Scene.2/Escape after the lunch!




「二名様でよろしいですか?」

 店員の女はそう訊きながらも怪訝そうな顔をした。俺達がどう見ても親子には見えなかったのだろう。……まあ、気持ちは分かる。

 ランチをとるには遅い時間だったが、俺はとりあえずレストランに入って、ガキに何か食わせることにしたのだ。ボスの事務所で腹をぐぅぐぅ鳴らされるのも、何だかバツが悪い。

 席について、メニューに目を通す。俺は品書きと写真付きのメニューを見て、全然腹が減っていないことに気が付いた。

「コ―ヒー。あとコイツにはお子様ランチを」

 正直言うと、選ぶのも選ばせるのも面倒だっただけだ。だが、お子様にお子様ランチを食べさせて何が悪い? そもそもお子様ランチとは、お子様が食べるために存在しているのだ。

「おこさまランチ?」

 ガキはまるで初めて聞くかのように首を傾げた。

「お子様ランチだ。知らねえか? こんな丸いお山みたいなご飯に旗が立っていてよ……」

 目をキラキラさせて俺の話を聞いているガキを見る限り、どうやら本当にお子様ランチを知らないようだった。

「お待たせいたしました」

 店員がまず俺のコーヒーを運んできた。カップを馬鹿丁寧に目の前に置く。とりあえず口をつけてみたが、それは当り前のように不味くも美味くもない、全く普通のコーヒーだった。

 無性に煙草が吸いたくなった俺は、コートのポケットを探ってみたが、そこに煙草の箱はなかった。最近本数が増えていたのは自覚していたが、我ながらいつの間に吸い尽くしたのか……。

 やがて、頼んだお子様ランチもテーブルに運ばれてきた。ハンバーグにエビフライ、三色のミックスベジタブル、チキンライスの上には旗。そしてデザートにはプリンときたもんだ。ドリンクのセットにはオレンジジュースが付いてきた。

 それはどこにでもありそうな、至って普通のお子様ランチだったが、ガキにとってはそうでもなかったみたいだ。

「すごい、ほんとうに旗がのってるね!」

「まあな。」

 何が「まあな」だ。別に俺が作ったわけではない。

「いいから、眺めてばっかいねえでさっさと喰えよ」

 俺がそう促すと、ガキは手を合わせて「いただきます」をした。俺はしばらくの間コーヒーを啜りながら、お子様ランチを食べるお子様を眺めていることにする。

 俺は天涯孤独の身だ。子供の頃、両親がおっ死んで、妹と一緒に孤児みなしごの施設にぶち込まれた。成長して、俺はボクシングジムに住み込みで世話になることになった。妹はパン屋の若旦那と結婚して店の看板娘になったが、新入り店員の不注意による出火で店と二階の住居が全焼――亭主もろとも逝っちまった。もし死んだ妹夫婦に甥っ子や姪っ子がいたなら、このくらいの歳だったろうか……。思い返してみれば、俺の零落人生の始まりはここからだったかもしれない。昔はもう少しばかりまともで、プライドもある人間だった気がするが、今となっては俺もギャングの下っ端で誘拐犯。少なくとも今現在の俺が誇りにできるものといえば、ボクシングの腕くらいのものだが、それも組織のための道具に成り下がっちまってるわけだ……。

 とにかくイライラした。無性に煙草が恋しくなる。イライラすると煙草が吸いたくなるのか、それとも単に煙草がないからイライラしているのか、そんなことさえも今の俺には解らなかった。いや、そんなことはどうでもいいのかもしれない。とにかく俺は何かが、何かが無性に気に喰わなかったのだ。

「おじさんどうしたの? お腹でもいたいの?」

 いつの間にか食事の手を止めて、ガキがこちらの方を見ていた。

「いや、そういうのじゃないんだ……」

「じゃあ、お腹すいたの? ぼくのプリン食べる?」

 プリン。俺は不覚にも笑ってしまった。この歳で「プリン食べたい」もないだろう。まったく、ガキは気楽でいい。俺は、さっきまで考えていたこともあほらしくなってしまった。

