企みに踏み込む

平方和

企みに踏み込む

 繁華街を外れて国道添いに建つ骨董家具の店に、ぼくは誘なわれた。机がほしいの、とその人は言った。久し振りに晴れた休日、この地方都市で唯一の繁華街は、沢山の人達で溢れていた。けれど、この辺りまで来ると、その人出も急に疎らになった。

 その人は、ぼくの腕にすがって店内を回り、飴色に古びて落ち着いた雰囲気を持つ机を、ひとつひとつ丹念に見て行った。時折はぼくに顔を近付け、その評価をささやいたりもした。そんな時、ぼくは内心の動揺を無理に押し隠して、鷹揚に頷いて見せたりした。

 その人がそんなに親しげな様子を示してくれたのは、その日が初めてだった。ぼくの動揺は、その態度の急変ぶりにあった。これまでこの人は慎みを持って、もう少しぼくから距離を置いて来た筈だった。今日になって、何故、こうも急速にぼくに親しみを増したのだろう。


 感情を表には出すまいとし乍らも浮足立ち乍ら、帰宅した。その深夜、友人が電話を掛けて来た。今日の昼間、お前を見た、とあいつは言う。あいつが今日目にする筈の人物は、ぼくではなかった筈だ、と考えた時、その理由に思い至ってしまった。

 あいつが今日、理解した事に、ぼくもまた気づいたと判って、あいつは意を決したらしい。これから行く、と言って電話を切った。受話器を戻し乍ら、ぼくは意味もなくダイアルを玩んでいた。あいつと話し合わなければならない。


 六月の夜は重みを持っているかの様に思えた。ぼくはあの人の心を捉えられたと、今日思っていた。けれどそれは違っていたようだ。休日の平和な出来事だった。ここから新しい日々が始まるかも知れないという期待に、胸が躍んでいた。こんな日はそう何回もあるものではない、と思った。そんな喜びが、一瞬に砕かれた。

 誰かを手に入れたくて、それが思いの侭にならない切なさ。ここをどれ程遠くに離れたら、しがらみでなく、役割でなく、愛して貰えるのだろう。そんな事をあいつを待つ間、部屋の隅に座り込んで考えていた。


 Closer I Get To You.と、くぐもった声で歌う女性ボーカルが、夜の店内に流れていた。あの店の明りの蔭った片隅で、ぼくはその人と出逢った。隣あって座り、自然に声を掛けられた。

「ロバータが好きなの」

 ぼくは頷いた。それからは好きな女性ボーカルの話ばかりを、留めどなく続けた。店内には心地よいソウルバラードが流れ続けていた。夜更けて彼女が店を去るまで、プライベートに関わる話題はひとつも出なかった。面白い女性とお近付きになれた、とぼくはその一夜を満足して終えた。

 けれどぼくは、しっかり電話番号をその人に教えていたらしい。翌週、ぼくは彼女に呼び出されて、その店に行った。楽しいひとときが再び過ごせた。そんな事が何度かあった。あいつにもその話は、多分自慢げにしていた筈だ。


 何度か逢ううちにその人は、プライベートを語り始めた。それは彼女にとっては、快い時間ではない筈だったが、ぼくにとってはそんな告白でさえ甘いささやきに思えた。灰皿に置いた彼女の煙草が、まっすぐな紫煙を上げていた。

 長い愛が終った、と彼女は言った。心の傷は重みを持っているかの様で、足取りさえも鈍くさせるの。

 幾度か修復を試みたその恋愛は結局、終息を迎えたのだ、と言う。試みは度毎に挫折に終り、男は振り返る事にすら飽きて、立ち去った。彼女は傷つき、取り残された。立ち去れずにいるのは、それまでの生活の断片のひとつ一つが確かに、思い出に繋がるからだった。

