三、冬

 秋には賑やかに色づく木々も冬になると葉を落とし、あるいは雪をまとって静かにたたずむ。ただでさえ小さい川はさらに水かさが減らしているが、だからといって足を踏み入れる愚か者はいない。冬の寒さはここにも及び、熱という熱を瞬時に奪うからだ。

 澄み切った夜空には星の輝きすら凍てついて見える。笛の音もより鋭利となって、聴く者を切り裂くように響き渡った。

 月明かりに照らされたみぎわを、燎月は物憂げに眺めた。彼女のその整った面がいっそう白く見えるのは月の光や寒さのせいだけではないだろう。「久しぶり」という言葉を人に使うのはまれだが、今宵の笛の音は「久しぶり」に感じた。

 鬼にとっては短い年月でも人には長く、そして確実に寿命を削っていく。みぎわが三十を過ぎたあたりだろうか、彼女がここに来る回数が少しずつ減ってきた。四十になってからは数ヶ月に一度になってしまっている。ここに来てもみぎわの姿がないことに、燎月はいつしか落胆を覚えるようになった。

 こんなことで落胆する己が燎月は意外だった。旨いはずの酒がたった女一人いないだけで味気なく感じるのも不思議だった。

 さらに今、久々の音色だというのに素直に楽しめない己が妙に不愉快だった。


「……よくもまあ、かように寒い夜に出歩くものだ」


 この台詞は初めてではない。かつてはむっとした顔で負けん気を見せていたみぎわが、今は鷹揚おうように笑って返してくる。


「あら、人のこと言えた口?」

「ふん、我ら鬼には感じずとも人の身にはこたえよう。冬山を歩くは死にたがりのすることだ」

「心配してくれてるのかしら。どうもありがとう」

「減らず口は相変わらずよな、この小娘が」


 最後の一言にみぎわが微苦笑する。えくぼが見えるその顔は「娘」というには程遠い。黒くつややかな髪に白いものを見つけてしまい、口中に苦々しさを感じて燎月は乱暴に酒をあおった。

 みぎわは確かに歳をとった。だが、みぎわの老いは徒人ただびとのそれより早い気がする。

 寒さに備えて着込んでいるだろうに、みぎわは着太りするどころかそれでようやく徒人と同じように見える。そのことからも体が弱り病に伏せがちなのが察せられた。

 無理もないことだ。神の力は人の身には過ぎたるもの。いくら霊力が強く神降ろしを得意としていても、神力を受け入れるたびにみぎわの心身は摩耗まもうする。いや、みぎわがより多くの神力を降ろせるがゆえに、その分消耗が激しくなってしまっているのだろう。

 人は妖の脅威にすぐみぎわを頼る。だが、それにみぎわは己自身の命を削りながら応えているのだと知っているのだろうか。


「……でも、確かに寒さが堪える歳になったわねぇ」


 両腕を抱いて、みぎわが痩身そうしんをぶるりと震わせる。笛を吹く指とてかじかむだろうに、演奏は相変わらず良い。年数はみぎわの寿命を削っていくが、同時に笛の音色も磨いている。若さゆえの軽やかさは失われたが、代わりに年経た者特有の重厚な落ち着きと厳かさを帯びるようになった。

 また一つ彼女の老いに気づいてしまい、苦く重いものが燎月の腹の奥にたまる。それは酒を飲んでも消えてはくれない。


「酷い顔ねぇ。どうしたの? お酒の飲み過ぎで気持ち悪くなったとか?」

「黙れ。おまえら人と一緒にするでないわ」


 一蹴して、なみなみと椀に酒を注ぐ。そんな鬼を、みぎわは微笑みながら見つめていた。


「……あなたは変わらないわね。私はすっかり老いたけど」

「自覚はあるのだな。人の生は短いゆえ、おまえの命も残り僅かか」


 己で吐いた言葉なのに、なぜか後味が悪かった。それを気取られまいと、燎月は無理矢理口角を上げた。


「あのつまらぬ約定もあと少しというところか。邪魔なおまえがいなくなるのだからな」

「あら、それはどうかしら。今頑張っている子も相当の霊力ちからの持ち主よ。私ほどにはならなくても、約定を守らせるには充分でしょうね」

「師匠のひいき目でなければよいな。愉しみにしておこう」

「ええ、そうしてちょうだい。――けど」


 硬くなった声音に、燎月は片眉を上げた。鋭い寒風がさあっと吹き抜けていく。


「もし人が供物を忘れ祀るのを忘れたときは、あなたたちも約定を忘れて好きにするといいわ。良くも悪くも、人に約定が必要なくなったということでしょうから」


 そう言うみぎわはどこか哀しげだった。彼女が言わんとすることは何となくわかった。

 人の生は短く、世代を重ねていくごとに忘れ去られていくことも多い。約定もいつかそうなるだろう、とみぎわは考えているのだ。燎月たち鬼が破らないのなら、破るのはむしろ人のほうだろうと。村を守るために彼女が一生を捧げたに等しいものだというのに。

 命を削って守ってきた彼女のこともまた時の流れに呑まれ消え去ってしまうのか。そう思うと虚しくて腹立たしくて、燎月はまた酒を飲み下した。

 同朋どうほうの死に大して心動かさない己が、人であるみぎわの天命に動揺している。彼女の死を恐れている。ようやくそのことに、燎月は気づいた。


「……あなたでも、思い悩むことがあるのね。でも、やけ酒は止めたほうがいいと思うわ」


 当の本人はいけしゃあしゃあと気遣ってくる。澄んだ漆黒の瞳は己の懊悩おうのうを見透かしていそうで、燎月は思わず顔をそらした。

 それをどう捉えたのかわからない。だが、みぎわが立ち上がる気配がした。


「そろそろ帰るわね。あなたの言う通り、体に障るといけないから」

「ならば最初から来なければよいものを」


 顔をしかめて返すと、みぎわはふふっと笑う。しかし、唐突に目を見開いてぼうっと中空を見つめた。燎月を見ているようで、別のものを見ているような目。

 それも僅かな間で、はっと我に返ったみぎわは取り繕うように微笑み直した。


「次会うのは桜の咲く頃になりそうね」

「何かたのか」

「内緒。桜が咲けばわかるわ」


 おどけるようなみぎわがかんに障った。教えてくれないことではなく、はぐらかされたことに嫌な予感を覚えずにはいられない。

 表情に出してしまっていたのだろう、みぎわがなだめるように目を細める。


「大丈夫よ、また会えるわ。じゃあね」


 さく、さく、と雪を踏んで去って行くみぎわを、燎月はただ見送った。「またな」と声をかけることすらできなかった。











 予感は的中した。

 冬が終わり、雪がけて草木が芽吹く頃。

 それらと引き替えだったように、みぎわは病であっけなくこの世を去った。










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