「俺のことはいいから、そいつはお前が食いな、坊主」

 そこで俺は、テーブルの横に突っ立っている人物の存在にようやく気が付いた。その男はじぃっと俺達のテーブルを見つめていた。

「……何だ、お前は」

 俺はできる限りのどすを利かせた声と共に、男を睨みつけた。その男はまだ若いが黒いスーツに身を包み、白いシャツにノーネクタイ、いちばん上のボタンは開けていた。ぱっと見、軟弱なホスト野郎みたいな見た目だが、なぜかそうは見えない。目の下にある古い傷跡のせいなのかもしれない。

 男は俺に気が付いたようで、こちらを向いた。

「オレか? オレは今、そこのお手洗いから戻ってきたところだけど。やっぱりダメだねドリンクバー、つい飲みすぎちゃってさ」

 ……こいつ、ふざけてやがる。俺は極力怒りを押し殺し、静かに言ってやった。

「てめえ、親の躾がなってなかったみたいだな。んなことはな、聞いちゃいねえんだよ。人様のテーブルじろじろ見てんじゃねえぞ……」

 普通これだけ凄めば、よほどのバカか大物でもない限り、尻尾を巻いて逃げだすはずだ。だが、相手はまるでどこ吹く風だった。

「別に、あんたらを見てたんじゃないよ。プリンを見てたのさ」

 男がニヘラと笑った。……どうやらこいつ、ぶっ殺されたいらしい。だが、騒ぎを起こして警察でも呼ばれたら面倒なことになる。俺も気が立っていたが、ここは寛大に見逃してやることにした。

「何でもいいから、さっさと失せろ」

 俺がしっしっと手を振ると、男は不機嫌そうにテーブルを離れて自分の席へと戻っていく。何だかぶつぶつとぼやいている。

「ちぇっ、そんな犬みたいに扱うことないだろ……」

 だが実際その男は、少し悲しそうな、お預けをくらった犬みたいな顔をしていた。

 いい加減メシを食い終わったガキが、少し不安そうに俺の方を見ている。

「何でもねえよ。どこにだって一人や二人、おかしなヤツはいる」

 俺がそう言うと、ガキは頷いて、困ったように笑う。何かに怯えているのを隠している風にも見える。まあ、どうせあと数十分の付き合い、組織にお届けしたあとはオサラバの俺には、関係のないことだ。

「よし、そろそろ出るか……」

 俺達が席を立ち、レジまで行く途中、さっきの男のテーブルを横切った。そいつも、十歳くらいの男の子を連れていた。


「いや、べつに僕もう、お子様ランチって歳でもないんですけど……」

「そんなことないって。君の歳ならまだいける! ギリいけるって! なに? 店員のお姉さんに『あらあら、お子様ランチ頼んでる。かわいい』とか思われたくない、とか? 思春期かっ!! 別に恥ずかしくないから! ね?」

「というか、僕はこっちのデミグラスハンバーグセットのほうが……」

「お前がお子様ランチを食いたいとか食いたくないとか、そう言うのは関係ないの!! オレはプリンが食いたいんだよ!!」

「いや、だったら尚更自分で頼んで下さいよ」

「おま、こんないい歳の青年がお子様ランチ頼める訳ないだろッ!」


 二人はそんなやり取りをしていた。どうやらあの男、さきほど「プリンを見ていた」と言ったのも、あながちウソではなさそうだ。さきほど自分で言っておいてなんだが、こういう変な奴も、世の中には結構いるものなのか……。そんな事を考えながら、会計を済ませると、俺達は店から出た。

 店から車を停めてある駐車場まで向かう際も、ガキは俺のコートの端をつまんでいた。俺は別段振り払う理由もないので、そのままにしておいた。傍から見ると、さぞかしおかしい二人連れであることだろう。

 ようやく我が愛車まで辿り着いた頃には、時間は既に5時前を回っていた。そろそろガキを事務所に連れていかないと、ボスにどやされることになる。俺はガキを助手席に乗せてから自分も車に乗り込み、黙ってエンジンを掛けた……――――。







 ……と、ここまでが今日のおれの一日の大体の粗筋ってことになる。遠足気分の楽しそうなガキを乗せ、俺の車は組織のアジトに向かっているわけだ。

 俺はちらりと助手席のガキを見た。今からこいつの事を「坊」と呼ぶことにする。

「なあ坊、お前まるでピクニックに向かってる途中みたいだ。見ず知らずのオッサンとドライブするのがそんなに楽しいか?」

 坊は知らない。これから組織の工房に連れて行かれ、首筋にバーコードを打ち込まれた挙げ句、変態ジジイに売り飛ばされることを。

「うん、楽しいよー。だって僕、今まで全然外に出してもらえなかったんだ」

 ……外に出してもらえなかった? 一体どういうことだ?

