閉じない円周
平方和
閉じない円周
明るさからすれば充分な時間の筈だが、戸惑ってしまったのはこの静けさだった。枕許を手探りし、腕時計を取った。時刻は十時になろうとしていた。辺りには僅かな風の音。そして遥か遠くで水の流れる音がするばかりだった。
侘びしい宿の部屋で、敷布団に横たわっている。夜分に腹に掛けていたタオルケットさえ、脇に取り除けてしまっていた。瞼の裏にどんな風景も描けないこの静けさは、淋しさを実感させる罰なのか、と思った。
昨日は昼頃の列車で東京を出た。三時を回る頃にはこの故郷の町の駅を出ていた。どの様な特徴も持たない山間の地だ。駅の周辺にだけほどほどの繁華街がある他は、どの方向にも麓まで田園風景が続く。揃えて建てたのかと思える程の個性のない新しい家屋と、埃っぽい耕作地が共存している。せせこましくない事が、取り柄と言えるだろうか。
帰らなくなって何年だろう。あてどなく歩いた街並みには、戸惑う程の変化はなかった。向こうの辻で、豆腐屋がラッパを鳴らして通っていた。寺の鐘の音が遠く聴こえた。まるで幼い日々が、そのままにここに押し込められているかの様でもあった。
ぼくの家族はもうここにはいなかった。隣近所の人々も世代が変わってしまっている筈だ。知己は残っていない。これが帰郷であるにも拘わらず、旅の感覚しかないのは、仕方のない事だった。
果樹園の脇を抜ける通り沿いに、点々と家屋が建ち、そのうちの幾つかだけが商店だった。通り掛かりの、洒落た外装を真新しく施した店は、化粧品店だった。どこでも見掛ける女優のポスターが、ウインドウ硝子に貼られていた。近づけばその顔に落書きがあるのが判った。太いフェルトペンで書かれた線は、髭や、まして鼻毛ではなかった。敢えて何故、涙などを書き加えたのだろうか。そこに嗅ぎ取れる悲しみに、思い至ってしまった。
見とれて立ち止まったぼくの脇を、駒下駄の足音が過ぎった。近所の子供が出掛けて行くらしい。こんな暑い日の午後、買い物に出るのに駒下駄を履いていた妻を思い出した。薄手のワンピースに庇のある帽子を揃えて、何故足許だけ駒下駄で納得が行くのか、訝しかったものだ。
行くあてを失くして、とうとう故郷へ辿り着いてしまった。戻ったとてもここにどんな係累さえいなかった。これは停滞なのか。ぼくの運は尽きたのか。想いはまた自分自身の境遇へと帰っていた。ぼくは自分の選べる筈だった道をひとつづつ潰しているのだろうか。
このひと月ほど、ぼくは住まいを出ていた。マンションと名乗ってはいてもどこかビジネスホテルを思わせる施設に落ち延び、月極め契約の最初の更新をした処だった。けれど後にした筈の家庭にも時折は帰っていた。
先週帰った時には驟雨に遭った。住まいのある街の見知った商店街の片隅の、ビルの入り口でぼくは雨宿りしていた。家出人の生活は、傘にさえ不自由していた。それはぼくの三十六歳の誕生日だった。この数年、誕生日に限って禄な事はなかった。一年で最もついてない日なのだ、と考え方を改めるべきなのかも知れなかった。
小止みになった時を見計らって部屋へ向かった。ドアを開くと妻は不機嫌な声で、ホテルじゃないんだからね、と釘を差した。ひとしきり叱言を言えば妻には、その後で鼻歌なども出た。怒りたかったという事ならば、それでもいいと思った。
ぼくとしてはもう、その頃には怒る気も無くしていた。優しい想いを抱き合えればこそ、関係を戻せる道も探せるのではないか、と時折この帰宅を試みていたのだ。
果物屋で紅い切り口を見せる西瓜を選ぶ時、種の多いものをぼくが選ぼうとすると、妻がそれを拒んだ。種が多い程甘いのだ、とぼくは信じていた。それが妻には理解されない。どうして、と問いつめられれば、ぼくにしても根拠など無かった。遠い記憶を辿れば児童書で読んだトム・ソーヤーあたりの印象かも知れなかった。
西瓜にどんな効果があるの、胡瓜にはどんな効能があるの、と訊ねられた事もあったのを、この宿の食卓に並んだ胡瓜を見て思い出した。夕食の膳には素朴な料理ばかりが並んでいた。それに心が和んだ。味噌だけを添えられた胡瓜を口にすると、瑞々しい歯触りがあった。その水分にこそ味があった。
寂れた町の宿では夜が更けて闇が濃くなる程に、淋しさが増した。息づく淋しさを仕止める手段はない。傷めた心を静めるには、眠ってしまう他に手だては無かった。妻はそれを許さなかった。どんな時間帯でも、どんな状況でもぼくが眠る事を許せなかった。
この春までぼくは、忙しい仕事に追われていた。徹夜も日を措かずあって、休日といえど疲れは癒えなかった。しかし妻は、昼の時間にぼくが眠っている事を憤った。生活のリズムが崩れて夜分に眠れずにいる事を怒った。並べて延べる寝床は、息の詰まる場所になっていた。
寝床こそは、最も居心地の良い場所にするべきなのだ。それこそが幸せである筈だ。それなのに、ぼく達の家庭では安らげる場所の概念を、共有する事が出来なかった。
眠るという事がいつか重荷になっていた。眠りの冒頭に、立ち塞がるものが出来た。ぼくは夜毎それを、押し開いて進まなければならなかった。扉とも巨大な表紙とも取れるそれに、小さな存在であるぼくが挑んだ。それを動かし得た時ぼくは、漸く安堵に包まれて消え入る様に眠った。
眠りに入ると、閉じた瞼の裏で深みのある色彩を感じた。その色には何故か奥行きがある。色彩感と立体感が同時に感じられる色だった。その立体感は、眠っている部屋を遥かに上回る広大な空間に繋がっていた。
薬物による幻覚を得た者が誰しも、空を飛べる、という自覚を持つという。幻覚の中なのだから何が出来る様になっても良さそうなものだが、それが飛ぶ事に直結するのは何故なのだろう。
元々ヒトに与えられなかった技術であるという事を、我々は誰もがどこかで、コンプレックスとして意識しているのだろうか。そして万物の霊長たる不遜な自負として、何かのスイッチさえ入れれば、それが出来ると思いたいのだろうか。空間の夢は、位相を変えれば飛翔の夢と採れない事もない。
