その声はいつも突然に
翌朝、重い足取りでジャンはワイン蔵へやってきた。
今日から作るワインは、もしかすると生涯最後のワインかもしれない。
その思いが頭から離れず、中々作業に集中出来ない。
また、もう失敗は出来ないという重圧から、考えもまとまらずにいた。
いっその事、もう辞めてしまおうか。そう思った矢先の事だ。
「明日、プラボーからブドウを摘んで、下処理を済ませろ」
「だ、誰だ!?」
突然の声にジャンは身構え、注意深く辺りを見回した。
しかし、人の気配は全くない。
用心の為、昨日使ったまま置いていた鋸を手にする。
「聞こえなかったなら何度でも言うさ。
明日、プラボーからブドウを摘んでくるんだ」
またしても同じ声がジャンに語り掛ける。しかし、やはり人の気配はない。
「見渡したところで何も見えるワケがないさ。
俺は君に直接話し掛けているのだから」
どうやら、自分には幻聴が聞こえている様だ。
過度のプレッシャーに耐えられなかったのかもしれない、とジャンは思った。
「君は呆れた男だ。現実逃避をしたところで状況は変わらないだろう」
ジャンは置かれている状況をなんとか理解しようと、心を落ち着かせた。
「お前は誰だ。どこから話しかけているんだ」
「そんな事はどうでも良いだろう。大事なのは、君が今日何をするかだ」
反論する事も出来ただろうが、確かに、この声の言う通りだ。
大事なのは今日、自分が何をすべきなのか。
こんな事をしている間にも、生活は刻一刻と厳しくなるのだから。
ジャンも落ち着きを取り戻した。
「そう、それでいいんだ。君はこれから、ブドウを摘みに行くのだろう?」
「あぁ、そのつもりだ」
「ならプラボーの畑のブドウが良い。それも今から30分後。
丁度太陽が真上に来たくらいの時に、だ」
「何故、そう言い切れるんだ?」
「騙されたと思ってやってみれば判るさ。どの道、まだ何も決まってないだろう」
確かに、その声の言う通りだった。
どこの畑で摘むか、どの品種を摘むかすら、まだ決まっていない。
「それで、その後どうするんだ」
「君はそのブドウで赤ワインを作るんだ。
今までにない程、深紅のワインを。
その為の一歩だ。さぁ、摘みとるまで後27分しかないぞ」
「わ、わかった」
得体の知れぬ声に従う等、どう考えても馬鹿げている。
しかし、追い詰められたジャンには、その声が何者なのか、
本当にそうすべきかの判断など、出来るわけもなかった。
言われるがまま、プラボーからブドウを摘み、下処理を施す。
「それで、これからどうすればいいんだ」
「次に俺の声が聞こえるまで発酵させておけばいいのさ。
それくらい、君になら簡単な事だろう?」
「判った。やり方は俺のいつものやり方でいいんだな」
「そうだ。それでいい。ただ1つ約束だ。
今後、俺が良いと言うまで、絶対にテイスティングはしない事。」
「テイスティングしないだって?」
「簡単な事だろう?」
「それは、そうだが」
「はは。次に君と話す時が楽しみだ」
声に促されるまま、ジャンはワインを発酵させる準備を整えた。
ここまでくれば、もうどうにでもなればいい。
ジャンは半ば自棄になっていたのだ。
声の約束通り、テイスティングは疎か、香りを嗅ぐ事すらしなかった。
2週間程経った頃、流石のジャンも不安になってきた。
そろそろ発酵を止める段階なのだが、あの声は一向に聞こえてこない。
ただ焦りだけがジャンに募っていく。
17日目を迎えた夕暮れ、
疲れもありウトウトとしていたジャンを呼ぶ声が聞こえる。
サラか?そう思って目を開けたが、辺りには誰もいない。
これは、もしかすると、あの声か!
ジャンは静かに再び声がするのを今か今かと待っていた。
「では、次の段階に移ろうではないか」
「もうお前の声は聞こえないかと思っていたよ。
誰かに騙されたか、ただの幻聴だったんじゃないかってね」
「おいおい。君は信じていなかったのかい?
その割には、ちゃんと約束は守っているじゃないか」
「そりゃぁな。もう後には引けない」
「その通り、君はもう後には引けない。
なんとしてもこのワインを完成させなければならないのだから。
さて、このまま熟成まで進めようではないか」
「どうすればいいんだ?」
「何も特別な事はしなくて良い。ただ、いつも通り、熟成させるだけだ。
期間は、そうだな。11か月で良いだろう」
流石のジャンも思わず声を荒げた。
「ふ、ふざけるな!たった11か月だと!?
今更安酒を作って何になるって言うんだ!」
「君には早い方が良いだろう?」
「くっ。そ、それはそうだが」
「11か月後には全てわかるさ。
さぁ、早く取り掛かるんだ。時間は待ってはくれないぞ」
「くそ、もうどうにでもなれ」
「改めて言うが、テイスティングはするな。引き抜いたワインもだ。
それ以外は、いつも通り、君が作りたい様に作ればいいだけのことだ」
「わかっている!」
ワインの熟成期間は最短で11か月は必要であり、
それ未満になると格付け、味共に格段に落ちるはずである。
声の主は一体何を考えているのか、ジャンには知る術もなかった。
それからの11か月間は地獄の様な毎日が続いた。
最後のワインが出来上がるまで、散々金策に走り、何とか持ち応えた。
売れる物は売り払い、プライドを捨て、同業者や親類達に頭をさげて回った。
だが、ジャンにとって何よりも辛かったのは、
日々変化するワインに対して一切テイスティング出来ない事だ。
今まで、日課であった行動を抑制される事は、
人間にとって耐え難い苦痛であり、屈辱であった。
得体の知れない、何者かすら分からない声の言う事を聞いた先に何があるのだろか。
ジャン自身、既に冷静な判断を取れなくなっていたのは確かだ。
しかし、ジャンは賭けるしかなかった。もう、後戻りは出来ない。
何かに縋れる事程、全てを失い掛けた人間にとって、
心の拠り所になる物はなかった。
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