「へえ、じゃあ今日は特別だったのか?」

「うん。だからね、今日はひさしぶりにオトーサンにお出かけにつれてってもらったんだ。そのすきに、ぼくはにげだしてきたんだよ」

 ガキは笑っていたが、俺には全く話が読めない。……逃げ出しただと? はぐれたでも家出でもなく、坊は確かに「逃げ出した」と言った。

 田舎道の真ん中に、俺は車を止める。まさかと思い、坊の服を上にまくり上げた。子供が逃げ出したくなる理由など、まあそれぐらいしか考えられなかったからだ。

「うっ……!」

 予想はしていたが、それは俺の想像をはるかに上回る、吐き気を催す代物だった。

 ――切り傷、火傷、皮を剥いだあと…。坊の服の下は古いものから新しい生傷まで、とにかく傷で埋め尽くされていた。虐待なんてレベルじゃない。これじゃあ、そう……拷問だ。自分てめえの子供にこんな真似をできる親が、いる訳がない。

「まさか……!」

 俺が坊の首に巻かれていたマフラーを取り払うと、そこには案の定、あった――例のオークションで売られたことを意味するバーコードだ。どうやらうちの組織がつけた物らしい。

 絶望した。これで、俺の仕事は失敗したも同然だ。言い方は悪いが、……こんなを持って帰ったら、俺がボスに殺される。それと同時に、坊をもし「オトーサン」とやらのもとへ届ければ、裕福な変態ジジイからの心証と、幾許かの謝礼も手に入るかもしれない……あわよくば、雇い主の鞍替えも――などと、ゲスな考えも頭をよぎる。

 だが、そんなことを考えていたのもほんの一瞬だった。ちょうどその時、ボスからまた電話が掛ってきた。

 この状況だ、取るかどうか迷ったが、俺は結局、「はい」とだけ言って電話に出た。

『――てめえ、いつまでほっつき歩いてるんだ? ガキ一人攫うのにそんなに時間が掛かるのか愚図野郎が!』

 そのあんまりな第一声に対して、俺は無言だった。たいして腹も立たない。というか、今はろくに頭も働いていない。

『今な、商協会の〝大得意様〟があるトラブルに遭ってな。こっちゃ忙しいんだ!! 只でさえ人手が足りないんだよ。仕事済んでんなら早急に戻って来い、解ったな?』

 いつもこいつは命令の押し売りだ。「トラブル」ってのは何のことだかよく分からないが、確かに電話の向こうからは慌ただしい雰囲気が伝わってくる。

『……聞いてんのか? もちろん〝商品〟のガキも連れているんだろうな? 経過報告もナシにノロノロノロノロと……まさか味見しようなんて思っちゃいねえだろうなクソ野郎。てめえの性癖なんて知ったこっちゃねえが、大事な売り物に手ぇ出しやがったらおめえ、シモのブツねじ切って、クネクネしたオカマパンチしか打てねえようにしてやるから、覚悟しとけよ』

 ……その言葉で、鈍重だった頭は殴られたようにハッとして、俺の中の「何か」はキレた。ボスが電話を切ろうとする前に、俺は言ってやった。

「……あー、その、なんっつうかですね。俺は戻れません」

『はぁ? 何寝ぼけたことを言ってやがんだ、殺されたいのか?』

「耳にまで脂肪が詰まってりゃ仕方ないが、よく聞けよ。もう一度言ってやるブタ野郎。俺は戻れない。……どうやら、あんたらが一度売り飛ばした商品を掴まされちまったようでな」

 電話の向こうで、下衆野郎は無言だった。さぞかし驚いていることだろう。

『おまえだったのか……』

 奴はそう言った。俺が「は?」と聞き返す。

『その〝大得意様〟だよ!! ギャングも恐れる、腹黒い資産家だ!! 街中の組織に連絡が渡ってる。彼の「おもちゃ」が逃げ出した、捕まえろ、とな。情報によると、小汚いおっさんに連れられてる所を見かけた奴がいるそうだ……』

「……」俺は言葉も出なかった。

『お前だよ!! よくもやってくれたな、え?