田舎の人達にしてみればあまりに遅い目覚めに呆れられながら、朝食を出して貰った。この静かすぎる朝に見た奇妙な夢は、断片が記憶に残っていた。夢の中では母が、嬰児を抱いていた。それは妹が生まれた頃の情景だった。生まれた子は人魚だから、身体が脆いのではないか、と母は心配していた。これはもう奔放な夢の発想だろう。
病弱どころか健康に妹は育った。年頃になり化粧をしても、男の子に見えてしまった。それが何処から印象させるのかは、定かではなかったが。
父を亡くし、ぼくが上京した後の家を、妹が働いて支えた。母が亡くなった後は、結婚し亭主と共にこの家で暮したが、程なく亭主の栄転で離れざるを得なくなった。そして我が実家は、住む者もなく閉ざされたままとなった。
日差しの下で木陰を作っているのは小さな神社だった。乾ききって罅の入った鳥居をくぐり、足を踏み入れた。辺りを囲う葉の厚い樹木の他は、小さな社だけの場所だった。幼女がひとりで遊んでいた。幹を縫って駆けていた。
その様を見て、幼少の頃を思い出した。ここはもっと広い場所だったという記憶が甦った。けれど絶対的な面積に変わりはない筈だった。
幼いぼくと中年に差し掛かったぼくは、空間の平面的な位相に於いては同じ場所に立っているのかも知れない。けれどそれはぴったりと重なり合いはしないのだ。螺旋の様なものを思い浮かべた。
円を描いて立ち戻ってみても、開始点には帰れないのだ。十数年という時間が積み重なって、足許の位置を変えてしまっている。ここを離れてからの年月、ぼくは迷い続けて来た。ぼくはいわば螺旋を描く放浪者だった。
この年齢にして情けなくも迷っているのだろうか、それともこの年齢だからこそ迷っているのだろうか。生き方はいつか硬直していた。潤滑油たるものが無くなってしまったからだった。それを愛と言うのだろうか。
逃れて今の境遇に至っているというのに、実はぼくは隷属したがっているんじゃないか、という被虐的な発想も浮かぶ。たまに帰る家で、夕食の支度などを率先してやろうと思う。ぼくがしてやらなくては、と考えてしまう。
家庭の実権は、作る者が握れるという事をいつかどこかで体感していたのだ。するとそれは、妻とぼくとの間でまだ暗闘が続いているという事の表れだったのだろうか。ぼく達はシンクの前を争う様にして、食事の支度をした。
押し黙ったままの夕食の後、珈琲を呑んだ。どういう訳か、砂糖の量の見当を違えた。僅かに多めに砂糖を入れたのだろうか、その時の珈琲は香り方が違っていた。程良く香りを立てる効用をする、砂糖の量というものがあるらしい、と思った。
こうして次第に忘れて行くのだ、とその時思った。わずかひと月にして、この有り様だった。砂糖の入れ方、石鹸の使い方、いやテレビの見方の時間配分さえ、住む場所に因って違っている。ひとつの行動に対して、記憶の棚はひとつづつしかないのだ。違う場所で暮らせば、ここでの習慣は忘れるしかないのだろう。
木の間隠れに境内を駆け回る幼女は、実はひとりで隠れん坊をしているのだ、と気づいた。しかしどうしてそれが成り立つのか、理解できなかった。仮想の鬼がいるのだろうか。それをぼくに擬している様には思えなかった。
彼女を捜す鬼がいないとすれば、少女はどの方向からの視線を避けているのだろうか。同じ境内にいても、彼女にはここは広大な空間に見えているのだろう。ぼくには隠れているとも見えない幹の陰さえ、彼女には充分な奥行きを持っているに違いない。
それはぼくが眠りの中で見る色彩の感覚だと、思い至った。子供の目は、取り込める光線の量に差があるのではないか。この場の光線の量が一定であるとすれば、ぼくが取り込んでいる程の光線の量は、彼女にとっては過大である筈だ。しかし子供の感覚がそれを受容できるのだとすれば、そこに拡がる空間の感覚はかなり違うものとなるに違いない。
受容して余剰の部分。妻と言い争う事になる原因は、いつでも反論しか返されないという事だった。胡瓜は血圧を安定させる効能があって、と言えば健康な者が食べる理由はない、と言い、西瓜には利尿作用があってね、と言えばそれを期待して食べるの、と言う。会話は常に、そんな逆説に終始した。
反論だけを受け止め続けて来た生活は、ざらついた感覚ばかりを残した。けれど視野を妻の後ろまで拡げて見れば、この反論の基底ではぼくの論旨をしっかりと踏んでいるのが今にして判った。
ホテルじゃない、という表現からは、既にぼくの居場所を別の場所と規定しているのが判る。それはつまり、この家との繋がりを断ちたいという、ぼくの意思を汲んでいるという事なのだ。
既に遅いかも知れないけれど、今にして判った。それは判ってはいけない事なのかも知れなかった。僅かでも可能性が残っていれば、と希望を繋いでいたのはぼくの方だった筈だ。
気弱な想像力は、まるで化学の実験の様に、原因があっての結果としてこんな解析をする。人の心理もまた原因による結果と、必ず解き得るのだろうか。こんな深い孤独感さえも、理詰めに出来るのだろうか。
簡素に過ぎるワンルームのベッドで、昼前の時刻に起きる。そしてそれから、何処へも行く理由がなかった。既にもう居場所はないのだ。その空虚さに耐える事が出来なかった。
ホテルと違ってここには小さなキッチンもあった。けれど食器も禄に揃っていないこの部屋で、調理までしようという気にはなれなかった。家庭でぼくは好んで料理を作った。その楽しさをここでは得られそうもなかった。だから食事は近辺の大衆食堂に頼っていた。
進学の為、ぼくが上京する事になった頃、母は既に病を得ていた。出掛ける朝に母は、ものをたべてたっしゃでな、とだけ言った。故郷を出たのは、勿論、自分には父より可能性がある、と信じたからだった筈だ。
さして窮する事もなく決まった職場で、のうのうと過ごした十三年の歳月。その間に結婚生活も始めたのだ。しかしこの会社の事業の進め方の甘さは、覿面に業績に響いた。結局、辞職を勧告された。会社が傾けば仕方のない事だった。
