四、春
桜の花びらが夜の闇に淡く舞っている。春の柔らかい風に、川の流れに乗って。
桜は咲くまであれほど待ち遠しいのに、いざ咲くとそんな思いなど素知らぬふうに、あっという間に盛りを過ぎて散ってしまう。人の生に似ているかもしれない、と燎月は川面を眺めながら思った。
当然、対岸には見慣れた姿もなければ心を和ませる音色もない。燎月の手にいつもの酒はなく、代わりに横笛があった。みぎわのあとを継いだ巫女から渡されたものだ。
――自分が死んだら、燎月に渡してほしい
そう彼女は言い残したらしい。師の遺言通り、代替わりの挨拶と共に手渡した巫女は師と目の前の鬼の関係を不審がることも
みぎわの後継者は師に及ばないものの、なかなかの霊力の持ち主だった。だが、敵わない相手ではない。多少の手傷は覚悟せねばなるまいが、みぎわよりはよほど楽な相手だ。
それでも。
横笛の代わりに大太刀を持ち、同朋に号令をかけ、前に立つ気にはなれない。約定を捨て、今まで人に軽んじられた屈辱と
燎月は手にある横笛に目を落とした。たとえ勇み暴れても、あの美しく神々しい巫女が現われることは二度とない。決着をつけたかったのもあるが、それ以前に全力で命を削り合うのが愉しかった。それがないのに、刃を振るって何になるというのか。
「つまらんな……」
ふと、燎月は横笛を構えた。記憶にあるみぎわの姿を真似るように。そして吹き口に息を吹き込んでみる。が、期待した音は出てこなかった。
笛の音は好きだが、生まれてこの方吹いた覚えは一度もない。力任せに吹いても、呼気は笛の中を素通りして気の抜けた音を出すだけ。
なぜ、ああもたやすく吹いていたのだ。苛立ちをぶつけようにも、その当人はいない。燎月は渋面になって、下ろした横笛を睨みつけた。
そのとき、川のせせらぎに紛れて、くすくすと笑う声がした。
「下手くそねぇ。人の演奏には茶々入れるくせに、自分では吹けないの?」
花びらのように軽い声音が神経を逆撫でた。怒気を隠さず、燎月は面を上げる。真紅の視線の先、対岸のいつもの場所に、いつものようにみぎわが座って笑っていた。
だが、その姿は最後に見たものとは異なる。容姿は彼女の霊力が全盛だった若い頃のもので、全身が闇に仄かに光り半ば透き通っている。時折、水鏡に映る影のように、その輪郭がぼやけて揺らめいていた。
死して霊魂となった彼女を、燎月は驚きもせず見つめていた。それが不満だったのか、みぎわが子どものように唇をすぼめる。
「少しは驚いてほしかったんだけど」
「
その言葉にみぎわは目を丸くしたが、そっと嬉しそうに表情を緩めた。
「そう、ありがとう」
素直に礼を言われると、抱えていた感情がぶつけづらくなる。燎月はふいっと顔をそらした。
「それにしても未だ
返事はなかった。さわさわと吹く風が、その間を申し訳程度に埋める。待ちきれず燎月が視線を戻すと、みぎわが切なげでどこか思い詰めた表情をしていた。
「……私、ずっとここにいたわ。川を渡らずに、ずっとここであなたと会ってた」
ああ、と短く答える燎月も同じだった。燎月もまた川を渡らずにここに座ってみぎわと相対していた。
この川は境目だった。この川はみぎわの祭神御汲守龍王と繋がっている。燎月に敵意ありと見れば、みぎわは即座に川を通じて祭神の力を借り受け応じただろう。ゆえに燎月は川を渡ろうとはしなかった。
――では、みぎわは。
「本当は渡ってみたかった。でも、渡れなかった。こんなに小さい川なのにね。でも、私は巫女だから、村を守らなければならないから、渡ることができなかった」
それは燎月もわかっていた。燎月とて、笛の礼に酒の一つでも飲み交わしたかった。
だが、それは叶うまい、と諦めてもいた。みぎわの巫女としての立場が、責任が、有り様が――生き方が妖と深く関わることを許すまい、と。
人は本当に不自由な生き物だ。みぎわを見るたびに、燎月は哀れにも思った。
「――けどね」
声色が変わった。みぎわはすっと立ち上がって燎月を見つめる。その真剣な眼光に、燎月は胸の奥がざわめくのを感じた。
「今なら渡れる。私はもう巫女じゃないから……ただの一人の女だから」
どくん、と心の臓が不穏に高鳴った。視線をみぎわに据えたまま、鬼の呼吸が浅く速くなる。
今のみぎわは巫女ではない。器となる肉体がないゆえに、神力を借り受けることもできない。霊魂のみでできる抵抗などたかが知れている。
つまり、極上の獲物が丸腰で近づいてくるのだ。鬼の本能がかき立てられないわけがない。
ごくり、と燎月は生唾を飲んだ。――喰いたい。
