その赤は美酒のように

いよいよ、あの日から丁度11ヵ月が経とうとしていた。


疲弊していたはずのジャンも、その日ばかりは活き活きとしていた。


心配するサラは、



「大丈夫?顔色が悪いみたいだわ」



と、一声掛けたが、ジャンは、



「大丈夫。今日いよいよワインが出来上がるんだ。


良い物が出来たらすぐに呼ぶから」



と、サラを制して家に戻した。



ジャンはワイン蔵の丁度真ん中あたりに椅子を置き、そこに静かに座していた。


目を瞑るわけでもなく、しかし、はっきりとした眼光でもなく、


そこには、ぼんやりとした目で宙を仰ぐジャンの姿があった。


ジャンは待っていた、11ヵ月ぶりに聞く、あの声を。



「おやおや、今日はやけに仰々しい歓迎の仕方だな君は」


「待っていたよ。お前の声がするのを。


お前の言った通り、テイスティングは一切しなかった。」



ジャンは不敵な笑みを浮かべていた。



「勿論知っていたさ。君は約束を守るタイプだと」


「この日をどれだけ待ちわびた事か。本当に地獄の様な毎日だったよ。


もう瓶詰めまで全て終わっているよ。良いんだろう?試しても」


「あぁ。君はやり遂げた。存分に楽しんでくれたまえ」



ジャンは瓶詰めしたての一本を取り出し、勢い良くコルクを抜いた。


グラスにワインを注ぐと、ジャンは胸が高鳴った。


これで全てが変わるのだ。そのはずだ、と。


グラスを鼻に近付けると、タンニンの重い香りが脳内を駆け巡った。


しかし、想像していたレベルの物ではなかった。


香りがイマイチなのは仕方のない事だ。


熟成期間があまりにも短過ぎる。


肝心なのは味だ。味さえ良ければどうにでもなる。


意を決してジャンはワインを口に運んだ。



「これは・・・」



不味いどころではない。酷い味だ。この世の物とは思えない程、


ジャンが今まで作ったワインの中で最低の代物だった。



「お前! よくも俺を騙したな!」


「俺がいつ、最高に美味いワインが出来上がるなんて言った?


君が勝手にそう思い込んでいただけだろう」


「畜生。サラになんて言えば良いんだ。俺はもう御終いだ」



その時、どこからか笑い声が聞こえてきた。勿論、声の主はあの声だ。



「はっはっ。これは失敬。最後に重要な工程を忘れていた様だ」


「なんだって。早く、早くそれを言え!」


「血をほんの少し、ワインに混ぜれば判るさ」


「な、バカな事を言うな!」


「勿論、無理にとは言わないが、試してみる価値はあると思うぞ。


グラスの淵に付けるだけで良いんだ。さぁ、試してみたまえ」



ジャンは、コルク抜きの先端を指に突き刺した。


その傷口から、僅かに血が滲みだしている。


血が滲んだ指で、グラスの淵を拭った。


血の付いた部分を口の方に向け、もう一度グラスを傾けてみる。



「こ、これは」



先程とは打って変って、芳醇な香りと味が口の中に広がる。


恐ろしい程の鉄分とタンニンのバランスの良さ。


そして何より身震いするほどの濃厚な味。


ジャンが今まで作ったワインの中で、ずば抜けた出来だった。



「おめでとうジャン。今日は素晴らしい記念日だ。共に祝おうではないか」


「あぁ、そうだな。盛大に祝わなければ。しかし、祝うにはワインが足りないな」


「血を注ぐのは、1つの樽に1滴で良いんだが、


流石に君の血を無駄に流すワケにはいかないな」


「そうだ。その通りだ。俺はこのワインをこれからも作らなければならないな」


「では、こういうのはどうだろうか。君の一番近くにいる人を使うんだよ」


「俺の一番近くにいる人。あぁ、それは良い考えだよ」


「あれの血なら、一体どれだけの数のワインが作れるだろうか、実に楽しみだ」


「それはそれは美味しいに違いない。実に楽しみだ。」



「さぁ、美味しいワインをもっと沢山作ろうか」

「あぁ、美味しいワインをもっと沢山作ろうか」



はっきりと聞こえていた声が朧気になっていく。



「今日は盛大に祝わなければ。なぁジャン?」



その声は、確かにジャンから発せられていた。


もうジャンの耳に、その声は届かない。


ジャン自身が、その声なのだ。



ジャンは、サラをワイン蔵へと誘いだした。


ジャンは笑顔でサラを出迎える。



「サラ。やっと出来上がったんだ。見てくれ、この美しい色を」



サラはジャンから渡されたグラスを繁々と見つめる。


後ろからサラを抱きしめ、ジャンは耳元で呟いた。



「これからもっと美しい色になるんだ。今日はお祝いだ。盛大にやろう」



サラの首元から美しい鮮血が溢れ出す。


ジャンが持つグラスには、ワインにも似た深紅の液体が注がれていく。


恍惚の表情で深紅の液体がなみなみと注がれたグラスを持つジャンは、


高らかに笑い声を上げた。



初めは2つだった声が、次第に1つになっていく。

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悪魔のワイン T_K @T_K

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