春にはまだ過酷に働いていた。それは生活のリズムを崩す程だった。そして出社する先を失った時、ぼくは睡眠異常に苦しんでいた。ぼくの眠る姿に憤っていた妻はその実、生活の不安を見据えていたのか。けれどぼくらは判り合えなかった。
排斥される睡眠は、神経を苛んだのだろうか。ぼくは気持ち良くは眠れなくなってしまった。どこかに棘が刺さっている様に、寝入り端にはいつも嫌な手応えがあった。眠りに入り難ければ、夢見も良くはない筈だ。
眠れる場所を探して、ぼくはやがて家庭を飛び出した。しかしそれは目覚めている時間に、辛さをもたらした。安らげる場所を失くして、憔悴したぼくの脳裏に、忘れていた故郷が浮かんだ。
長年、鞄を右肩で担いでいた。妙な肩こりになって気づくと、背筋が湾曲してしまっていた。そこでぼくは意識して鞄を左肩で担ぐ様になった。けれどそれも長い歳月続けると、また妙な湾曲に繋がった。ぼくは十数年ぶりでまた鞄を右肩で担ぐ様になった。
ゆるやかに老いて行く筋道に於いて、それもまたひとつの螺旋だった。今この時期も、もうひとつ上の螺旋で回帰すれば、苦しみすら懐かしく甘やかに思い出せるのだろうか。
けれど戻れないという点から見るなら、それはもうどの様な意味でも修復にはならない。どの周期かは伺い知れない事だが、やがて螺旋の輪の中で位置的に戻って来た時、それは実は別れの時なのだ、と覚悟するしか無かった。
夏になってしまう事を嫌悪していた。この境遇であの鬱陶しい季節をどう過ごそうか、と塞いだ気分になっていた。しかしいざ夏になってみれば、それは暑さに対して抱いた感覚ではないのだ、と知った。耐えられなかったのは眼底を差す様な日差しだったのだ。
鍵束の中で最も古いものを使ってドアを開いた。暑さの篭もる暗い部屋を古い勘を頼りに進み、雨戸を開いた。鮮明過ぎる日差しが、強引に分け入って来た。一階、二階と手当たり次第に窓を開いて行った。室内に次第に風が渡り始めた。
妹が去ってから水道も電気も止めてある。懐しい我が家は、休眠していた。ぼくは汗を流し乍ら携帯の電話を取り出した。実家に来てるんだ、と言うと、
「兄さん何してるん」
と妹は応えた。どうしてそんな気になったの、と妹は訊く。夏休みだから、などとぼくは曖昧な答えをした。それから暫し、消息の応答が続いた。別居までは、正直に告げなかった。
「窓開けて空気入れ換えといて」
と言って妹は通話を切った。
山に向い合う縁側を開け放して座った。風が降りて来た。青空には雲ひとつ無かった。日差しに濁りはないというにの、どこか光量が足りない気がした。腕の時計を見て理解した。明るくても、もう五時半になっていた。つまりこれは昼に降り注ぐべきだった光量の、余剰なのだ。
この季節ならばこそあと二時間程はまだ、日差しは力を残している。まだ荷が残っていて、引き退れないのだ。その辻褄合わせをしなければならなかった。だから空は青すぎて暗い程だった。いっそ曇ってでもいた方が、色調からすれば明るいとさえ言えた。
ぼくらは一体どうすればいいのだろう、と呟いていた。故郷の空気の中で視野が拡がって、成り行きは見渡せてしまった様だ。曲線で構成される螺旋には、停滞できる場所はない。定まってしまった事を留める術もないだろう。
このままなし崩しに、事を終えてしまわざるを得ないのだろうか。互いに納得して落ち着ける合意点はないのだろうか。強い流れに抗う事の、困難さを思った。
懐かしい場所に座るうちにやがて故郷の時間の流れの、波に乗る感覚を取り戻していた。この場所も程なく、夕暮れに包まれる事が判っていた。
承
この夏は地軸がずれてしまったとしか思えない。なんと九州の上空で台風が発生したという。熱帯低気圧が台風に昇格した時には、もう九州に上陸していました、と天気予報は告げた。
日本など狭いもので九州に台風があれば、この関東でも雨に見舞われる。呆れるほどの威力を持って落ちる雨に、いかに蒸し暑かろうとこの日は窓を閉ざす他なかった。微調整の利かない冷房を朝からつけ、痺れる程に冷える風に曝されて、ぼくはまたベッドに転がっていた。
何処へ行くあてもないという身分は、こんな特殊な日には都合が良かった。新しい仕事は未だ見つからない。ぼくはこの週単位で契約するマンションという、仮の宿に足止めされていた。天気予報を目当てにテレビを時折つけた。この不自由な天候の中で、出勤の足を取られている人々が映し出されていた。
地震が苦手な妻は、けれど台風には連続活劇を見るかの様な興味を寄せる。ぼくが後にした部屋で昨夜も、終夜流される天気予報を点け、刻々と告げられる暴風雨の状況を楽しんでいたに違いない。
窓を叩いた風雨の音に、微睡みを断ち切られた。夢の中では窓辺に立つ男が、
「この空を失くしちまったら、今度は買って来て飾らなくては」
と呟いていた。彼は窓枠を外し何処かへ運び去る様子だった。窓枠と共に、覗ける風景もそのまま小脇に抱え込まれた。窓を外した場所はただの白い壁になった。
また眠りから弾き出された。段差のある道を過ぎる車輪の様な、何がしかの小さな衝撃で、一夜のうちに幾度も眠りから振り落とされた。夢の領域の先に深い眠りがある筈だったのに。眠れる寸前の意識を引き戻されるのは、痛みに似た感覚がする。意識のレベルの作用であるというのに、心臓は早鐘を打っていた。
この処、眠れない夜が続いていた。こうもうまく眠れないのは、眠る方法が根本から違うのじゃないか。人と違う事をしてる為じゃないか、という疑いすら兆す。眠りの為にするべき事をしていないのか。してはいけない事をしているのか。
何時からか、なるべく正しい姿勢で寝ようと心掛ける様になっていた。身体を真っ直ぐに伸ばす事。両手を脇に置く事。それが身体から全ての力を抜いた状態になれる方法ではないか、と思っていた。
