第30話 桜査警公社は、今日も平常運転

その日、防犯警備部門の一角では、特務一課内でも阿南班と篠田班に所属している女性社員が集まり、世間話で盛り上がっていた。


「ねえ、そう言えば今度の仕事って、菅沼さんが昔カモられた奴から、巻き上げ返した事が発端なんでしょう?」

全く悪気が無さそうに、その場での最年長の先輩からそんな事を言われた真紀は、深々と溜め息を吐いてから訂正を入れた。


「小倉さん……。今の発言には、少々事実誤認があります。奴から直接ではありませんし、別に好き好んで大金を巻き上げたわけでもありません。寧ろ、押し付けられたと言った方が正しいかと」

「まあまあ、そんな些細な事はどうだって良いじゃない。結果として、こんな景気の良い話に繋がったんだから」

最初にこの件に絡んでいた裕美が笑いながら宥めると、彼女と同じ篠田班に所属している長谷川紀香が、興味津々で尋ねてくる。


「そう言えば、その元ホストの元代議士秘書さんは、その後どうなったの?」

その問いに、すかさず周囲から合いの手が入る。


「そうそう、私もそれが聞きたかったのよ! だって菅沼さんに会う為に、わざわざここまで出向いて来たんでしょう?」

「しかも本人の目の前で、美樹様にボロボロにされるなんて、何て不憫!」

「思わず『何年も、自分の事をこんなに好きでいてくれたなんて、真紀感激!』とか、うっかりほだされたりとか無かったわけ?」

もう完全に面白がっているとしか思えない言動に、無表情になった真紀が低い声で恫喝した。


「皆さん、全員纏めて絞めても良いですか?」

「……すみません」

「調子に乗りました」

さすがに彼女の本気の怒りが分からない面々では無く、全員神妙な顔で口を噤んだ。すると長谷川が、さり気なく話題を変える。


「私、あの時『乱闘騒ぎが起きている』と聞いて、武道場に様子を見に行ったけど、さすがにあそこまで心身共にズタボロにされたなら、もう菅沼さんに近付こうとは思わないわよね。だけど二人の認識の落差が凄まじくて、本当に笑っちゃったわ」

「ああ、あの時の事は私も後から人伝に聞いて、思わず笑ったわね。例えて言うなら、富士登山の時の一合目の違いかしら」

そう小倉が口にした途端、周囲が揃って困惑した顔になった。


「はぁ?」

「何、それ?」

「意味が分かりませんが……」

その反応に、登山はしないまでもトレッキングが趣味の小倉は、意外そうに解説した。


「あら? 知らない? 富士山の登山ルートは、主だった所だと『吉田口登山道』、『富士宮口登山道』、『須山口登山道』、『御殿場口登山道』の四つがあるけど、同じ何合目と言っても、それぞれの標高が違うのよ」

「え? 標高を十等分して、下から一合目二合目って数えていくんじゃないんですか?」

その場で最年少の桐谷が本気で驚きながら尋ねると、小倉は笑って説明を続けた。


「それが違うのよね。富士山って中腹まで車道が通っているから、一般的にその道路の終点である『五合目』が登山口とされているけど、そこでもルート毎に結構標高が違うわ。因みに御殿場ルートの五合目の標高は1440mだけど、吉田ルートの一合目の標高がそれより高い1520mになっているのよ。須山ルートの一合目は1450mだから、それよりは違いはないけど」

「えぇ? それじゃあ、あるルートの五合目が、他のルートの一合目より低い事になってるんですか?」

「そういう事よ。結構面白いでしょう?」

「それは不勉強でした」

素直に桐谷が頷き、他の者も納得したように頷く中、小倉が話を纏めた。


「だから菅沼さんとその元ホストは、二人とも同じ《恋愛成就》って山を登っていて、互いに同じ一合目にいると思っていても、菅沼さんは御殿場ルートの一合目で、元ホストは吉田ルートの一合目位の差があったのかなって思ってね」

