五月雨を飲む

@haru-AA

第1話 海辺

最近は日の出の時間が早くなったので、午前5時にはすでに日差しが出ている。

朝の太陽光は他の時間帯と比べて特に眩しい。目に突き刺さるような眩しさだった。


初めてこの海辺に来たときは、太平洋側なのだから、海面からの日の出が見られると思っていたのだが、それは間違いだった。ちょうど太陽が出る方角に、大きな半島がそびえたって日の出を邪魔していたのだ。そのため、いつも見る日の出は、半島の山々の間から現れる。

それもそれで悪い景色ではないし、むしろそちらの方が一般的にはレアなのだが、やっぱり日の出の王道というものがあるのだとしたら、それは海抜ゼロからの日の出ではないか、などと考えてしまう。


波は太陽の光をキラキラと気持ちよさそうに反射していた。

今日は風もなく、珍しく波が穏やかだ。波にも調子が出ない日というのはあるらしい。いつもなら大きな音を立てて、何かを飲み込まんとするかのように荒ぶっているのに。


海は、砂浜から、ある地点までは水色で、それを超えると今度は深い青色に見える。横一線で色が入れ替わるのだ。水色の方が奇麗に見えるのだが、皮肉なことに、実際は海が汚いから水色に見えてしまうということだった。これは藤宮さんが教えてくれたことだ。


なんでも、大河から運ばれてきた砂が、潮の流れに揉まれているらしい。砂で濁った海の水は緑がかった水色に見えるんだ、と藤宮さんが胸を張って説明してくれたのを思い出す。 

 

そのとき僕は、色の入れ替わり現象には納得して、砂だらけなんだから魚はいないのかな、と新たな疑問を藤宮さんに投げかけた。


「そんなことはない。むしろ逆さ。なんせ、多い日には五十メートルに一人の間隔で釣り人がいるんだ。そんで、ちゃんとみんな釣って帰る。カワハギとかシロギス、カレイ、あとはヒラメなんかも釣れるらしいな。前に見たのはこんなにあった。」

藤宮さんは手でサイズを表しながら言った。


藤宮さんが広げた両手の間隔はゆうに一・五メートルを超えていた。そんな大物がこんな場所で本当に釣れるのだろうか。ブリだってそんなに大きくはないし、そもそもこんなに陸が近い場所で大物が釣れるなんてことは聞いたことがない。


ふと顔を上げると、そこにはイタズラっ子さながら、歯を見せてにんまりと笑う藤宮さんの顔があった。僕は藤宮さんの冗談に引っかかってしまったのだ。


「坊は単純だからコロっとすぐに騙される。こんなに気持ちよく騙されてくれる子は他にいないよ。」

藤宮さんは僕のことを坊と呼ぶ。世間知らずなおぼっちゃんだから坊、と呼ぶらしい。


おぼっちゃんをだますなんて悪趣味だなあ、と言うと、

「坊が他の人に騙されないように、俺が鍛えてやってる」

などど、カラリと笑いながら言う。


だけど、僕は最近藤宮さんとしかろくに話していないのだ。他の人と話す機会自体があまりないのに、騙されることなんてない気がする。


そもそも僕はあまり他人から話しかけられない。

高校生の頃はいつも一人だった。


一度だけ、友人ができないことを担任の先生に相談したことがある。すると、「他人から見て何考えてるかわからないから、話しかけづらいんだろうね。」とストレートに言われてしまった。

そして、僕は妙に納得したものだった。たしかに自分だって何考えているかわからない人には話しかけづらい。僕は、特に何かを考えているわけではないのだが、他人の目には常に何かを考えているように映っているらしい。