けれど、こうも眠りについて悩むと、信じて来た方法すら疑ってしまう。昨夜は、首が凝っても構わないから、と身体を曲げてもみたりした。涙が出たのは、莫迦げた苦しみからではなく、横になった頭部の水分の移動だったのだろう。その時何故か、鼻の奥の粘膜を刺激された気がした。どこか懐かしい匂いがした。涙が出る時には、匂いも伴うのだろうかと思った。
ヘッドボードに置いたミントのキャンディを、またひとつ取って口に入れた。幾つも続けて舐めているので、舌は既に冷たく焼けていた。氷を沢山入れ良く冷やした水には、味覚に捉えられない味がある。それは甘さでも酸味でもなく塩辛さでもない。冷たさそのものの味、としか言いようのないものが存在するのではないか。
ミントが溶け去り後味が消えると、また吐き気が戻った。薬の副作用によって間断ない苦みが口にあり、時折の吐き気があった。この処、またアレルギーが激しくなり、人目をはばかる程の赤味が膚のあちらこちらに出ていた。だから抗アレルギー剤を多用していた。規定の時間より早く、従って数を多く飲み継いでいた。
仕方のない事だった。どちらの苦しみを取るかといえば、薬を飲んでおいて副作用をごまかす方を選択せざるを得ない。それにしても何故、体質に関わる薬が味覚を冒すのか。
先日行った病院では、体質改善薬の注射を、自ら望んだ。けれどこの年齢まで抱えて来てしまった体質がそうも易々と変わるものだろうか。実の処、甚だ怪しんでもいる。
準備をしていた看護婦が、自分の指に絆創膏を周章てて貼っているのが見えた。指に針を刺してしまったらしい。小さな事故ではあるが、なるほどそんな事は侭あるのだな、と思った。ぼくという患者の為の負傷で、申し訳なくも思った。
アレルギーは、身体の何処にもいない敵を攻撃する事で起きる。無益な戦いとしか言いようがない。体調を崩すのもぼく自身なのだ。しかしこれがぼくらの家庭と、どこか似ているかも知れない、と思った。体質ならば変えられない、というあたりに引掛かる。
ほんの僅かでも相手を忖度出来れば、ぼくを家出という立場に追い込む事も無かった筈なのだ。妻は自分ではそうと意識してはいないだろうが、相当に強情と言えた。
何時ぞやのテレビ番組で、遺伝子は性格さえ決定する、と解説していたらしい。それを妻は、得意気に声高に絵解きして呉れた。四つの記号の繰り返しが、それを決める。そんな医学の情報さえ援用して、妻は怠惰を決め込むのだ。だから持って生まれた性格は変えられないのだ、と。
昼を回り雨が降り止んだ様なので、残る強風を押して買い物に出た。通りの真ん中の中空に、妙な物の陰があった。まるで首吊りででもあるかの様に、ワンピースが一枚ひらめいている。ハンガーに掛けて干してあったものが、どういう加減か道を横切る電線の中央に引掛かってしまったらしい。
台風は日本海へ出ると速度を増して、北海道を目指している。台風に引き寄せられて南から強い風が押し寄せて来ていた。雨が治まっても、頭の上は重い雲に覆われている。けれど午後に向けて気温は上がっていた。日差しとは関わりのない熱気だった。
容赦のない暑さの続く先週、また部屋へ帰った。思えば結婚生活の五年の日々に、日毎足を運んだ帰路なのだ。そこへ足を向けない事は、いつまでも帰らないのと同じで、落ち着けなかった。一日が終われない感覚だった。
地下鉄の駅を出て、団地を抜ける。中央の公園には遊び呆ける子供達がいて、買い物に出る人達と飼い犬を散歩させる人達が行き交っていた。そのいずれもが、家族の道を誤らない人々だった。
陥穽は直ぐ脇にあるのだと、気づくひともいないだろう。ひと度、悲しむ事を知ってしまったら、もう目を逸らせられない。肩を叩いてそれを教えてやり、誰彼構わず不幸に引きずり込んでやろうか、と不謹慎な衝動に駆られた。
コンビニエンスストアの脇の道は、春には桜で飾られる。満開の頃、道沿いの会社はフェンスの扉を開き、老人達を招待する。次の角の家の二階の窓辺にいる室内犬は、よく吠える。通りを散歩の犬が来る度、頭上から吠え掛かる。室内犬は、よくも通りを行く犬を認識出来るものだ。
出張所の脇を抜けると横断歩道でいつも待たされる。向いには救急病院がある。深夜に、サイレンの音が吸い込まれて行くのはここだ。路地の角には縫製の作業所がある。表札を見るとその名が秦氏で、先祖のゆかりを想わせる。その先の路地を入ると、部屋はもう目前だ。
まるで扉を開く事が、スイッチと連動してでもいるかの様だった。ひと月前にこの場所で、妻の曇った表情を背にして扉を閉じた。あの時、室内ではブレーカーが落ち、全ての家庭電化製品が停まり、そして妻もまたあの表情のまま動きを停めていたのではないだろうか。
扉を開くと妻はまた、眉間に皺を寄せて立っていた。この室内では時が移ってはいないのだ。同じ表情の再現だった。迷惑である、と思う事は即ちもう、ここにぼくが居ない事を容認している、という事だった。ひとりきりの毎日に、きっとぼくに対する文句を、あれこれと思い浮かべて暮しているのだろう。
帰宅である筈なのに、ぼくは他所ものの言葉を使わなくてはならなかった。泊めて欲しい、と言った。妻は不機嫌に肯った。その代わり朝ちゃんと起きてよ、と言い添えた。
妻は在宅の事務仕事をしていた。それに掛かっている時には、食事の支度さえ面倒がった。ぼくは、それを厭うものではないから、こんな時には進んで炊事を引き受けた。
その日、夕暮れにもまだ暑熱は残っていた。夕食の買い物に出て、影の伸びる商店街を往き乍らぼくは、目眩さえ感じていた。緩い振動が地面から伝わっているかの様で、足許が浮いているのかと思った。あるいは、ぼくを乗せた巨大なものがどこかへ走っているのか、とも想像された。
それは、眼鏡を部屋に置いたまま出て来てしまったからかも知れなかった。滲んだ視野には光線が瀰漫していた。夕暮れの日差しは地表にまで降りて来ていたのだ。
妻というひとは、余裕がないのだ、と思った。だからこんな時、他の事を何も出来なくなってしまう。時間についても、あるいは空間的なものの処理にしても。買い物する時間がない、と言ってはいても、作業の手を停め何をするでもなく過ごしている時間はあるのだ。考える必要のない作業の部分で仕事に集中し、思考を必要とする時にはデスクを離れればいい様なものではないか。
