海と砂と恋と血と

しゃくさんしん

海と砂と恋と血と

 タクシーの運転手にどこまで行くか聞かれて、私ははたと困った。今夜泊まる宿を探さなければいけないが、何の気なしに電車から降り立ったこの町に、知っている宿などあるはずもない。

「そうだな」

 私は少しぼうっとしてから、

「海が見えて、なるべく静かな宿はないかな」

 と聞いた。

 初老の運転手が、バックミラーからこちらへ、訝しむような眼差しを無遠慮に投げた。

「ありますよ。でも兄さんみたいに若い人が泊まりたがるような垢抜けたところ、ここらにはないですよ」

「いいよ。落ち着ければどこでも」

 バックミラーの中で目を合わせ、微笑みを浮かべて言うと、運転手のよく焼けた顔もふっと和らいだ。さっきまでの怯えたような顔つきが嘘のように、人の良さが滲んでいた。いかにも南の地に生まれ育った人という感じがあった。

 車が駅前を抜けるとすぐに、辺りの風景が変わった。

 道路の片側には木造の古ぼけた家々が並び、もう片側には空と海と砂浜だけが広がっていた。

 夏の真昼の太陽で、家々は光と影が濃く、道には陽炎がのぼっていた。海の方に目をやると、砂も波も激しい陽ざしを受けて、金の花が咲き乱れるように光の粒を散らしていた。砂浜の白や、空と海の混じり合った青が、眼を深く染めるように鮮やかだった。

「兄さん、この辺の人じゃないね」

 不意に運転手が、ラジオの音を下げながら言った。

「こんなところに観光かい」

「うん。まあ」

 私は曖昧に頷いた。観光というほどのものではなかった。時々、発作のように、あてのない旅に出るだけのことだった。

「物好きだね、温泉ぐらいしかないこんなとこに、それもこんな暑い時に」

 彼はそう言って自分で笑った。その声の無邪気さにつられて、私も笑いながら、

「こんなにいい天気なのに、砂浜に誰も出ていないんだね」

「ここの人間は海なんか見飽きてるよ」

「そうか。よそから人が来ても良さそうなものだけどな。こんなに綺麗なんだから」

 陽ざしを浴びているためもあってか、女の肌のように白い砂浜は、眺めているだけで胸の底から生き生きと明るんでくるようであった。

 眩さに目を細めながら視線を遠くにまで漂わせた。

 すると、海の色が微かに変わるところまで突き出た、ざっと十メートルほどの高い堤防の上に、小さな人影が霞んでいた。

「お、誰かいるな」

 私は胸中で呟いた。

 車が進むにつれて、二人の姿ははっきりとしてきた。表情までは見えないが、十歳くらいの少年と少女らしかった。

 少女がワンピースで少年はノースリーブだった。どちらも清潔な白で、肌の瑞々しい褐色が目立った。野蛮なまでに純粋な、生命の輝きがあった。

 堤防の傍まで来て、太陽に近い二人を仰ぎ見ると、いよいよ少女の美しさが迫ってきた。剥き出しの手足が、若木のぴんと張った枝のようだった。

 灰色の堤防の下にさしかかっても、私は窓を開けて顔を突き出し、少女から目を離さずにいた。夏草の匂いの濃い風が、荒く撫でるように吹き付けた。

 そこを通り過ぎて、堤防が後ろに流れていく。私は尻を浮かせて、遠くなっていく堤防を見つめた。

 その時、少女の身体がふっと空中へ跳んだ。

 ほっそりした肉体が、頭を下にして、矢のように美しい姿勢で落ちた。

 刹那に波を切り裂いて海中へ消えた。

 まるで、晴天から降る稲妻のようだった。

「何をそんな見てるんだい?」

 不意の運転手の言葉が、私を恍惚から醒ました。

 私は窓を閉め、シートに深く座りなおした。あまりに美しい驚きが甘い余韻となって、痺れのように残っていた。

「誰なんだ、あの子は」

 半ば夢み心地で、私は呟いた。

「は? あの子?」

「堤防から飛び込みをした女の子」

「……ああ。あの子を見てたのか」

「綺麗な子だ」

「もう十一になったのに、どうしよもないお転婆だけどね。まあそれも可愛らしいって言やあそうなんだけど」

「この辺の子か?」

「いやいや、この辺も何も」

 運転手がバックミラーの中でくすくすと笑った。

「今から兄さんを連れてこうとしてる宿の娘だよ」

「へえ、そうだったか。旅館の娘か」

 少女の美しい落下の姿につられてか、旅館の娘、という身の上からも、何とはなしに清冽な印象を受けた。私は口に出して言ってから胸の内でもう一度、旅館の娘、と呟いてみた。幼い天女のような可憐さに思えた。

