロを仕掛ければ、永遠に繰り返すだろう」

 落ちてきた気の早い桜の花を彼はひと片掴んだ。その手をコーラの販売機に伸ばした。掌からはコインが流れスリットに落ちた。いつの間に変えたのだろうか。縦長のガラス扉を開いて瓶を引き抜いた。片隅に作り付けられている栓抜きで、こぼしもせずに蓋を取った。彼はコーラを煽った。彼の背後を犬が通って行った。門を出て行く後ろ姿に彼は疑問を投げた。

「何処から来たんだ」

 康子は微笑んでいた。噂の犬はやはりここに住み着いていたのだ。おそらくはB倉庫のがらくたの中にでも居心地の良い寝床を作って。


 あの時、犬が通って行かなかったら、康子は感情に溺れていたかも知れなかった。鼻がつんとしていた。あたし泣くのかな、とも思っていた。犬はその時、絶妙のタイミングで現れて過ぎてくれたのだ。

 その夜、ベッドに入って彼の言葉を思い出すうち、なんだか腹立たしい気がして来た。彼の言葉の全てを疑ってみたくなって来た。あの人が死んでるなんて信じられない、違うよ。

 違うよ、矢張りあの人は架空の人物なんだ。発信者は実は受信者なんだ。彼の奥さんが、B倉庫のパソコンから自分のデスクのパソコンへメールを送信したんだ。彼女の行方を探る為、ご亭主がメールの受信箱をいずれ開いて見るだろうと予測して。

 カーナビが場所を示せなかった隠れ家のアパートで、身じろぎもせず横たわっていたのは、あの人のふりをした彼女だったんじゃないのかな。マニッシュな人だったって言ってはいなかったろうか。本当は男なんていなかった。けれどご亭主を納得させる為に、それを作り上げたんだ。

 倉庫のスタッフに男性がいたのか。前年の事だと判ってみれば、それを確かめるのは簡単な事だった。明日、倉庫で勤めの長い誰かに訊いてみればいいじゃない。そこまで考えて思考能力が限界に来たらしい。テレビの電源が外れたかの様に康子は、眠りに落ちた。

 メール

 春の始まりの光は病室のカーテンさえ押し退けて入りこんだ。見上げれば雲さえ光る様な日に、桜は満開となった。

 ここでは老人を中心に社会が形成されている。今日も奇妙な話を聞いたよ。ここを退院したばかりのヨレヨレの老人が、同じくここを退院したばかりの老人に会いに行ったんですって。それ自体が命取りになる様な無茶な行為だよ。

 ふたりを結んでいたのは、この命をやり取りする空間だった。ここを出るのは危機を脱したという事で、喜んで良さそうなものだった。けれど、それは他方でふたりを遠く引き離す事になったんだ。この話に何か教訓がある訳ではない。おそらくこれは最後の邂逅を意識したというだけの事。


 ぼくと彼のその後の事は知る由もないよね。彼が病院をさぐり当ててやって来た。勿論、雇用者の側の立場を代表しての事だったんだろうね。パンばかり食べてたぼくを思い出してか、餡パンなど手みやげにしてた。

 語る事などたいして無かったよ。一緒にぼんやりとして窓の外に咲き揃った桜の花を見ていた。そして静かに帰って行った。

 あなたには一言だけ謝りたい。ぼくはせめて去る前に、ひとの温みをむさぼりたかったんだ。ごめんなさい。今ではもうそれも必要ともせず、ただあなたの幸せをこそ想っている。

 彼が置いて行った餡パンを口に運んだ。甘味は口の中でゆっくりと酸味やまろ味へと分解して行った。あたかも早回しになった意識の下で、どこも痛くなくて、素直に眠れるという当たり前な事を望んでいた。

                                  」

 信じなくてはならないらしい。発信者はもういない。マクロのプログラムのミスで去年の晩春から、メールが届き始めたにすぎないのだ。

 からくりは全て理解した。けれど理性は納得してはいなかった。せめてもう一通、メールが欲しかった。康子の中ではその人は確かに存在したのだ。慰めても貰った。電話を受けたかも知れなかった。そして確かにあの時、肩に触れた筈なのだ。

 サーバーにはもうデータが残ってはいないのだろうか。康子の知識ではサーバーを直接いじってそれを探る事は出来なかった。康子は祈る様な気持ちでメールを待った。だが通信ソフトは意地悪に沈黙を守った。

 新しい週の始まりの日は心地よい晴天だった。康子は出勤して先づ水事場で珈琲を入れ、席に運んだ。それを手許に置いてパソコンを起動した。通信ソフトを起動しても、目は逸らしていた。もう期待を持たない事にしていた。書類から目を上げると、ダイアローグボックスが出ていた。受信メールがあります。康子は夢中でクリックした。

 メール

小学生の時、級友の転校は一大事だった。二度と会えない様な気がして、おろおろしたものだった。でもそんな引越しが住所を聞けば同じ県内だったりした。土地勘の無かった幼年時代には、それはまるで遥かに隔たる気がしたものだけれど、思えば県内ならば何処でも一時間もあれば行けるんだよね。

 幼年時代の別離は、相手を届かない場所へ自分で追い遣っていた行為だった様な気がする。そうは思わないか。

                                  」

 今年も倉庫の脇の桜は、コーラの販売機に花片を振り撒いている。    (了)

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コーラの闇に降る花片 平方和 @Horas21presents

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