誰もが日差しに疲れていた。交差点の信号が青になっても、ぼくを含めてそこに立った人の全てが気づかずにいた。青信号が点滅を始めて漸く、歩む事を思い出したかの様だった。十六時を回れば、暴れる日差しも疲れて大人しくなるだろうか、と思った。
横切る路地からボールが転がり出て、道を横切って行った。ボール自身が遊んでいるかの様だ。視野を下げれば道端に置かれた鉢植えの低い木陰に、子猫が身を潜めていた。ヘリコプターの音が高空でした。その無遠慮な音に、何故か長閑さを感じてしまった。
ヘリコプターが頭上を横切って行く時にはいつも、晴れた午後の情景を想い浮かべてしまう。情景の遠くには高い鉄塔もある。それが故郷の風景だった。駐屯地間を行き来するヘリコプターが定時に通過する場所だったとは、先日の帰郷で初めて意識した事だった。
「台風の後、もう一日だけ熱帯夜になります」
と午後の天気予報は告げた。単純に信じていいのか迷う処だ。この処の気候は訝しい。天気図は十日以上まるで変化しない事もあった。季節さえここに停まっているのではないか。シベリア上空に秋の高気圧があります、と予報官は言う。季節は時間として捉えられるものではなく、南北間を移動するものとして表現されている。
それを敷衍するならば、例えば同じ場所に滞留する限り、夜が明けてもまだ今日なのかも知れない。明日とは、もっと東にある場所を言うのかも知れないではないか。
ぼくの捉え方が間違っていたのかも知れない。果てなく流れ去るものは空間であり、辺りに遍在するものが時間なのか。そう考えればこそ、納得が行く。妻はあの部屋で同じ時間を反芻して過ごした。ぼくもまたこの仮の宿で、次の時間に乗り移れないでいた。
あの帰郷の印象は、驚くほど薄かった。そこに何も無かったからなのだろう。生活の記憶あるいは家族の痕跡。そんな物を再確認したかったのだが、打ち棄てられ枯れ掛けた実家の家屋を、あそこでは目にしただけだった。
家を出てひとりで惨めに暮らすこの場こそが、むしろ感覚的には身近だった。かつて同様の事をした肉親があったのだ。父というひともまた、家族を棄て家を出た事があった。この場で、当時の父の感情を想像し、架空の懐かしさに浸っていた。
家を出て僅かな期間で病を得、父は何がしかの企みを諦めたらしい。衰弱して帰還し、間もなく父は逝った。それから程なくぼくが上京してしまったので、家庭の修復の展開は殆ど目に出来なかった。
秋がそこにあれば納得がいったかも知れない。ここより北にある故郷ならば、座標の上では次の季節の場だったかも知れないのだ。ほんの僅かだけの滞在で諦めるかの様にして選んだ帰途に、乗り継ぐ時間が余った。乗り換え駅で降りてみた。再開発が進んだ駅前には高層ホテルが出来ていた。
最上階のラウンジで昼食を摂った。幼い頃には想像もしなかった様な角度からの、故郷の土地の眺望が展けていた。視野の限りに風景がある。線路は視野の片隅で左右の町並に飲まれて消える。外周は山裾に霞んでいた。繋がりを失ったこの場にあまりに馴染まなくて、眺望は却って淋しさを呼んだ。
故郷は円の中にあるかの様だった。その中にぼくの家もあった。親と子の声の届く範囲という小さな円があり、その外にはおそらく同じ感覚を共有出来る範囲という、もう少し大きい円があった。父がひとりで一時、居を構えた場所はその円を出ていた。だからぼくは父とは、あの時既に縁を失っていたとも言える。
「どちらへお帰りですか」
と、隣のテーブルから話し掛けられた。その声の主は、あたかもこの巨大な円の外にいて、人の縁を司る存在ででもあるかの様に思えた。振り返ると老紳士がひとり食事をしていた。ぼくは微笑んで、何がしかの言葉を返した。けれど心の中では、問い掛けられた言葉に依って迷路に陥っていた。
何処へ帰れるというのだろう。既に故郷は朽ちた。家庭は放棄した。住まいと言えば、仮の宿でしかない。足を向けざるを得ないのは、そんな場所だった。
「何故ここへ来るのよ」
先週部屋を訪れた時、妻はそう言って眉を顰めたのだ。この部屋へ足を運ぶ事は、別れへと進む動きを押し止める為に他ならなかった。けれど辿り着いてもそこにはもう目的のものは無かった。
あまりな言葉に三和土で立ち竦む時、既に足許から「ここへ来る意味」が流失し始めていた。見慣れた場所が見知らぬ土地と化していた。立場を押し流すものの速度を必死に固定すれば、今度は風景が流れ始めた。あまりに速く流れる背景は、やがて風に変貌する。すると、風が吹くという事は精神の作用なのだろうか。いやそれは換気扇の様な物なのかも知れない。
「何故ここへ来るのよ」
と言われた時、これ以上のどんな努力も無駄な事だ、と判った気がした。
風の一日が終わると静かな熱帯の夜となった。仮の宿の融通の利かないクーラーを停め、窓を開いてぼくはベッドで眠りを待っていた。苦しくはないのだが、寛ろげなかった。まさかまた不眠になるとは思わなかった。
仕事が順調だった時期に、何故だか不眠に悩んでいた。あの頃には眠れなければそれが直接、仕事に差し支えた。だからこそ眠れる方法を希求した。やがて睡眠時間すら仕事に売り渡してしまった事で、当時この問題は根底から消失したのだが。
リストラという卑情な事態を経て、今や時間だけは裕福になった。だからこそこの機会に、睡眠時間から生活を正して行こうと思っていた。それがとば口で頓挫しているのだ。
アレルギーはまだ激しかった。それさえも眠りを妨げる。膚がひりつく感覚は、時には苛立ちも誘った。薬を補充する為にこそ、三度の食事をしているかの様だった。次の投薬の時間を、待ち遠しく思った。薬効が遅いのだ。
この身体さえも、抗体の立場からは閉ざされた空間なのだ、と想った。空間が滞留する時、時間が流れなくなるとしたら、アレルギーはいつまでも完治する筈もないだろう、などと禄でもない道理さえも考察していた。