「知り合いなの?」

「この辺は子どもが少ないからね。町のみんな可愛がってんだ。俺も孫がいるけど、遠くにいるもんだからよ。自分の孫みたいでいじらしいんだな」

「幸福な子だね。あんなに美しいわけだ」

「おうよ。そうやって俺もみんなも甘やかすからさ、駄々っ子でしょうがないけど明るい子だよ。兄さんも可愛がってやってくれな」

 私は再び、少女の飛び込みを夢に描いた。

 夢想に溺れようと目を瞑ると、車のゆるやかな揺れが急に意識に浮かび上がってきた。身体の底にまで滲んでくるようだった。

 揺れと混じり合って幻は溶けていくように崩れた。印象派の絵画のように、空や海や少女の色彩だけが形を失ってぼんやり脳裏を漂った。

 ふと気が付くと、青と褐色は、赤と雪の肌に移ろっていた。次第に形になるとそれは、舞衣子の手首に流れる血であった。

 まだ名も知らない憧れのような少女が、かつて心中をせがんできた捨鉢の娼婦を連想させたのは思いもよらなかったが、しかし、そういえば、舞衣子も甘えることで何とか生きているような女だった。いつも満たされない寂しさで、すがるように男を誘っていた。肌に触れられる瞬間にだけ、虚ろな眼は虚ろなまま、荒廃への陶酔に沈んでいた。薄氷に映る黒い炎のような、破れかぶれの美しさだった。

 彼女は全ての男に抱かれたいと夢見ているような女だったから、きっと心中をせがむようなことは私以外の男にもしてきたのだろう。赤ん坊のように愚図りながら手首をナイフで切り裂き、惨たらしく流れる血を見せつけたことも、一度や二度でもないのだろう。傷だらけのひどい手首だった。

 よりによって、愛情を遠ざける臆病者の私を前にして遂に死んだのも、舞衣子の運命の哀れだったといえるかもしれない。他の男ならば、本当に死ぬとなればさすがに心動かされて、最期の瞬間だけでも真実の抱擁なぞがあったかもしれない。私は冷たくなっていく彼女をただ見つめていただけだった。

 舞衣子の哀れさは、そんな私を愛したことでもあった。泥沼の底に転がって生きてきたのに、寂しさばかりに憑かれて他人の心に疎い彼女だったから、私の臆病ゆえの静けさをやさしさと誤ったのだったろうか。

 彼女は死の間際に、這いつくばったまま私に縋りついて、絶え絶えの息で言った。

「あたし、あんただけはほんと好きだったから、あんたの前で、やっと死ねるんだ」

 まるで乙女のような明るさだった。

 地獄でも肌を晒して、鬼に媚びるように舞うだろうと思える彼女らしくない、恋の面差しだった。恥じらいを含んでなお大胆な激しさがあった。純潔だった。頬に飛び散ったたくさんの血の粒がきらめいていた。

「きっと一緒に死んでくれるよね」

 それが彼女の、この世に遺した言葉だった。終わりまで哀れだった。

 愛をほとんど知らないが私は、美の麻痺を人生の救いとして盲目的に求める悪癖のために、悲惨な女を幾人も見た。しかし、彼女のその瞬間の凄絶な微笑ほど、私に深く焼き付いたものはない。

 今ここに再び舞衣子の肌が裂けるかのごとく、私の空想は血の色で染まった。

 暗く輝く赤だけが私を満たした。

 恋に狂う魂が流れ出るような、止めどなく溢れる血液の他には、もはや何も見えなかった。

 私は息をつきながらゆっくり目を開いた。ガラスの向こうに広がる夏の光は、さきほどまでより毒々しく見えた。激しい熱気の底に、舞衣子の血の匂いが仄かに漂うようだった。陽ざしに照り輝く海を眺めながら、舞衣子を焼く地獄の業火も、このように残虐な美しさだろうかと考えた。