 彼女は続ける。このしがらみを打ち壊して、私をここから連れ出してくれる人がいるなら、と切に思った。この重い日々は、いつまで続いて行くのかしら。

 いつまで、というその言葉は、この出逢って間もないぼくに、向けられたものだったのだろうか。迷いつつぼくは、優しく言葉を継いだ。

「嫌な思い出なんて、いつまでも残りはしないよ。いつか忘れてしまえるよ。そのコツはね、今のその痛みを反芻しない事だ」

 歳下のぼくの処世訓などに、どれ程の力があっただろう。今思えば苦笑してしまう様な言葉だ。けれどぼくはあの時、純粋にそんな言葉を語り掛けていたのだった。


 深夜の台所へ行って水を飲む。気づけばもう何度も繰り返している。喉は決してそれを欲してはいないのだが、口の中は渇いている様な気がする。台所へ行く。コップで水を飲み、それを丁寧に濯いで水切りに置く。部屋の隅に戻って座る。だがまた渇きを感じる。

 自分の狼狽ぶりに苦笑せざるを得ないが、それで心が落ち着くのならいいじゃないか、と言い訳をしている。


 あいつとのつき合いは、もう三年にもなる。同じ様な音楽の嗜好を持っていると、酒の席で知って以来、レコードを貸したりテープを録ったりという情報交換をし乍らつき合って来た。

 学部は違っていて、学内で会う事は希だった。けれど盛り場の外れの、いい音楽を流す店では、頻繁に行き合った。互いにそんな店を探しては、この狭い町をうろついていたのだ。

 つき合い始めた年と翌年は、女の話が話題に上る事はなかった。そんな話題が出る様になって、ぼく達のつき合いは変わった、と言えるのかも知れない。

 この数カ月、あいつは会う度に女の話を持ち出した。秘密めかした語り口の内から理解できた事は、どうやら危うい状況である、という事だった。


 この数カ月に、ぼくと友人は随分と人が変わったかも知れない。ぼくは間抜けな程、好人物になってしまった様だ。四月に書き換えた学生証の写真の表情が、それを語っている。

 その一方であいつは、この春先から悩みを抱えて、表情が曇ったままになってしまった。講義にもしばしば欠席している。その理由の一端はぼくも、時折の酒席で聴いていた。人妻とつき合っているのだ、とあいつは打ち明けた。近ぢか何か修羅場を迎えなければならない様な情勢であるとも、聞いていた。


 ドアが叩かれた。たった二回のその音は、正確に同じ余韻を持つように、間隔を計って力を加減して鳴らした音の様だった。あいつが来た。

 狭い部屋の窓際に座り込んで、あいつは目を逸した。彼の背では、僅かに開いた窓の外で闇が息を潜めていた。ぼくは冷蔵庫から缶ビールを取り出して、一本をあいつへと転がした。あいつはプルタブを引きちぎって、それを一口煽った。

 始めから語ろう、とあいつは切り出した。繁華街のひとつの町名を彼は口にした。その町で俺は居心地のいい店を見つけた。ドライなファンクミュージックばかりを流すクールな店だった、とあいつは言う。

 その女は挑む様に踊り乍ら、彼に近付いて来た。関係が出来る迄に既に、その女が人妻である事は判っていた、という。けれどあいつは、そうと知ってい乍ら、その危うい恋に落ちたのだ。

 速いペースで、二人は恋の歩みを進めた。時を惜しむかの様に、亭主の目を盗んで逢った。それは時として、スリルに富んだゲームの様相さえあった、とあいつは言う。

 結果だけを言えば、俺は人妻に去られた、とあいつは言う。最後に迫られたのは、自分の手で女の家庭を壊せるか、と言う事だった。そして俺にはそれができなかった。だから女は、家庭へ戻る決意を固めた。

 家庭という響きが、平和な風景を想像させる。午後のひととき。新興住宅街の一軒の居間。その人妻は、女である事の傷をしばし忘れて、クッキーなど食べ乍らお茶を飲んでいる。友人の抱いた感情と判断さえ、遠くの出来事であるかの様に、そのひとときは静かに流れている。


 家庭を壊してしまう事くらいは容易かった筈だ、とあいつは続ける。けれど人の絆を引きちぎる時、必ずそこには傷を残す。女の心に残った傷までも、その後に平然とした顔で引き受ける事はできない。だから俺は女が去るのを見送る決断をしたのだ、とあいつは言う。だが最後の段に至って女は先日、俺に挑む様な事を言い出した。