寝しなに珈琲を飲んだとても、眠れなくなるなどという事はこれまでなかった。けれどこの数日は、それすら警戒している。夜分には珈琲を始めとして、あらゆるお茶を控えていた。
手の届かないものになった夢は、だからこそまるで甘美な物の様にさえ思えている。それを失った事に、空しさを感じていた。頭の中の展示室から、誰かが額縁ごと外して持ち去ったのか。
一年程長く生きてしまったかも知れない、などと気弱な想いにも駆られる。風向きからすれば、あれ程に忙しかった去年辺りが人生の締めであったとしても納得が行く。あの辺りで終わっていれば、こんな停滞すら知らずに居られたろう。
風が治まると、もう虫の音がしている。台風が磨き上げた夜空の星の瞬きの緩急と、虫の声の強弱が不思議に一致していた。まるで星の瞬きの音の様にさえ聴こえた。
灯りを慕って窓辺に寄って来るのは、見慣れない羽虫たちだった。羽を閉じて止まるのは蝶だ、と何処かで聞いた。けれどこいつは蝶というには、色合いが濁っている。常識に合わない生物がいるものだ。
あの強い南風がこれらの身の軽い生物を運んだのだ。いや、むしろこれは、あたかも台風が位置を固定し、逆にこの土地を南に吹き飛ばしたかの様だった。気候を司る者が、その大きな手で季節を押さえつけた為に、空間が移動してしまったのだ。もう一日だけ、と告げられた熱帯の夜は、埒もない事を考えるうちに更けていた。
続
夜分の気温が極端に下がった翌朝、いきなり夏は過ぎたものにされていた。寒冷前線が南下すればいよいよ秋、という論調で告げる天気予報も中にはあったが、その手順すら裏切って季節は齣を進めた。予想を遅れる事はあっても早まる事など、この夏には例が無かったというのに。
例年にない厳しい気候にぼくの膚は病んでいた。あせもなどと言うのでは生やさしい程に、顔や腕は爛れてしまった。熱に負けたのだ、と医者は言う。それ程に異常な暑さが、今年は続いていた。
膚の具合が落ち着くまで、と言って続けて来た滞在だったから、小康を得て気候が穏やかになれば、もう留まる理由は無くなっていた。近隣の商店街へ妻が買い物に出た間に、ぼくはまた荷物を纏めていた。
部屋着と下着、爪切りと細ごまとした薬品類。それ等はぼくの移動先に、この夏、常に携帯しなければならない物だった。
来る度に、この部屋の居心地の悪さは増していた。それに目を瞑ってぼくは、ここで過ごした。けれどそれももう限界かも知れなかった。戸締まりの道具で風の抜ける程の隙間を数カ所に作り、扇風機を止めて、ぼくは部屋を出た。ドアに鍵を掛けて昼過ぎの駅へと向かった。
東京が熱帯になったかの様なこの暑い夏は、五年ぶりだという。そのまた五年前にも炎暑の夏があったというから、これはもう周期が出来ているのかも知れなかった。思えば五年前に、この街へ移って来たのだ。そこから妻との生活を積み上げて来た。
そしてこの春にそれが破綻した。ぼくはここを出た。それと符節を合わせる様に気候も、ひとつの周期を終えたという事だろうか。訪れた夏は厳しかった。ぼくは行くあてを失くしている。周期が五年だとすれば次の暑い夏には、ぼくはどこでどうしているのだろうか。
日本地図を想う時、頭の中にはもうひとつの裏返しの地図が浮かぶ。それはどうしてなのだろうか。暑熱の日々には天気予報の度に、太平洋高気圧という名を聞かされた。関東に架かる等圧線というものを恨めしく見た。太平洋高気圧は東の海上に留まり、動きを停めた。二十日が過ぎてもその状態に変化が見られなかった。
そんな頃にぼくは、ここを訪れたのだ。それは三度目の滞在だった。三十歳の半ばを過ぎようとする年齢で愚かにも家庭を棄て、けれど行く場所などはなかった。週単位で契約をする宿とも賃借の部屋ともつかない場所に、取りあえず腰を据えた。そして慣れないひとり暮しに、忽ち体調を崩した。
妻からの電話をこれ幸いと一月目に一度、ここへ舞い戻って数日を過ごした。夏ばてともとれる胃腸の不調が回復した時、滞在を伸ばす理由はなく、ぼくは再び仮の宿へ戻った。
ふた月目にも、所用で通り掛かった風を装って立ち寄り、豪雨に降り込められた事にして数日を過ごした。そして三月目は、この膚の具合を直す為に、ここへ来ていた。元より膚は虚弱だったから、ここで多くのスキンケア用品や薬品を用いていた。置き去っていたそれ等が、今は目当てだった。
暑熱の日々が終わるのを待ちわびていた。炎天の日差しがある間は、街を歩けなかった。高気圧の状態が変わる事を祈っていた。これが南下すれば、こちらの低気圧が勢力を伸ばせば、と予報官は可能性を語った。その言葉に縋った。あと少し耐えよう、秋への道程の最後のコーナーは回った筈だ、と信じた。
長く暮した場所へ舞い戻っても、前と同様には過ごせなかった。違和感は訪れる度に増す。先月の滞在の最後には、言い様のない悲しみを感じてここを去らざるを得なかった。
だから今回の滞在でも居心地は悪かった。夜毎、寝心地が悪く、夢見も悪かった。勢い、慣れない酒に手を出してみた夜もあった。熱帯夜であっても、妻は冷房を嫌った。弱い風さえも待てど吹かない夜に、眠りは浅かった。
子供は超能力を持っていて、注文される通りに願いを叶えられるらしい。しかしそれは、母親が手引きしてこそ引き出せる能力の様だった。母親の願いは単純で「幸せになりたい」という事だった。けれど、母親がいくら言葉を尽くしても、子供には「幸せ」の概念が伝わらなかった。
母親の困惑を見るうちに視点は、大きく後ろへ退いた。これをどう思うか、と問われるかの様に、ぼく自身の意識が浮かび上がって来た。ぼくはこんな宗教なんて信じないよ。ただ人を信用したいと思ってるだけだ、と心で呟き乍ら目覚めた。それは信じたい事があるのか、それとも何も信じたくはないのか、自分でも判然としない言い草だった。
あれこれに気を配るタイプの男として、ぼくは常に構ってやる対象が欲しかったのだ。だからこそ結婚生活の日々は、様々な場面でぼくが作業を受け持った。掃除、炊事は当たり前だった。けれど時として妻は、余計な事をする、と怒った。
