beautiful green

hiyu

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 ある日突然、世界がグリーンに染まった。

 左目を閉じると、今まで見えていた世界が彩りを失くした。

 グリーン一色の世界。

 それはとても不思議な光景で、緑色の絵の具を流し込んだガラスの水槽のようだった。

 緑のセロファンを通したみたいに見えるの?

 そんな風に聞いていたのは友人の一人だった。特に仲良くしていたわけでもないそいつを、初めてグリーンの世界で見たとき、沢山のグラデーションで揺らいで見えた。他の人間はただのグリーン。多少の違いはあっても、大抵が同じ色だけでできている。

 なのに、こいつだけが、少しずつ濃さを変えたグリーンの集まりでできていた。

 左目を閉じて、俺はそいつを見る。

 ゆらゆらと、水槽の中を揺らぐ溶けた絵の具。

 水の中でふわりと広がり、溶け込み、ゆらり、ゆらり。

 俺の右目は、いつでもグリーンだけを映す。

 目を閉じてしまえば、それは急激に色を失くした。


 眼科で原因不明と言われ、脳外科でも解明できないと言われ、最終的には心療内科のお世話になった。

 目の病気でも、脳の病気でもないという診断ならば、残りは心の病気である。

 何度か通ってはみたが、結局ただの対話に飽きた俺が放棄した。

 グリーンの世界も見慣れれば悪くない。左目は正常で、必要なときには片目を閉じればいい。それに、俺はわりとこのグリーンの世界が気に入っている。

 すれ違う数え切れない人間が、それぞれに違うグリーンをまとっている。濃淡に意味があるのか統計をとってみたりしたが、結局分からなかった。濃い色をまとう人間が悪い人間薄い色をまとう人間が良い人間、だとか、濃い色は怒っている薄い色は機嫌が良い、だとか、濃い色は俺に好意を持っている薄い色は嫌っている、などと分かれていれば、付き合いも楽だっただろうに。

 誰もが単色のグリーン。

 けれど、ほら、今日も俺を見つけて駆け寄るこいつだけが、沢山のグリーンをまとう。

 緑色のセロファンとは違う。

 そう言ったら、こいつはとても興味深そうに俺を見た。

「セロファン越しだと、何もかもが同じ色で、平面的だろう」

「じゃあ、ちゃんと立体的に見えるの?」

「立体的っていうか、普通に見える。みんな違うグリーンだ」

「これは?」

 と、お前は地面を指差した。

「白っぽい、不透明なグリーン」

「これは?」

 次は街路樹。

「少しくすんだ、濃いグリーン。幹も葉っぱも同じ色」

「じゃ、これ」

 持っていた緑茶のペットボトル。

「わりとクリアな、青みがかったグリーン」

「本当に全部違うんだ」

「ちなみに、あいつはどす黒い、濃いグリーン」

 俺は少し離れたところで談笑している二人組の片方を指差した。そしてその隣の人物にそれを移動させ、

「あいつは不透明な赤みがかったグリーン」

「へぇぇ」

 目を丸くして俺を見つめるこいつの目は、透明感のある濃いグリーン。たまに、エメラルドグリーンが顔に重なる。それは首を傾げたり、頭を揺らすと、こいつの周りを取り囲んで掠める。