喰いたい、喰いたい、喰いたい。奪い傷つけ
これが初めてではない。幾度となく抱いたこの欲望を抑えていられたのは、みぎわが己の身を守れる巫女であり、――目の前に川があったからだ。
みぎわが一歩川に踏み込む。その素足は霊体であるがゆえに、水に浸かることなく水面に波紋を作るだけだ。
みぎわは今まで見たことのない顔をしていた。巫女でもなく、対岸に佇む奏者でもなく、――ずっと秘めていた恋情に突き動かされている女の顔。
燎月は顔を歪めた。知っていた。
知っていた。ああ、知っていた! 笛の音が彼女の心を何よりも正直に語っていた。彼女が己をどう想っているかを。
知っていた。知っている。――だから。
「来るな」
みぎわがはっと目を瞠った。踏み出しかけていたもう片方の足が止まった。燎月は片手で額を覆い、絞り出すように繰り返した。
「それ以上我に近づくな。我は……おまえを喰いとうない」
喰いたい。喰えば、みぎわは己が血肉となり我が物となる。己の中でみぎわは永遠に生き続ける。――だがそれまでだ。
爪で引き裂き牙を突き立てたい衝動と相反するように、常闇のような絶望も己の中で湧き上がってくる。喰らおうが喰らうまいが、みぎわの生は終わっている。しかし、それでも喰らえば何もかも終わってしまう気がした。
残るのは燎月だけ。過ぎ去った日々をここで思い返しては孤独に
「――あなたは優しいわ、燎月。本当に」
春風のように包み込む声が燎月を
みぎわもまた知っていたのだ。燎月が内に抱えている衝動と葛藤を。
知っていながら、渡ろうとした。その末に喰われても構わないとすら思って。
「……おまえは、人でありながら鬼のように残酷なのだな」
そう言うのがやっとだった。己を試す意図はさらさらないとわかっていても、燎月は言わずにはいられなかった。
みぎわは涙を浮かべたまま微苦笑している。全てを受け止めるような彼女に対し、拒絶することしかできない己が情けなかった。燎月は唇を噛み締めた。
川の流れに沿うように、風が吹き抜けていく。その風を受けて、みぎわがふうっと目を閉じた。若々しい緑と仄かな花の香が両者の間を通り過ぎていく。
みぎわは全霊で春の気配を感じているようだった。未練ごと洗い清めてもらうかのように。一息ついてまぶたを上げた彼女の瞳には、もう涙はなく、雪解け水のようにすっきりと澄んでいた。
「もう、行くわ」
短く言って、みぎわはきびすを返した。これから別の川を渡りに行くのだ。
そう思った途端、燎月の手が勝手に動いた。
「しばし待て」
不思議そうに立ち止まって振り返るみぎわの前で、燎月は己の首に下げていた
みぎわの手に落ちた勾玉は炎を封じ込めたように紅く輝いていた。
「
手の中できらめいている勾玉をじっと見つめていたみぎわがくすりと笑った。
「そう? 逆にあなたの妖気に引きつけられたりして」
「……要らぬなら返せ、無礼者が。人の好意を馬鹿にしおって」
「冗談よ。――ありがとう」
両手で大事そうに包んで、みぎわは柔らかく微笑んだ。満開の桜にも負けぬその笑顔に、不覚にも目頭が熱くなった。それをごまかすために、ふいっと燎月は顔を背けた
「もし生まれ変わるのなら鬼になればよい。妻に迎えてやらんでもないぞ」
「なら、それまでにまともに笛が吹けるようになってちょうだい。時間はたっぷりあるでしょうから」
軽やかに返して、今度こそみぎわは歩き出した。森の中――死者が向かうべきあの世へと。仄白いその姿が夜の闇に消えてしまうまで、燎月は瞬きもせず見送った。
さわり、とこの世のものではない風が一つ吹いた。再び己のみになった川辺で、燎月はふと笑みを零した。――我ながらつまらないことを言ったものだ。
来世があるのかわからない。
来世があっても、出逢えるかわからない。
出逢えても、前世の記憶があるとは思えない。
それに、あの清らかな魂が鬼に転生することはあるまい。また川を隔てて逢瀬を重ねる間柄になるかもしれない。
――それでも。
喰ってしまうよりははるかに良かったのだ、と燎月は己に言い聞かせ噛み締めるように思った。限りなく儚いとはいえ、望みを抱いてこの先生きていけるのだから。
みぎわがいつも座っていた場所に、燎月は不敵に笑いかけた。
「今に見ておれ。来世で逢うたときはあっと言わせてやる」
そのためにも、燎月は一つ深呼吸して横笛を構えた。
夜鳴川 なぎさ @nagisa_tensu
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