先月の滞在の時には、さすがに暑くてふたりで飲料を大量に消費した。麦茶、紅茶、珈琲、グリーンティなどを作っては冷やしていた。冷房を好まない妻は、それだけ汗をかくのだろう。これらを大きなマグカップに、なみなみと注いで自室へ運んだ。
五百ミリリットル程のサーバーでは、どのお茶も一日で消費された。だからぼくはそれに気づけば、補充に努めた。お湯を沸かし、茶葉を投じる。珈琲はドリップでじっくりと煎れた。それを妻は、余計な事と言った。
ドーナツが食べたい、と言う日があった。買い物に出た時にぼくは、それを思い出して買って帰った。ドーナツを渡されると妻は、メロンパンが欲しかったんだ、と言った。
指示を与えていない事をされると、彼女は苛立った。ぼくの行動に対して「いいわよ」と許可を口にしたいのだ。茶の間のテーブルにあるお菓子をぼくが食べる事を彼女は怒る。
「私がたべていいと言ったものを食べるのよ」
と言うのだ。
ひとの性格が兄弟の中での位置に捉われるとしたら、長男と長女が結婚する時には必ず葛藤が生じる。夫が兄となるか、あるいは妻が姉となるか。互いに自分にとって自然であるべき立場を、争わなくてはならない。
そしてこの五年続いた妻の抵抗は、長女である妻を結果として妹扱いして来たからなのではないだろうか、と思い至った。そう考えた時、妻のする謂れのない反発にも、少しは理解が出来る気がした。
それにしても、この推測が当たっているならば、それなりに時に応じて、不満な点を具体的に言えば良かったのではないか。妻の欠点は、感情表現が下手な事だった。そこに齟齬が生じる。
何故不愉快なのか、きちんと言葉に出来れば、ぼくだって対応の仕方があった筈なのだ。これはもう子供の時に、学ぶべきものを落として来たとしか言いようがない。あるいは、子供の教育には演技指導というものがあるべきだという問題に行き着くのだろうか。
日差しの翳った街に出て、ぼくは行くあてがなかった。あの淋しい仮の宿に帰途を急ぐ必要などなかった。買い物に向かう人達の行き交う街を、ぼくは歩いていた。
先を行く子供を目で追っている母親は、この気温なのにカーディガンを羽織っている。この母親の年代にはもう、老いへの変化が始まっているのだろう。暑さを熱として感じられないのだ。それは時そのものに、乱れを生じさせてしまっているとも言えた。夏という季節をこの母親はもう通り過ぎて、早くも秋の盛りにいるのかも知れない。
「おかーさん」
と先を行く子供が呼んだ。その声の大きさ、その母音を曳く長さの程が、立体的な座標を描く。母親との間で取り得る距離には最大値があって、その範疇を子供は無意識に知っている。だから決してこれをはみ出す事はない。その範囲の中での座標に、音曳きの間隔と声量は正確に合致していた。
けれどその範疇をやがては越える時が来るのだ。母親は既に時間軸を異にしている。子供はいつかこの場所を去る。やがてはどんなに呼んでも届かない者になるのだ。
開け放した窓の傍らで扇風機が運ぶのは、相も変わらない温風だった。けれど冷たいシャワーを浴びた後だったから、ぼくは身体が冷えていた。体表の温度が下がっていれば、温風でさえも心地よく感じられた。
妻は冷房を停め、その代わりに扇風機をつけたのだ。その風にあたってぼくは、まどろもうとしていた。意識は覚醒からゆっくりと落ちかけていた。落ちる瞬間の意識は、視野にあるものを齣送りにして見せた。
回転している筈の扇風機の羽根が、明瞭な形で見えた。旋風に捲かれた髪が一筋、空中を行くのも見た。それは超常現象めいて、けれどそれより余程楽しい光景だった。
それは行き慣れた本屋だった。ぼくの探している本は奥の売場の左の壁際、中段の右よりにある筈だった。それを知っているからこそぼくは店に入った処から右へ左へ視線を遊ばせ、平積みの新刊を物色し、フルカバーの書名を拾う余裕を持って通路を進んだ。やがて奥の棚へ至り、目的の本を手にした時、この店が既に閉店してしまって、存在しないという事実に気づいた。闇に閉ざされた時に掌にあったハードカバーの重みは、目覚めた時にも残っていた。あれも暑い日の昼の事だった。
出先から立ち寄って、部屋で妻と食事を共にした。後片づけはいつもの様にぼくがした。それからどうするのかをはっきりさせたいと、妻が思っているのは読みとれた。アイスティを注ぎ、梨を剥いた。その後で、今夜は泊めてよ、と言うと、妻は
「どーして、意味ないじゃない」
と言った。三度目の滞在の始まりは不穏だった。このひと月に彼女の心理にどのような変化があったのだろうか。何に対して意味がないというだろう。ぼくにとっては、ここへ来る事の他に意味のある事を探す方が難しかった。
近所の手前、ぼくは連続して出張に出ていた事になっていた。そのわずか三カ月程の間に、妻は室内の様相を僅かづつ変えていた。キッチンにはテーブルが置かれた。アイロンを買い換えていた。元のぼくの部屋は掃除機の置場所になっていた。生活のリーダーシップを掌握したという事だろうか。そこへ再びぼくという邪魔ものが介入するのを、許せないというのだろうか。しかし彼女が統率しているのは、アイロンであり掃除機でしかない筈だった。
それからまたぼくは、この部屋で数日を過ごした。それはまるで春迄の別れの日々を再放送しているかの様だった。梨を剥こうか、と訊くと、いい、と即座に答えた。呑み切ってしまったアイス珈琲を補充するべきかと思い、珈琲作っておくか、と訊くと、いらない、と即答した。大叔父が高齢にして大手術を受けたと連絡を受けた。妻も尊敬していた筈の親戚だった。見舞いに行くか、と訊いた。どして、と妻は答えた。
今までの様に黙っているという選択肢もあった。けれどこの春からは、妻がぼくに対して常に最初に取る否定的な態度の薄情さを、理解させる必要はないのだろうか、とぼくは考える様になっていた。