 身体を一番広く彩るのは濃いグリーン。まるで針葉樹林みたいな色。

「俺は、どんな色?」

 そう訊ねられるたび、俺は答えられない。こんなに沢山のグリーンを、俺は今まで知らなかった。だから、いつも笑ってごまかしていた。

「そんなにひどい色?」

 毎回、そんな風に勝手に誤解し、落ち込むこいつを、俺はぽんぽんと頭を叩いてなだめてやる。

「ひどい色じゃないさ」

 と。

 けれどこいつはそれをただの慰めだと思っている。俺が気を使ってそう言っているのだと思っている。

 本当は言ってやりたかった。

 お前の色は、誰よりもきれいだ、と。

 俺の見ている世界が、お前にも見えればいいのに。

 だから俺はゆっくりと左目を瞑る。

 グリーン。

 すべてが染まる。

「どの色が知りたい?」

 俺が訊ねると、お前は少し考えてから、

「これは?」

 と、問う。目の前には手のひら。

「ビリジアン」

「俺、ビリジアンなの?」

 少し嬉しそうに、お前が言った。だから俺は首を振る。

「ビリジアンだけじゃない」

「どういうこと?」

 俺はこいつにも分かるように、目の前に立ち、その髪に触れた。

「ライムグリーン」

 次は頬。

「ミントグリーン」

 肩。

「ウグイス色」

 腕。

「フレッシュグリーン」

 腰。

「草色」

 足。

「松葉色」

 つま先。

「ジェードグリーン」

 次々に俺が触れていくその場所を、こいつはまるで固まってしまったかのように微動だにせず目だけで追う。

「身体の大半はエバーグリーン。でも、ここは──」

 俺は胸を指先で指す。

「アイスグリーン」

 真正面で、片目の俺に自分の胸を突かれたこいつが、ようやくその目に戸惑いを見せた。

「全部、きれいだ」

 俺の言葉に、多分、赤面したのだろう。

 けれど、グリーンしか認識しない俺の世界では、お前の頬はミントグリーンにエメラルドグリーンを重ねただけだった。

 俺の指先はまだこいつの胸元にあり、触れた指先から鼓動が伝わってきた。それはさっきよりも大きく、そして早くなった。

「俺──」

 震える唇で、お前がつぶやく。

「そんなに色を持っているの?」

「ああ。毎日違うグリーンをいくつも重ねてる」

「それは、みんなと違うの?」

「だいぶ違う。こんなに沢山のグリーンを見たのは、こうなってから初めてだ」

 どくん、どくん、とお前の胸が音を立てている。俺の指を伝い、俺自身にもその振動が伝わってきそうだった。

「本当に──」

 早くなる鼓動。その音にも、色がついていたら面白いのに、と俺は思う。

「本当に、きれいなの?」

「ああ、きれいだ。全部」

 俺の左目は閉じたままで、右目だけがお前を見つめている。その目をじっと見返して、お前がさらに赤面したらしい。エメラルドグリーンは今やお前の全身を包んでいた。

 お前が何か言いかけて、その口を閉ざした。

 唇はアップルグリーン。

 俺はゆっくりと胸に触れていた指先を持ち上げた。

「あおりんご」

 わざと、色の名前ではなく、そう言った。

 その唇に触れて、俺は笑う。

 エメラルドグリーンは、さらに濃く、お前を取り囲む。

 俺はその指先をぺろりとなめた。

 りんごの味がするかもしれない、と思ったけれど、当たり前だが何の味もしなかった。

「ああ、なんだ──」

 俺は目の前のお前が、すっぽりとエメラルドグリーンに包まれてしまったのを見て、おかしくなる。

 この世界はグリーン。

 多分、全身真っ赤にして、俺の今の行動に混乱しているお前が、どうして沢山の色を持っているのか、俺には分かった。

 エメラルドグリーンに透けて見える、様々なグリーン。

 ゆらゆらと揺らぐ。

 それは、こいつだけを見分ける能力。

 多分、いつかすべてがグリーンに染まった世界で一人放り出されても、こいつの姿だけは、遠くからだって分かるはずだ。

 こんなに沢山のグリーンを身にまとい、俺の目をひきつける。

 お前がそっと、俺を見た。

 その瞳はクリアなモスグリーン。

 俺は左目を開いた。

「グリーンの世界で、俺は特別?」

 両目を開いた俺に、お前が訊ねる。

 俺は右目を閉じる。

 左目で見たお前は、焦げ茶色の瞳と、真っ赤に染まった頬をして、俺を見ていた。


 了



 網膜剥離のレーザー手術をしたことがあります。

 赤いレーザーを見続けていたので、目が錯覚を起こして、しばらくの間、世界は緑色でした。

 1時間ほどでその世界は消え去り、私の目は元の色彩を取り戻しましたが、もしあのままだったら、私はグリーンの世界しか認識しない左目と、ぽっかりと黒い闇を持つ右目を抱えて、さぞかし不便だったと思います。

 みなさん、目は大切にね(^-^)


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