 六月も終りのこの時期、夜明けは早く、既に空は白み始めた。肌に嫌な湿度を感じ乍ら、ぼくは空になった缶を玩んでいた。あいつの告白は、まだ続いている。


 白み始めた空を見てぼくは、昨日の午後を想っていた。明るい喫茶店のテーブルに置いたグラス。今日も一日、アイス珈琲ばかりを飲んで過ごしたな、とぼくは思った。彼女と明るい町を歩き乍ら時折入る喫茶店で、メニューを覗いてもぼくは、食欲を感じなかった。この季節はいつも妙なのだ。空腹を不思議に感じない。ケーキなどを食べる彼女を横目に、ぼくはまたアイス珈琲を飲んだ。食べる、と彼女は尋ねたが、ぼくは首を振った。


 大通り公園のベンチに二人で座った。梅雨もまだ本番にならず、心地良い午後だった。港の方から風が吹いていた。横に座った彼女の、スカートから伸びる細い足だけが自然に目に入った。ぼくはあえて振り仰ぐ事もせず、彼女の表情をその声から読んで、顔を見ようとはしなかった。

 その人は淑やかに煙草を吸い、

「若い頃にはコーラと煙草さえあれば良かったの」

などと軽い昔話をしていた。そんな明るい会話をいつまでも続けられたら、とぼくはその爽やかな午後を慈しんでいた。僅か半日前の出来事が遠い思い出の様に微笑ましい。

 いつだって貴方が呼び出してくれるのを待つばかりなんだ、とぼくは不満を口にしかけて、けれど結局は飲み込んだ。そんなすね言に似た話をして、二度と逢う事が許されなくなるのは嫌だった。そして唯一度でいいから、この人を抱きしめたいんだ、と切に願っていた。

 けれどもう思いは叶うことがない。甘い想いは苦みに変わる。あの人はぼくなど愛してはくれなかったのだ、と判った。あの人の心は別の男に向いていた。そいつの心を振り向かせ、自分に縛りつけたいばかりに、彼女はこの午後、ひとつの芝居を打ったのだろうか。

 可愛い小物を真剣に選んだ日々を思い出す。笑顔で受け取ってくれたじゃないか。あの表情も嘘だったのだろうか。想いは憂鬱に落ちる。捨ててよ、ぼくのあげた物なんて。

 唯の人と唯の人で出会えれば、必ず愛される筈なんだ、という自信は今もある。あの人とぼくの間に、人々と事情が立ち塞がっているから、こんな事になったんだ。立場を変えよう。何処かにあの人と直接触れ合える入口がある筈だ。それを探したい。その為にはどれ程遠く、どれ程永くここを離れればいいのだろう。ぼくはこの町を出ようと誓った。互いの傷を癒さなければならない。

「一度人を傷つけたら、そのままにはできない事を知ったの」

と彼女は言った事があった。その言葉で彼女がその痛みを思い遣った傷は、ぼくのものではなかった。けれどその一方で彼女自身も、傷を負っているのがぼくには判った。その傷を思い遣れるのは、ぼくの筈だ。


 辺りはすっかり明るくなっていた。あいつの告白は続く。

 わたしは東京に移って亭主とやり直すから、と人妻は言ったという。嘘だろ、とあいつが言い返すと、人妻は、それならばわたしと亭主の前に立ち塞がって見せてよ、と挑んだ。亭主と出掛けるその週末の買物が、この町で最後にする事だと言ったという。その辺りの話は既に聞いた事があった。

 それが昨日だった。東京の新居で使う新しい家具を選ぶ為に、国道添いのあの骨董家具屋へ亭主と行く、と女は言った。だからあいつは、あの店を見張っていたのだ。

 俺は挑まれた通りに、立ち塞がって女を奪い取ってやろう、とその店へ行った。それは怒りに端を発した行動だったかも知れない、とあいつは言う。

 家具屋の階段の踊り場で物蔭から、あいつは眺めていたのだ。その場にやって来たぼくとあの人を。

 女の前に出る事は結局出来なかった、とあいつは言う。やり直すと女が言った相手こそは、絆で結ばれた亭主だ。それが幸せならそれを選んで欲しい、と苦々しい心の底で思ったと言う。