「その認識は、完全に間違っているみたいですね」

「あら、例えになっていないかしら?」

冷静な突っ込みが入った為、小倉が首を傾げると、裕美が真顔で持論を展開した。


「同じ山に登っているつもりで、菅沼さんは筑波山を登っていて、奴が富士山に登っていたって言う位、違うと思います」

それを聞いた周囲が一瞬顔を見合わせてから、楽しげに笑い出す。


「そりゃあそうですよね~!」

「岸田さんに一票!」

真紀も苦笑いしかできなかったが、桐谷が笑いを堪えながら言い出した。


「本当にその元ホスト、あれからどうしたのかしらね。ショックで野垂れ死んでいたら、さすがに寝覚めが悪いけど」

その意見を聞いた裕美が、鼻で笑って答える。


「ガキじゃあるまいし、自分の食い扶持位は自分で何とかするでしょう。案外古巣に戻って、ウキウキ働いているかもよ?」

「え? 古巣って?」

「ホストになる前に、何か他の職に就いていたんですか?」

 周囲が揃って怪訝な顔になったが、裕美は真顔で首を振った。


「そうじゃなくて、ホストクラブに戻ったんじゃないかなって」

「……はぁ?」

そして裕美以外の者が揃って呆気に取られて黙り込んでから、すぐに爆笑が響き渡った。


「ぶわぁっははははっ!! きっ、岸田さん、冗談キツいっ!!」

「さっ、三十男が、ホストクラブに返り咲きって!!」

「ないない、有り得ませんって!!」

「幾ら何でも、もう需要無いでしょう!?」

「あら、そう? 案外老け専の客から、バンバン指名がかかっていたりして」

「いっ、いやぁあああっ!! これ以上笑わせないでぇぇっ!!」

「お腹痛いぃぃっ!!」

大抵の者はお腹を抱えながらしゃがみ込んで爆笑し、自分の机で仕事をしている他の社員は、そんな彼女達を迷惑そうに眺めた。そんな微妙な空気の中、長谷川が冷静に裕美に疑問をぶつける。


「三十代で、老け専にモテるかなぁ……。そういうのはもっと上の、四十代五十代のホストの話じゃないですか?」

「あら、そう? それなら三十代のホストって、需要が無いの?」

「そうですねぇ……、余程容姿と話術とテクが良くないと、拾って貰えなくて余るんじゃありません? それを乗り越える事ができてこそ、四十代五十代のいぶし銀経営者にランクアップできると思います」

「そうなのね。ホスト界で三十代は、ゆとり世代ならぬ隙間世代か。それは知らなかったわ」

そんな傍目には大真面目なやり取りをされて、真紀は勿論他の者も全員、息絶え絶えになりながら笑い続けた。


「ひっ、悲惨っ! 余るって……」

「お、お腹痛っ……」

「も、もう駄目……、死ぬっ……」

しかしここで頭上から、怒りと呆れを内包した上司の声が降ってくる。


「お前達、集合だ。さっさと来い」

「はい、申し訳ありません」

「すぐに参ります」

その指示を聞いた途端、彼女達は瞬時に真顔になり、勢い良く立ち上がって移動を開始した。そして杉本部長の机の前に主任である阿南と篠田が並び、その後ろに彼女達五人が横一列に並ぶと、その場全員を代表して阿南が報告した。


「部長、全員揃いました」

「ああ、ご苦労」

それに頷いた杉本は、その場全員を見回しながら、重々しい口調で言い出した。


「君達には先程概略を知らせた通り、再来週から会長のご子息の美久様と、会長の妹さんの小早川様母子の中国旅行の護衛引率をして貰う。総責任者は阿南主任、副責任者は篠田主任でつつがなく日程を消化してくれ」

「了解しました」

「お任せ下さい」

前列の二人が冷静に応えるのを見た杉本は、少々恨みがましく真紀に視線を向けてから、冷静に話を続けた。


「誰の発案なのかは知らないが……、小早川様が社会勉強の一環として、上のお子さんを連れて海外旅行に行かれる事にしたら、下のお子さんを預かる事になった会長が『それなら美久も一緒に連れて行って欲しい』と仰られたそうで……」

