舞台裏のお料理事情

黒乃

第1話 秘密の悪巧みなフレンチトースト

 そこは日本のとある街にある小さなアパート。名前は『あったか荘』という。

 そこに住んでいる立花聖は今現在、空腹を持て余していた。昼ごはんも大家の花崎香織と共にしっかり食べたというのに。


 時刻は午後の3時近く。言うなれば、『おやつどき』というやつだ。


 いつものように香織の部屋で本を読んでいたが、腹の虫が鳴いて集中できない。これでは読書どころではない。付録されていた栞を読んでいたページに挟み、本を閉じた。隣でふよふよと浮いている相棒の幽霊リリー・ベルも、さっきからひっきりなしに鳴っていた自分の腹の虫に、くすくすと笑っていた。

 何か小腹を満たそう。そう思いながら台所へ向かえば、部屋主の香織が食パンの袋片手に何か考え込んでいた。


「ああエル。どうしたんだい?」

「少し、腹が減って……。香織さんは、何を……?」

「んー、冷凍庫の奥から賞味期限が近い食パンが出てきてねぇ……。まぁ、未開封だから大丈夫かなって思ったんだけど……」


 そう言いながら、困ったように買い物袋を指差す彼女。指差す方を見れば、そこには真新しい食パンの袋。つまりは、あることに気付かずに新しく買ってしまったのだと。手に持っている食パンを、処理をどうするか考えていたらしい。

 丁度小腹を満たそうと思っていたのだ、自分がトーストにして食べようかとも提案する。しかし、それでは普段通りすぎてつまらないだろう、と。

 しばし考えて、香織は人の悪い笑みを浮かべて聖に尋ねた。


「エル、ちょっと私と悪いことしないかい?」

「悪いこと……?」

「そう。偶にはちょっとした贅沢をしない?ってことさ」


 聖の返事を待つでもなく、香織は何やら準備を始める。用意したものは耐熱ボウルと、卵が3個に牛乳、冷凍庫に入っていた5枚切りの食パンだ。

 それで何を作ろうというのか、聖にもなんとなく理解が出来た。手伝う、と流し台に近寄った。それを共謀と捉えた香織は、聖にまず手を洗うように指示してから、作り方を伝える。


 まずは耐熱ボウルに卵を全部割って、菜箸を前後するようにしてかき混ぜてみな。そうそう、上手いじゃないか。そうするとね、白身が切れて混ざりやすくなるんだ。そこに牛乳を200ml入れてね。多すぎ?いいんだよこういうのはこれくらい適当で。そしたら、それもかき混ぜてね。


「いい感じだねぇ。そしたら、ここでバニラオイルを数滴入れるのさ」

「バニラオイル?バニラエッセンスじゃないんですか?」


 聞きなれない単語だったのか、リリーが香織に尋ねた。


「バニラエッセンスは香りをつけるには、もってこいなんだけどねぇ。火を通すと少し飛んじゃうのさ。バニラオイルならそんなこともないから、例えば蒸し焼きプリンとか火を通すお菓子作りなんかには、凄く使えるよ」

「へぇ〜!」


 それじゃあ、と香織はバニラオイルを数滴耐熱ボウルへ入れた。これで卵液は完成だという。


 次に食パンは……うん、解凍されてるね。これを4等分にカットしたら卵液に浸して。それができたら電子レンジを500Wに設定して、20秒だけ温めてね。そう、20秒。出来たら食パンを裏返して、同じように20秒ね。なんでそんな手間をかけるかって、一気にやると卵液が固まりかねないからさ。


 チン、と電子レンジが鳴る。取り出した耐熱ボウルの中の食パンは卵液を吸いに吸い込んで、ずっしりと重くなっている。そして不思議と、最初見た時よりもふわふわとしている気がした。

 電子レンジで卵液を温めてる間に、香織はフライパンの準備をしていた。


 フライパンにバターを入れて、溶けたら弱火でじっくりと食パンを焼くよ。焦げやすいからね、弱火の方が美味しく焼けるんだよ。


 溶けたバターのまろやかな香りだけでも、フランス出身の聖にとっては懐かしい。卵液に浸した食パンを入れると、卵とバターの焼ける甘く芳醇な香りが鼻孔を擽った。さらにバニラの誘われるような甘い香りも重なり、台所がその香りでふんわりと優しく包まれる。

 甘美に漂う空間でじくじく、と小気味良い音を立てながらじっくりと、食パンが焼かれていく。6分程焼いてから、裏返した。


 裏返された食パンの焼き目は、こんがりとしたきつね色。焼かれて濃くなった黄色の表面とのコントラストは、見ているだけで飛びつきたくなる程。少しだけ火を強くして、好みの焼き目を付けてあげればフレンチトーストの完成だ。

 焼き上がった食パンを皿に移す。フライ返しで持ち上げると、わたあめのようにふわふわとしていて、見るからに柔らかそうだ。断面はからはとろん、とカスタードを彷彿させる淡い黄色が、顔を覗かせている。立ち込める湯気からはバターとバニラの香りがふわりと舞い上がる。太陽の光に照らされてキラキラと光る朝露のように、白い皿に映えているフレンチトースト。これは空腹には堪らない。


 このままでも十分に美味しそうなのだが、なんと香織は冷凍庫からある物を取り出す。それはバニラとチョコの2種類のアイスが入った、ファミリーパック。

 まさか、それを乗せるというのか? 本当に?

 ディッシャーを食器棚から取り出し、キンキンに冷えていたバニラアイスを出来立てであつあつのフレンチトーストに乗せる。バニラアイスはフレンチトーストの熱で、とろ〜んとゆっくり溶けていく。聖も同じようにチョコアイスを乗せて、皿に冷蔵庫にあったチョコソースをかけた。

 短時間で出来た、最高のデザートだ。


「わぁおエル、アンタやるねぇ! コーヒーのスティックシュガーっていうシンプルなのも良いけれど、たまにはこういう贅沢しなくちゃね!」


 出来立てのフレンチトーストに、上機嫌な香織。もちろん甘党である聖も例外ではなく、嬉しそうな雰囲気を纏わせている。霊体であるため実際には口にすることが出来ないリリーでさえも、その見た目の誘惑にメロメロだ。

 テーブルに予め淹れておいたコーヒーを置いて、席に着く。互いにいただきます、と礼儀をしてから一口。


 表面はカリッとした歯ごたえのあとに、ふわふわとしたスポンジのような食感が迫ってくる。そこからは文字通り、食パンが舌の上で蕩けるのだ。噛む、という動作を忘れるくらいにそれは滑らかな食感であり、本当にスーパーで買える安物の食パンなのかと疑ってしまう。ほう、と息を吐けば、まったりとした空気が顔を覆う。


 二口目。今度は、程よく溶けているチョコアイスと共に口に運ぶ。

 あつあつの蕩けるフレンチトーストと冷たいアイスの重なり合った味わい。忙しくなった舌の上で、それらは互いに混じり合う。飲み込めば喉のマラソンコースを、冷たくキンと甘いチョコアイスが先に、人肌の温度まで下がった、しかしそれでも温かいフレンチトーストが追いかけていった。


 嗚呼、なんて幸せなのだろう。

 香織もリリーも、それはとても満足そうに笑っている。


 たまにはいいな、と思った3人の秘密のおやつどき。

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