 ほどなくして宿に着いた。小高い山の裾野にある、ひっそりとした古い民宿だった。三階建てらしかったが、何となく二階建てに見えるように、こじんまりとしていた。

 去り際に運転手が、窓を開けて人懐っこい目をこちらへ向けた。

「じゃあ兄さん、辺鄙なとこだけどゆっくりしてくれな」

「ありがとう。辺鄙じゃないよ。美しい娘がいるところが花の都だ」

 運転手は、私の脳裏に鮮やかな赤がまだ残っているのも知らずに、親しげな笑い声を上げて走り去った。

 宿に入るなり、何も言わぬうちに奥から女が出て来た。肥え太った中年の女だった。

「いらっしゃいませ」

「一人なんだけど、しばらく泊まらせてもらえるかな」

「ええ、よろこんで。お荷物お持ちしましょう」

 女は曖昧な笑みで頷き、私の鞄を受け取った。若い男の孤独な旅を不審がりつつ、それを隠す風情だった。

「ご出張ですか」

 女が軋む階段を上りながら言った。

「いや、観光だ」

 職を持たぬ身だとか、目的のない旅だとか、言うと余計に不審がられるのがいつものことだから、私は短く答えた。自分の声が思ったより無愛想に響いた。

 私は慌てて何か話そうとして、ふいにあの少女のことが浮かんだ。

「そういえば、ここの娘さんをさっきタクシーから見かけたよ」

「うちの娘ですか?」

 女は振り返らなかったが、素っ頓狂な声に驚きが表れていた。

「うん。運転手にここの娘だと聞いたよ。堤防から綺麗に飛び込んでた」

「ああ、それは私んとこの娘ですね」

「あなたが、あの子の母さんか」

「ええ。毎日宿のこと何にも手伝わないで海で遊んで、男の子みたいに真っ黒でみっともないでしょう?」

 女は笑い交じりに言った。肉親のことに話が及んだからか、声色が急に打ち解けてきた。運転手といい、この母といい、健康な土地のためだろう、みんな愛くるしい暢気さだ。

「みっともないなんて、とんでもない。清らかな娘さんだ」

「清らかだなんて、おおげさですよ」

 二階の部屋に通された。窓一面が青かった。この町の者は、朝も夜も、この壮大な海を見て、潮風を浴びて、生きている。そんな当たり前のことを思って、それを少女の美しさの秘密のように考えてみた。

 我ながら陳腐だと思ったが、とはいえその浪漫に遊ぶのは心安らいだ。

「夕食は何時ごろになさいましょう」

 女が茶を注ぎながら言った。

 私は窓の前に立ち、海を眺め少女の美しさに酔いしれていた。

「何時でも。都合のいい時に」

 私はろくろく考えもしないで答えた。

 女が部屋を出て行ってからも、私は長いこと、きらびやかな海を見つめていた。




 畳に寝転んでうつらうつらしているうちに、ふと気付くと、青空にたなびく雲が赤かった。

 私は立ち上がって、夕映えの海を眺めた。何かを叫んでいるかのような、切ない激しさを湛えて波打っていた。

 まるで海の遥か底まで染めるような燦爛たる太陽は、初心な少女の頬にも、鮮やかな血にも見えた。

 私のうたたねが破れたのは、「ただいま」と、階下から高い声が響いたからだった。海を眺めてから、再び畳に横になろうとしていると、また話し声がもれてきた。

「あんたまたこんな時間まで遊んで」

 女の窘めるような声がすると、清冽に弾んだ声は、

「だってまだまだ明るいもん」

「夏だからね。夏だから明るいだけさ。もうお客さんのご飯の時間じゃないか、いっつも手伝いの一つもしないで」

「お日さんを怒ってよ。サチが早く帰るように、すぐ沈むようにしてくださいって」

 可愛い憎たらしさに私は微笑みながら、あの少女はサチという名なのか、と思った。私は、サチと口の中で小さく呟いてみた。

 すぐに、階段を上る音がした。その足音の軽やかさですぐに、母ではなく少女が来たのだと分かった。母に夕食を運ぶぐらいの手伝いはするように言われたのだろうと思った。足音に聞き惚れながら私は、その少女の姿を夢想した。背中の純白の羽をそっと動かして、跳ぶように軽々と階段を上がってくる……。

「お夕食をお持ちしました」

 戸の向こうで、すました声がした。

 はい、と短く答えると、戸が開いて、少女が廊下に正座をしていた。いつの間に着替えたのか、桃色の仲居服を着ていた。

「こんばんは。お夕食をお持ちしました」

「ああ、うん。ありがとう」

 私が会釈すると、少女も返した。大人たちのような強張りのない、心安い笑みだった。浅黒い頬のえくぼと、小さな八重歯がふっときらめくように目についた。

 またしても、舞衣子の細い手首を流れる血が、私の中を流れた。

「そういえば、昼頃に君を見かけたよ」

 出し抜けに私は口を開いた。言わなくても良いことだったが、少女の美しさに酔うように、思いつきのまま言ったのだった。

 少女のあどけない目鼻立ちだけが、私の視界にあった。

 舞衣子の血が、目の裏に霞んでいた。

「堤防のところで。綺麗な飛び込みを見せてもらった」

 少女は、私の言葉を意外そうにぽっかり聞いたが、みるみるうちに眼を強くした。

「昼の堤防って、リュウタといた時かな?」

「リュウタ? ああ、あの少年はそんな名前なのか」

 私が言うと、少女は、慎ましく頷いた。まだ幼いかたちをした可憐な唇を、燃える花のような女らしい微笑みが彩った。

 少年といたところを目撃された彼女のはにかみは、白光の爆ぜるように、私の心に一閃した。

 そして、目の裏に浮かぶ舞衣子の血の幻が、一段と濃くなった。

 私は納得して、秘かに胸中で呟いた。

 ああ、そうか、この子は恋をしているのか、と。

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海と砂と恋と血と しゃくさんしん @tanibayashi

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