梨を剥こうか、という問いに、いい、と答えられた時ぼくは、いい、と回答を鸚鵡返しにした。珈琲作っておくか、という問いに、いらない、と返された時には、いらない、という言葉を繰り返した。見舞いに行くか、と訊いた時に返された、どして、には、どして、と訊き返した。
それすら、どれ程の効果を発揮したのか定かではない。ただ、これまでのパターンでは対応し得ない試みをしたに過ぎなかった。あなたの回答は問いかけに答えを与えているのか、と重ねて問うだけの事でしかないのかも知れなかった。
台風が通り過ぎる度に、太平洋の高気圧は僅かに退き、そしてまた悠然と戻って来た。それはまるで名前の通りで、波の様に列島の東岸に寄せては返すのだ。その重い足取りに歩速を合わせる様に、ぼく等もまた長い周期を持って、別れへの場面を小返しして演じた。どこかに居る演出家が、更に三度の短い稽古を命じたかの様だった。
街を行く若者は最早、髪型では男女の区別が出来なかった。後ろ姿に見受ける気配すらもが男っぽい女の子を見ると、その構えの無さに驚く。女の子はもう、装わなくなったという事なのだろうか。
一方で同年代の男の子達は、どうにも印象が悪い。女の子が楽しそうにつるんでいるのは、どれもまるで与太ものとしか見えない男の子だった。長さに於いて、整髪の具合に於いて、髪型が中途半端としか思えない。黒くない髪に浅黒い膚では、色彩としての取り合わせも良くないのだ。
四十になったら自分の顔に責任を、とよく言われる。これが示すのは、対人関係を円滑に運ぶ為には、自分の印象までコントロールしなければならない、という戒めなのだろう。
風を入れようと窓を開けた。扇風機をつけ、蛍光灯の灯りを一段階落とした。ぼくが蛍光灯の紐を引いているうちに、妻は窓を閉じた。扇風機を停め、蛍光灯を点け直した。
窓からの風が気に入らない。扇風機の風が鬱陶しい。光量が足りなくては、色合いが見えない。妻は直接ぼくに文句を言うことはしない。それらのものの在り方について異議を唱えるのだ。
それはもうぼくにも馴染みの事になっていた。それにもう我慢が出来なくなっていた。やがてひとりになっても、そうやって対象を逸らした言葉で悪態をつき続けるのか、と幾度問い掛けたろうか。
駅の高架からは、数軒のモデルルームが見えた。夕暮れとなり、どの窓にも柔らかな灯りがともっていた。その色合いが、暖かく思えてしまった。冬に日差しが伸びるのは、どの窓だろうか、と想像していた。そんな家庭はもう、ぼくには望めないのだ、と思い淋しくなった。
モデルルームの係員が客を送り出している。ぼくの淋しさを放り出している。誰も誰かの淋しさにコミットしようとなどはしないのだ。まして妻が、ぼくの気持ちを忖度する筈もないではないか。
腕時計の表示は時間とは思えない数字だった。気づけばまた、勝手にスイッチが切り替わってストップウォッチになっていたのだ。三十一分二十四秒を差した処で停めた。それがどこから始まったのか、そして停めた瞬間にどんな意味があるのか。回答などありはしない。
幸せなどというものに実体はない、と見切ったからこそ、あの春に部屋を出たのだ。淋しさ以外に味わえるものもないだろうと、多寡を括っていた筈ではなかったか。この半端な数字からぼくは却って勢いを得た気がした。もう一度、淋しさを求めて進む力を得たのかも知れなかった。
行く先にあるものに敢えて目を伏せて、歩み続けるしかない。そこには破綻しかないとしても、停滞はもうしたくなかった。風倒木という言葉が心に浮かんだ。それは成り行きに身を任せる融通の利かない、哀れな奴の末路だ。
何だろう、この処、右目の後ろの視野と、左目の後ろの視野に、光る物が見える。それは明確に光を発するというものではなく、むしろ遮光した場所に漏れてしまった光に似ていた。
一番似ている物を挙げれば、フィルムの定格の齣数を越えた部分に撮影した画像だろうか。感光剤にむらがあり、カメラの機構上からも安定を欠いた部分であればこそ、この部分の齣の隅には、映像ではない画像が入り込む事がある。
スクリーンに投影すればそれは、なにがしかの形を取る。けれど実際には、機能しなかったが為に露呈した、ただの裸のフィルム面なのだ。
視野にそんな物が入り込む様になって来たというのは、人生を見据える為のフィルムが、いましも尽きようとしているという事なのだろうか。長く回し続けた画像の記録も、この夏の末を以て終わらざるを得ないのだろうか。
夕暮れを撮影した短いシーンが、この瞬間にどこかで演出者の手許のプロジェクターに掛かっているのかも知れない。カットされるか、どこかに繋げられるか、演出者の判断を待っているのだ。
昨日の夕方、連れ立って買い物に出た。商店街を行き、横切る車道を渡った。先を歩いていたぼくの踏み出した頃に、信号が赤になった。渡り切って振り返った時、妻は向こう岸に残されていた。
踏み留まらされる時間はほんの一分だったが、それを待つ間の心細さは夕映えと共に流れて染みた。見上げた雲は裏返しの日本地図にも見えた。頭上に互いの位置を投影する事も出来そうだった。
「月は年に三十八ミリも離れてるんだって」
といつか妻が言ったのを思い出していた。いったいどれ程離れたら、月は地球に捉われなくなるのだろう、とその時思ったものだ。
鍵を開けて直ぐに妻は、ぼくがもういないのだ、と理解するだろう。そしてその後は、また心を動かす事もなく、おそらくは掃除機を取り出して念入りに部屋を片付けるのだ。この昼までのぼくの心の動きを少しは、妻は気遣うだろうか。
過ごし易かった午後の室温を保つ様にと、熱を逃がせる程の僅かな隙間をぼくは作った。部屋に残った空気をかき乱さない様にすれば、ぼくの残した感情も伝わるのではないか、と期待をした。そっと帰ろう、とぼくは思ったのだ。この空気に波紋さえ立てない様にと。 (了)
閉じない円周 平方和 @Horas21presents
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