一日中誰とも口を利かない日も珍しくはなかった。少しは寂しいという感情もあったが、積極的に自分から誰かに話かける勇気はなく、それならいっそ一人の方が気楽だった。


藤宮さんと話すのは楽しかった。歳は離れていたが、不思議と話は合った。何より、藤宮さんは物知りで、話をするのは勉強になった。


藤宮さんは毎朝5時半に、海辺近くのベンチまでやってくる。朝刊を片手にとぼとぼと……。

歩くとき、妙に縮こまって肩身が狭そうに見えるのは、僕が発見した藤宮さんのユニークな特徴の一つだ。


そして、僕は藤宮さんが来ると、隣に座り、横から紙面を覗き込むのだ。


今日も時間通りに藤宮さんはやって来た。ぼさぼさの頭に年季の入っていそうな黒縁の眼鏡をちょこんと乗っけている。いつものスタイルだ。


「おはようございます」

僕は笑顔でそう言った。以前までは挨拶をする相手もいなかったので、朝、おはようと言えるだけでなんとなく新鮮な気持ちになるのだ。


「おう、坊、おはよう、今日はいい天気だ」

藤宮さんは、白髪が目立つ頭頂部をぽりぽりとかきながら返事をする。今日は一段と気分が良さそうだ。どっこらせ、と呟いてベンチに腰かけた。


藤宮さんは、大げさに音を立てて新聞紙を広げると、しばらくの間真剣な顔で様々な記事を読んでいた。

僕も、黙って横から記事を眺める。いつも、藤宮さんはふいに喋り始めるので僕はそれを待っているのだ。


何回か、ペラリと新聞紙を捲ったあと、藤宮さんは口を開いた。


「また石油の値段が上がったよ。最近上がったり下がったりを繰り返してばかりだな。……ところで坊、石油で使われる一般的な単位はなんていうかわかるかね?」

いきなりのクイズに僕は面食らった。しかし、これくらいの問題なら僕だって答えられる。


「たしか、バレル……だったかな」

「そうそう、じゃあ一バレルをガロンに変換しちゃうと、何ガロンになるかな?」

難易度がぐんと上がった。変換しちゃうのか。そもそも、バレルとガロン、どっちが多いんだったっけ……。

「わからない」、と僕は呟いた。

「正解は一バレルで四十二ガロン。じゃあこれをリットルに直すと?」

もはや無言で首を振るしかない。全面降伏だ。

「坊、まだまだだ。正解は、約百六十リットルだ。つまり、一ガロンがそれだけってことだ。朝から勉強になったろ?」

藤宮さんは僕の顔を見て歯を見せて笑った。


一ガロンは百六十リットル……。心の中で繰り返してみた。誰かに披露したい知識ではあったが、その相手もいないのでどうしようもない。すぐに忘れてしまうだろうと思った。


「あ、坊、見ろよ、この記事。若い女の子が十か所以上も刺されて死亡だってさ。可哀相に……。あらら、犯人はまだ捕まっていないようだ……。ひどい事件が起こるようになったもんだ。」


藤宮さんは、うーんと唸って首を傾げた。

新聞記事には、大きな見出しの下に、被害者の女の子の写真が載っていた。高校の学生証に使う写真だろうか。セーラー服を着た女の子がにっこりと微笑んでいた。

こんな風に思うのは不謹慎かもしれないが、女の子はとても美人で、男子ウケがよさそうな雰囲気をまとわせていた。大きな瞳のすぐ下にある涙ぼくろが僕には魅力的に見えた。


「こんな女の子を十数か所も刺すのは異常だよ。」

「たしかになあ。こんなんじゃこの子も死にきれないよな。こういう子が成仏できなくて幽霊になっちまうのかもしれない。なにより、美人だし」

「美人って。幽霊に顔関係あるの?」

「そりゃああるさ。幽霊ってのは美人か落ち武者だって相場が決まってる」


そんなことはないと思いつつも反論しても無駄だろうので、幽霊の話はこれ以上続けないことにする。


「それで、犯人は捕まったの?」

僕はおじさんに尋ねた。


「この記事には、犯人についての情報は一切書かれていないから、捕まってないんだろうな。犯人ねぇ……。ストーカーの線も考えられるが、別れた彼氏の可能性もあるな。もしくはその両方、別れた彼氏がストーカー化した……うん、これだな」


犯人がいまだに捕まっていないことに少し驚いたが、日本の警察は殺人事件に関しては特に優秀らしいし、犯人が捕まるのも時間の問題だろうと思った。


「ストーカー化した元彼かあ。当たっているといいね、おじさんの推理」

「まったく、今どきの若者っていうのは、一度火が付いたら何をしでかすかわからんもんだ。ゲーム世代って言うのか?若いやつらの中には、殺人ゲームのやりすぎで、現実と区別ができなくなっちまう奴が出てくる。そういう奴らがこういう異常な事件を起こすんだ」

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