 そんなにうちの組を潰したいのか!? 拾ってやった恩を仇で返しやがって!!』

 元俺のボスだったその男は、心底怒り狂っているようだった。

『街中がお前を探してるはずだ。俺もあの人を敵に回したくはない。そんな事になれば、うちみたいな弱小は一巻の終わりだ!!

 情報も売る、そして必ずお前を見つけ出す。ガキと一緒にお前の首も献上しなきゃならんからな!! 殺してやる!! 殺してや……』

 俺は電話を切った。さて、どうしたものか……。絶体絶命のピンチにも拘わらず、俺の頭の中は妙にスッキリとしていた。

 それに、さっきの電話は俺の煮え切らない決意を、少しだけ後押ししてくれた。あのまま組織に居たとしても、いつか鉄砲玉として使い捨てられるのがオチだ。ならば、どうせ死ぬのなら、また違った命の使い方もあるはずだ。

「坊、悪いな。楽しいところは取り止めだ」

 勢いよくハンドルを切り、ユーターンする。坊は不安そうな顔で、俺を見ていた。

 ――さて、ここ数年間、考えることを放棄していた頭を、フル稼働させるときが来たようだ。

「……なあ坊、逃げる時に何か持ってきたか?」

「えっと……」

 坊がズボンのポケットから取り出したのは、非常に高価そうで悪趣味な、黒い革の財布だった。恐らく、オトーサンの持ち物だろう。

 中を探ると、名刺が出てきた。……それは名詞と呼ぶにはいささか抵抗のある代物で、黒くて固い板に、金箔を捺した装飾が施されており、氏名や連絡先も金字で印刷されていた。役職の後に続く氏名には『黒岸 吟瞑』とある。……名刺も名前も、非常に悪趣味だ。だが、この凝ったデザインからしても、よほど近しい者か、大事なビジネスパートナーにしか配っていないのは確かだろう。だとすると、ここに記された番号で、本人に直接繋がる可能性は高い。

 俺はまだ大した妙案もないまま、とにかくそこに電話を掛けた。ワンコールもしないうちに相手が出た。

『はい、どなたでしょうか?』

 電話の相手は思ったよりずっと若い声で、柔らかな物腰だった。ひょっとしたら秘書か何かかもしれない。

「えっと……あんたが」

『黒岸財閥当主、代表取締役兼会長のクロギシ ギンメイですが……何か?』

 どうやら男は、坊の「持ち主」で間違いなかったようだ。

「おい、いいかよく聞けよ変態野郎……」

 俺が脅すような声でそう言った途端に、相手の態度もがらりと変わった。

『何だ貴様は』

 それは非常に静かで、感情の起伏の全くない声だった。俺はその声を聞いて、心臓を鷲掴みされたようなおそましい気分になった。だが俺は怯みを悟られないように、続けた。

「あんたの可愛いオモチャを誘拐したもんだ。無事に返して欲しければ言われた口座に金を振り込んでもらおうか」

 ――そう、俺が思いついたのは狂言誘拐だった。このまま坊を連れながら逃げたって、先で野垂れ死ぬのは目に見えてる。だったら、必要になってくるのはやはり金だろう。……しかし、俺はこの考えがどれだけ浅はかだったか、すぐに思い知ることとなる。

『断る。』相手の返事はその一言だった。

「なん……」

 何だと? と言おうとして、俺の言葉は遮られた。

『電話が入った。少し待っていろ。』

 資産家はそう言うと、俺からの電話をほっぽり出して、違う電話に出た。俺は相手の予想外の反応に、しばらく固まっていた。少し会話が聞こえてくるが、「ええ、その件は……」「いえ、こちらこそお世話になっております」など、どうやらビジネスの話をしているようだった。

 二分ほどほったらかしにされてから、ようやく電話が済んだのか黒岸が再び俺との電話に戻ってきた。

『何の話だったか……そう、誘拐だったな。』

「てめえ、俺をなめてんのか……?」

 俺は凄んだが、さすがにこれだけの大物相手ともなると効果もないようだ。

『相手を甘く見たのは貴様の方だろう。寿命を縮めたな。』

「あ……?」

『先ほど待ってもらった間、部下に頼んで君の携帯の電波を逆探知して、衛星から探させてもらった。居場所はもう分かった。コドモを返そうが返さまいが、君は確実に死ぬ。これは決定事項だ。』