 そしてあの店を立ち去ろうと、扉まで降りて初めて間近で目にしたんだ。女の傍らにいる男の姿を。それが何故おまえなんだ。


 あいつの話を聞いてぼくの解釈は発展した。あの人はむしろ、全てを終らせたかったのだ。しがらみとなったこの土地での暮しを、壊してくれる外からの力を頼りにして待った。しかしそれすら最早、当てに出来ない事を知った。だからこそあいつの想いを断ち切る為に、ぼくを利用したのだろうか。

 あいつの語った人妻は、ぼくの恋うあの人だった。あの人の悩みを聴いたのがぼくで、愛を語らったのはあいつだった。


「あの人は家庭を壊してもさらってくれる事を待ってたんだ」

とぼくは喰って掛かった。けれど事情は思惑より早く進んだ。あいつの介入を待つ迄もなく、彼女の家庭は自然に崩壊した。亭主は出て行き彼女の許には、双方の親や近隣とのつき合いだけが残った。当てにしていた筈のあいつの、何時か吐いた気弱な言葉が、その時あの人の歩みを留めさせた。心に残った傷までもその後に引き受ける事は出来ない。彼女もまたその傷みを、あいつに背負わせる事に躊躇したのだ。

 あいつはぼくの言葉を正面から受け止めて答えた。それを今言ってどうする。もうあの女は去ったんだ。お前を共犯に呼び出した時には、もう家庭はリセットされていた。戻れないようにしておいて、企みに踏み込んだんだ。

 ぼくとあいつは、暫く言葉を失くしていた。朝になっていた。あいつの背後の窓を見透かすと、辺りは靄に包まれていた。新聞配達の自転車の音が街角に響いていた。近所の犬がそれを怪しんで一声吠えた。

 やがてあいつが口を開いた。彼女を見つけた事より、今になって価値があるのは、あのいいソウルミュージックを流す店を見つけた事だよ。

 それが、あいつとの短くもないつき合いの、最後の言葉になった。

 心地よくソウルミュージック流す店。ぼくもそんな場所を探して、あの頃同じ町を歩いていた。恋を探していたのかも知れない。それは多分あいつも同じだったのだろう。そしてあの人も、新しい生活へと導いてくれる者を、探していたのだ。

 昨日の午後、あの骨董家具屋の店内で、ぼく達はすれ違った。それは、やがてはそれぞれ違う方向へ去る三人がたった一度、一同に会した瞬間だった。


 十日も過ぎた頃だろうか、あの人から長距離の電話が掛かった。東京なの、と問うと、違う土地の名を言った。それを問う事でぼくが、知り得ない筈の事情に通じている事を、彼女は察知した。ぼくはあいつの名前を出して、あの日の出来事について問い詰めた。

 あの人は、感情も動かさず言った。

「そう、知合いだったの。良く考えればあの辺りに出入りしてる二人だもの。知り合いで不思議はないわね」

 ぼくは単なるデコイだったの、と諦念を込めてぼくは言った。彼女は答えた。そう、だからこそ随分と本音を話せた。

 本当はそうあって欲しいと、あいつが願ってる姿を演じて、終らせたかったのだろうか、とぼくはその答えを聴き乍ら考えていた。それは紛れもなく思い遣りで、それこそは彼への愛だった筈だ。ぼくは思いを言葉に出せずにいた。

 会話が続けば、これは別れの電話にならなかっただろうか。彼女は長い旅にでている、とでも言って次に会える日とその場所を約束してくれただろうか。けれど既に、ぼくがそれを望んではいなかった。あの人と再び巡り逢う場面は、ぼく自身が仕掛けて作り出さなければならない。その為にぼく達は、ここで一度別れを演じなくてはならない。

 沈黙を測りかねて、やがて彼女は受話器を置いた。遠い電話は絶たれ、もうあの人の声を手繰る事はできなくなっていた。                (了)

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