そこで深々と溜め息を吐いた杉本が、部下達に鋭い視線を向けながら厳命した。


「良いか? くれぐれもお三方が事件や事故に巻き込まれたりしないように、全日程万全の態勢で、最大限の注意を払え。分かったな?」

「分かっております」

「ご安心下さい、部長」

主任達が力強く頷いた背後で、真紀達も小さく一礼したのを見て、杉本はなんとか不安を抑え込んで話を終わらせた。


「それでは皆、解散してくれ」

しかしそれと同時に、桐谷が拳を天井に向かって突き上げながら、嬉々として歓喜の叫びを上げる。


「いやったぁぁ――っ!! グルメにエステにカジノに観光よ! 全部経費よ――っ!?」

「おい、桐谷。お前な」

「そうよねー。会長の妹さんはプライベートでの旅行だし、あまり仰々しく護衛できないものねー」

「さり気なく同行して、お世話しつつ護衛しなくちゃいけないし」

「岸田に長谷川も、物見遊山じゃ」

「菅沼さん、偉い! よくやった! こんなにおいしくて豪勢な話、滅多に無いわよ!?」

「それもこれも、あの間抜けで気の毒な元ホストに、感謝しないとね!」

「違いないわ」

そして主任達からの咎める声など完全に無視しながら、上機嫌に「あはははは」と豪快に笑い合う女傑達を見て、杉本は不安だらけの表情で男二人に頼み込んだ。


「阿南、篠田……。くれぐれも宜しく頼む」

「全力を尽くします」

縋るような目を向けられた二人は心底うんざりしながらも、仕事だと割り切って杉本に向かって頭を下げた。


場所は変わって、信用調査部門。

自分の机で書類に目を通していた小野塚は、不審な物を見つけてしまった為、思わずそれを持ち上げてしげしげと眺めてしまった。

「……うん? 何だこれは?」

しかしそれが自分の手に回って来た意味が分からなかった為、彼はすぐさま席を立ち、上司のもとへと向かった。


「部長、今宜しいですか?」

「ああ、構わないが、どうかしたのか?」

「どうして新規採用者の資料の中に、奴の物が入っているんですか?」

小野塚が「佐藤健介」名義の資料を差し出しながら尋ねると、吉川は途端に渋面になりながら事情を説明した。


「実は……、あの騒動の後、奴が懲りずに来社して、受付担当者とエントランスで押し問答をしていた時、偶々来社した社長と顔を合わせたそうだ」

それを聞いた小野塚は、呆れ果てた顔になった。


「奴はどうしてあれだけの目に合わされて、またのこのこ出向いて来るんですか。マゾですか?」

「あれだけ心身共にズタズタにされたから、余計に自分の事を認めさせたいと、ムキになったのかもしれんが……」

そこで疲れたように溜め息を吐いた吉川に、小野塚は疑わしそうに尋ねた。


「まさかあいつ……。社長相手に『自分を雇ってくれ』とやらかしたわけでは無いですよね?」

「やらかしたから、これがここにあるわけだ」

それを聞いた小野塚は、片手で顔を覆いながら呻いた。


「……馬鹿だ。あの社長が直談判に感動して、無条件で就職を認めるなんてあり得ないのに」

「当然だ。交換条件を出された」

「交換条件?」

嫌そうに問い返した部下に、吉川は微妙な表情で話を続けた。


「ほら、先だって桜様が、『ホストクラブで小娘に馬鹿にされた。あの女に思い知らせてやる!』とお腹立ちになって、色々調べさせているのは知っているだろう?」

「小娘と言っても、四十代ですがね……。全く、手の掛かるばあさんだな」

公社の前会長であり、自身の遠縁でもある老婦人の傍若無人ぶりに溜め息を吐いた小野塚だったが、吉川の話は予想外の方向に流れた。


「それで彼女の夫の会社も含めて、詳細まで調べて裏工作しているところだが、桜様のご意向としては、やはり現場となったホストクラブで、屈辱にまみれさせてやりたいらしい」

「何を張り合っているんだか……」

「それを耳に入れていた社長が、奴に『あるホストクラブに潜り込んで、必要な情報収集と裏工作ができたら、採用を考えてやっても良い』と仰ったそうだ」

それを聞いた小野塚は、本気で驚愕した。


「はい!? 本当にあいつに、ホストクラブで働けと言ったんですか!? それできちんと活動できたら、本当に信用調査部門で採用するんですか?」

しかし吉川は、その問いかけに対して、否定の言葉を返した。


「……いや、社長は『採用を考えると言っただけだ。誰も採用してやるとは言っていない。だが俺も鬼では無いから何かあった時の為に、活動期間中の保険加入位は面倒をみてやるし、バイト料位は払ってやる』と仰っていた」

それを聞いた小野塚は、公社トップの容赦の無さに本気で呆れた。


「上手く使えたら儲けもの。使い切ったらポイ捨て前提ですか……」

「そういう事だな。それにどうやってか、もう潜り込んだらしいぞ?」

「なまじ頭が良くて小器用な分、救いようがないですね」

「それに仕上げは、そのホストクラブでの豪遊対決になりそうだからな。社長が『どうせなら制裁対象の女より若い菅沼に乗り込ませて、その女が太刀打ちできない位豪遊させて、馬鹿にして嘲笑ってやれば、ばばあの気も晴れるだろう。ついでにその元ホストのアホ面も撮れれば、ばばあが更に喜ぶことは間違いなしだ』とか仰っていたし。だから取り敢えず、今は試用期間の扱いだ。そのつもりで処理してくれ」

「本当に容赦ないですね……。了解しました」

小野塚はこれ以上何を言っても無駄な事を察知し、書類を手におとなしく引き下がった。

そして本人が知らないところで、使い捨て前提の健介の処遇が決定し、桜査警公社は何事も無かったかのように、平常運転を続けていくのだった。


(完)


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