 そんなことを決定される筋合いは、こちらにはない。だが、相手は構わず続けた。

『すぐに私の部下がその子を引き取りに向かうことだろう。もし君が私の子に手を出した場合、楽には死ねないと思え。その子の服の下の傷跡を見ただろう? この世の全ての苦しみを味あわせてから殺してやる。私にはそれが可能だ。』

 手を出す? お前みたいな変態野郎と一緒にするなと言いたかったが、俺の声帯は少しも声を発しちゃぁくれなかった。それほどまでに男の声、それは、恐ろしいほど感情のこもらない、冷たい声だった。俺はかつて、これほどの恐怖を味わったことがない。プロのリングの上でも、路上の死闘でも――だ。

『ときに君、家族はいるか……?』

「い、いない……。天涯孤独だ」

 オレは相手のなすがまま、質問に答えていた。脅すつもりで電話を掛けたのに、いつの間にか逆にこちらが脅されている。これではあべこべだ。

『そうか。まあ、そんな事は調べれば5分で分かることなのだが、それは良かった。私も一族郎党皆殺しなどという、古臭くて残虐な真似は極力したくなかったものでね。』

 俺は一応正直に答えた。本当に家族や親戚などはいない。だが、もしそういった類の者がいれば、奴は間違いなく今言ったことをやってのけただろう。それだけの説得力が、奴の声にはあった。世の中には、本当に手を出してはいけない、敵に回してはいけない人間が、少数だが確実にいる。どうやらこの資産家は、そのタイプの人間だったようだ。あのボスがあんなに恐れていたのも納得できた。

『しっかり私のコドモを見ていてやってくれ。怪我もさせるなよ。その子には、私の手による傷以外は一つたりとも付けたくないのだ。

 まあ何、安心しろ。貴様は殺した後、骨も残らず処理してやる。新聞にすら載らんさ。ありがたく思え、以上だ。』

 電話は切られた。

 ……悪手。このままではバッド・エンドだ。まるで俺は地獄の釜の蓋を開け、その奥底を覗き込んでしまったような、得体の知れない恐怖感に襲われた。

間違いなく、俺は死ぬ……今日中に。

「おじ……さん?」

 坊が俺の袖を掴んだ。坊はもう、はしゃいでも笑ってもいなかった。おれの緊張感が伝わってしまったのか。だが、俺の目を覗き込むその目は、不安そうな表情とは裏腹に、驚くほど澄みきっていた。何故、そんな目に遭ってきたのに、今こうやって、見ず知らずのオッサンに対して、こんな目ができるのか……。

 俺はそう思うと同時に、たかが一本の電話で心が折れそうになっている自分を恥じた。最悪の気分から無理やり自分を奮い立たせた。携帯を鯖折りにし、車の窓から投げ捨てる。

「なあ坊、お前親はいるのか? ……本当の親だ」

 俺はとにかく、車を走らせた。アジトには行けない。街にも戻れない。

「ううん。ぼくは捨て子だったんだって。施設のせんせいが言ってた……」

「そうか……」

「うん。でね、そのせんせいのしょうかいで、今の家にきたんだよ」

 ……何が先生だ。そいつは小金欲しさに坊を組織に売り渡したんだ。もちろん、その後坊がどうなるかも知っていて……だ。くそったれが。

「帰りたいか……?」

「え?」

 坊は驚いた顔で俺の方を見た。

「今の家に帰りたいかって聞いてんだ」

「どうせ連れ戻されるって、わかってるんだ」

 坊が自分の膝の上でギュッとこぶしを握った。

「俺はな、お前が帰りたいかどうかを聞いてるんだよ」

「……」

 坊はしばらくの間、黙っていた。

「…帰らなくて、いいの?」

 泣きそうな顔だ。

「ああ……、お前の自由だ」

 俺がそう言うと、坊の目から涙が零れ出した。

「ほんとうはわかってた。おじさんが、ぼくのこと誘拐してるんだって。でもぼく、どこかにつれていってほしくて……あの家じゃない、どこかに……。ごめんなさい……ごめんなさい……」

 坊が膝の上で握りしめたこぶしの上に、ポタポタと大粒の涙が落ちた。

「……帰りたくない! あんなとこ、帰りたくないよ!」

 坊はついに号泣し出した。俺は少し困ったが、泣きじゃくる坊の頭に、そっと手を置いた。


「分かったよ、オジサンに任せな」


 ……まったく、すぐ泣くから子供は苦手なんだ。




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