第11話

 愛美はまた一人になった。


 これからとぼとぼと家路につき、せいぜい宅配ピザのチラシくらいしか入っていない郵便受けをあらためる。それから、自分しか触らないドアノブに無造作に鍵を差し込む。真っ暗な家に帰る。蛍光灯の、低く微かな、ジー……という音。無理にテレビをつけるまで、部屋を支配している時計の秒針の音。電気を消して寝る直前に聞こえる犬の遠吠え。


 明日からまた、すき間すき間に浸透してくる、そうした孤独を追い出すのに躍起になっている自分がいるのだろう。あかりを抱いた後に愛美の両腕に残っていたはずの軽い痛みさえ、すでにリアリティーを失いかけていた。


――この痛みが完全に消えてしまう前に、今にもあの兄妹が、私のもとに駆け戻ってきてくれるのではないか。私が孤独な日常に戻っていくのを引き留めてくれるのではないか。


 愛美はしばらくの間、その場にたたずんでいたが、やがて小さく息を吐いて、歩き始めた。


“マーヤには、人の想いが色になって見えるの。ママがパパを想う気持ちは、薄紅色なのよ”


 めぐるは母親からそう聞いたと言っていた。そしてその母親は、マーヤから教えてもらったらしい。だがそれは、ヒゲのシェフ、直樹が、母親に教えたのではあるまい。あの母親が、めぐるへの問わず語りで、自分の「想い」の色を、その場で例えたのだろうと愛美は思う。


――じゃあ、今の私の「想い」の色は……?


 めぐるは言った。


“おばさん、ヒゲのシェフのこと、まだ好きなんでしょ? 僕にはわかるよ。想いが濁ってないんだね、おばさん。”


――おばさん……かあ。「おばさん」って言葉、今日私、自然に使ってたなあ……。


 愛美は交差点で立ち止まって、歩行者用信号機の赤を見るともなく見ていた。


“ちょっと、直樹さん、あなたにおばさんって言われる筋合いは……”


 あの時、直樹さんは確かに笑っていた。


 子どもたちも笑っていた。


 幸せだった。


“好きって言えばいいのに。ヒゲのシェフはもう許してくれてるよ、きっと”


――めぐる君、おばさんね、自信がないの。マーヤに訊いても「赤」、「止まれ」だよ、きっと。年数が過ぎたら、赤が薄まって、薄紅色になるなんて期待は、私には許されないのよ。


 その時、愛美のスマホが鳴った。


 直樹からだった。


「もしもし……」


「僕だ。子供たちは?」


「うん、今無事送り届けたところ」


「じゃあ今一人だね?」


「うん」


「愛美さん、打ち合わせ通り、今、星兄妹の手紙、発見した。夜だしあんなところ誰も注意を払わないから、すぐ発見できた。『お店が閉店してからここにある木のうろへ手紙を取りに来て』なんて、君のアイデア、さえてるね」


「ああでもしないと、あの子たち、納得して家に帰ってくれないと思ったからよ」


 電話の向こうで直也は咳払いをした。


「少し、長くなっても?」


「いいわ、話して」


「悪いけど、彼らがマーヤに依頼した手紙、読ませてもらった。二人とももう、『痛い』とか、『お腹減った』とか、口に出さないようにしようねと、約束し合ってるんだそうだ。後パパに叩かれず、給食が食べられる、学校にいる間だけが楽しみなんだって。だけど、ママが亡くなって、さびしくて悲しいって。どんなに怖いママでもいいから、やっぱりいて欲しいって。ママにいなくなって欲しいなんて思ってごめんなさい。どうしても生き返って戻ってきてくれないなら、僕があかりと一緒に、天国のママのところへ行っていいですか、って書いてあった」


「そう……」


 愛美は直樹の話を聞いて改めて思った。行きのケーブルカーの中で、マーヤの伝説を愛美に話して聞かせてくれたときの、めぐるの瞳に宿っていたあの光。それは、妖精に会えるかも知れないという素朴な期待などではなく、絶望を通り越した先の、もっと切実な「希望の」光だったのだ。


――あの時のめぐる君の「想い」の色、彼が木のうろに置いた手紙の光の色は、マーヤから見れば何色だったんだろう……?


 その時、電話の向こうで直樹の声トーンが急に高くなった。


「ああ、それでさ、すっごいもの発見した!なんだと思う?」


「わかんない。何?」


「あったんだよ! あのうろの傍らに生えてたんだ、『マヤラン』が! 絶滅危惧種だよ! 最初に発見されてから、摩耶山では見つかってなかったんだよ!? すごい発見なんだよ。あんな、道のすぐ横だからこそ、逆に盲点になってたのかな、ひっそり花を咲かせてたよ。愛美さん、気づかなかった?」


「だって、私、マヤランなんて植物、知らなかったんだもの」


「感動もんだよ。明日にでも森林植物園のスタッフに連絡して確認してもらおう。

だけど、あのマヤラン、絶対秘密にしておかないと。国立公園の植物は持ち帰ってはいけないんだ。ましてやマヤランは普通には栽培できない」


「直樹さん……」


「あ、ああ。そう。それとね……」


 直樹は観念したようにまた声のトーンを下げ、言葉を選びつつ、噛みしめるように話し始めた。


「愛美さん、星兄妹の手紙とは別に、一緒に置いてあった君からのメッセージ、『マーヤから』確かに届いた。正直、僕は君ともう一度やり直せるか、今はまだ自信がない。だけど、星兄妹を世話している時の君の表情を、もう少し見ていたいと僕は思った。七海だけじゃなく、拓海の誕生日会もやりたいという、君の提案に賛成だ。

君だけじゃなく、あの子たち、星兄妹も呼んでやろうよ。そして、腹いっぱい食べさせてやろう……いや、彼らが望むなら、毎月でもいい。どうかな、愛美さ……、愛美」


 愛美の声がなく、反応がわからないので、直樹は電話の向こうで焦った声を出した。


「……愛美? ……もしもし?」


 愛美は、立ち止まったまま、スマホを持っていない方の手で顏を覆っていた。


 マーヤは本当にいるんだと思った。


(了)

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マーヤの物語 今神栗八 @kuriyaimagami

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