飛んで火に入る夏の俺

 気が付けば俺は安っぽい飲み屋街のゴミの中に寝転んでいた。隣にいるのは彼女ではなくゴミを漁る野良犬だ。


 彼女はどこだ? いや、それ以前にここはどこだ?


 まさか今までのことは飲み過ぎた俺の一夜の夢だったのではあるまいな。そう不安になってきたところに、ポケットの中から紙切れが出てきた。ころころと丸っこい文字が並んでいる。


「この度はご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。困っているところにお声をかけていただき大変助かりました。これで私も彼も安心して過ごすことができます。ありがとうございました。PS・父は両方のコップに毒を入れていました。もちろん睡眠薬にすり替えておいたのでご心配なく」


 四行ほどの短い手紙を何度も読み直し、ようやく俺はすべてを悟った。

 

 彼女には恋人がおり、その存在が父親に見つかり大ピンチだった。俺ではなくて彼女と彼女の恋人こそが絶体絶命だった。しかし、まだ彼の素性までがばれたわけではない。どうにかしてこの事態を乗り越えるべく彼の代わりに死んでくれる哀れな男を探していた。が、そう簡単に見つかるはずもなく、タイムリミットは迫ってくる。自棄になり大衆居酒屋に足を運び、慣れぬ酒を煽っているところに声をかけたのが、この俺だったわけだ。

 

 そして俺は見事代打をこなし、彼女の恋人は毒を飲んで死んだ――ということになっているのだろう。

 

 俺はため息とともにその紙切れを投げ捨てた。ゴミを漁っていた野良犬がこっちを見ている。その目に憐れみの色が浮かんでいるのは俺の気のせいだろうか。

 

 おかしいとは思っていた。見た目も冴えずトークも下手な俺みたいな男にあんな美人が振り向くわけがなかったのだ。彼女は俺のことを見ていたわけではない。俺の中の利用価値を見ていたのだ。

 

 虚しさに泣きそうになり思わず野良犬を抱きしめる「あ、イテ!」がぶりと噛みつかれた。野良犬はすたこらさっさと逃げ出し、ゴミの城には俺ひとりとなった。噛まれた右手がじくじくと痛む。じわりと滲み始めた赤色を見ないように目を閉じた。

 

 「あー」と無意味に発声しながらゴミ袋のベッドに倒れ込む。ぼさりと音がして生臭さが俺を包む。


 ――みじめだ。

 

 頭を下げて嫌味を言われながらどうにか手に入れた十日のバカンス。期待に胸ふくらませ南の島までやってきたというのに、それがどうだ。女に騙され、ゴミのように捨てられただけじゃないか。身の丈に合わない贅沢をしたせいか。分をわきまえなかった俺が悪いのか――。

 

 地中に沈みこまんばかりに落ち込んでいた俺はそこでがばりと跳ね起きた。遠くから様子を窺っていた野良犬が目を丸くしている。

 

 身の丈に合わない? 分をわきまえない? そんなこと知ったもんか!

 身体の底からふつふつと怒りが湧き上がってくる。 


「南の島でくらい背伸びをしたっていいじゃないか! ほんの少しの可能性に賭けたっていいじゃないか! 冴えない男には夢を見る資格すらないのかぁ!」

 

 欠けた月がぷかりと浮かぶ夜空に向かって叫んだ。負け犬の遠吠えに犬たちが反応し、夜の町にいくつもの声がこだまする。怒りの炎は虚しさを燃焼促進剤としてメラメラと燃え上がった。いまから彼女の家を探し出して、すべてをぶちまけてやる。そんなことをすればどうなるかわかったものじゃないが、怒り心頭の俺には関係ない。

 

 しかし、ずんずんと地を揺らさんばかりに数歩歩いたところで、おなかがぐうと鳴いて水を浴びたアンパンマンのようにへなへなと力が抜けた。怒りの炎は見る間に鎮火し、そこには虚しさの灰ばかりが残った。

 

 情けない声で鳴いた腹を見下ろして、そういえば恐ろしく空腹だと気付く。なにをするにも、とにかく燃料をいれることだ。そう思い目の前にあった赤提灯をぶら下げた大衆居酒屋へ行くことにした。幸い財布の中身は減っていない。今夜はここで飲み明かし、嫌なことをすべて忘れてしまおう。

 

 立てつけの悪い扉を蹴って開けると、煮込み料理とアルコールと加齢臭が混然一体となった独特の匂いが身体を包み込んだ。そうだ、俺にはこれが似合っている。この世界だって悪いもんじゃない。慣れた匂いにすんすんと鼻を動かしていると、その中に嗅ぎ慣れぬ匂いを見つけた。太陽の下咲き誇る花のような可憐なにおい。

 

 ぐるりと店内を見回すと赤ら顔のおやじたちに交じってひとりの女性の姿を見つけた。カウンター席の一番端。そこに伏し目がちの楚々とした美女がいた。掃溜めに鶴、赤提灯に美女である。彼女のことをちらちらとみるものは多々あれど、声をかけるほどのつわものはどうやらいないらしい。俺は服を軽く払い、身だしなみに問題がないかをチェックして意気揚々と彼女の隣へと向かった。

 

 バカンスにはロマンスがつきものだ。酒だけで終えるのはいささか寂しいではないか。彼女こそ俺の運命の相手なのかもしれない。

 

 こちら宜しいですかと声をかけ、隣の席に座りなんやかやと話しだすと、これがどうしたことか盛り上がる盛り上がる。俺が何を言っても彼女はころころと笑い、先程までの憂いを帯びた表情は消え去り、空に輝く星々もかくやという華やかな笑顔になった。これはいける。俺はこの後の展開を想像して鼻息を荒くした。


 ……ん? どこかでこんなことがあったような。

 

 既視感に首をかしげた俺に彼女が言った。


「私の父に会ってくれませんか?」

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飛んで火に入る夏の俺 芝犬尾々 @shushushu

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