飛んで火に入る夏の俺

芝犬尾々

飛んで火に入る夏の俺



「男は度胸。そう思わんか」


 白い髭をもっさりと生やしたやたらと体格のいい男が言った。重低音に空気がびりびりと震え、ついでとばかりに俺の身体もぶるりと震えた。


 おかしい、どうしてこうなった。


 会社からのほんの少しの夏休みに有給休暇をつぎ込んで、冷たい視線にも負けずやっとの思いで手に入れた十日ばかりの短いバカンス。恋のロマンス求め南の島へひとっとび。地元のお酒を楽しもうと訪れた大衆居酒屋で、その場に似合わぬ目が眩むほどの美人に思い切って声をかけたところまではよかった。反応は上々。憂いに睫毛を震わせていた彼女にも笑顔が戻り、この後の展開を思い描いて鼻息を荒くしたところまでもとてもよかった。


 だが、吹き零れる直前の鍋もかくやという盛り上がりを見せていた俺に彼女が一言。


「私のお父様に会ってほしいの」


 そんな馬鹿な。出会って数時間の男を父親に会わせる女がどこにいる。ここにいた。正直そんな面倒なことはごめんだったが、脳裏の淫らな恰好をした彼女が断ることを許さなかった。朝目が覚めて彼女が隣に寝ているのも悪くない。いや悪くないどころか最高ではないか。ここを乗り越えれば俺は男として一回りビックになれる。


 などと阿呆のようなことを悶々と考えているうちに彼女の家に到着してしまった。黒服を来た男たちがずらりと並んだ白亜の大豪邸。どうみても堅気じゃない。


 やばいやばい、やばいところに来てしまった!


 今更ながら慌ててみるが、前からも後ろからもサングラスの奥からの鋭い眼光に照らされては逃げることも叶わなかった。


 ずるずると飼い主に引きずられる犬のごとく体裁で居間にたどり着くと、馬鹿でかいテーブルの向こうにひとりの恰幅のいい男がでんと座っていた。紋付き袴が堂に入っている。

 

 どうやら彼女の父親らしい。彼は「娘にふさわしいか試させてもらう」というと、ひとりの男にふたつのコップを持ってこさせた。水が目一杯注がれている。そして彼はにやりと笑って「片方に毒が入っている。どちらかを選んで見事飲み干してみせよ」というのだ。

 

 まさかウソだろ。性質の悪い冗談だなと思って「ふへっ」と笑った俺に彼女の父親は急に真顔になった。眉間に刻まれた皺はマリアナ海溝よりも深いと思われた。


「男は度胸。そう思わんか」


 そうして俺はふたつのコップを目の前にして冷や汗をだらだらと流しながら、これまでのことを約一秒の間に思い返していた。助けを求めて父親の隣に人形のように行儀よく座っている彼女を見ると、こちらの視線に気づきにっこりと微笑み口をパクパクと動かした。


 だい・じょう・ぶ……?

 

 確かに彼女はそういったように見えた。

 誰がどう見たって今の状況は大丈夫ではない。普通に暮らしていれば一生遭遇することのないほどの絶体絶命の大ピンチである。だが……。

 

 彼女の瞳は太陽に照らされるエメラルドグリーンの海よりも深く澄んでいた。俺はそこに希望の光を見た気がした。

日常から逃げ出し、一生来ることもないだろうと思っていた南の島へやってきた。たまたま入った大衆居酒屋に、彼女がいた。不思議と気が合って話が盛り上がった。こんな偶然があってたまるものか。これは運命だ。そういっていいだろう。いや、これを運命といわずして何を運命というのだろうか。

 

 目前に迫る死に俺の脳みそが現実逃避を始めたようだったが、俺はその考えにのった。

 

 ここですごすご逃げ帰ればこんな美人と知り合う機会すらないだろう。だが、この一回さえ乗り越えてしまえば彼女との仲は親公認。これはピンチなどではない。千載一遇の大チャンスなのだ!

 

 しかし、どちらのコップを選べば乗り越えることができるのか。彼女を手に入れるための試練とはいえ、毒を飲むのは御免だった。飲んだことはないが、おそらくあまりおいしいものではないだろう。


 ――右か、左か。


 じっと見つめるとほんの少しばかり右の方が濁っているようにも見える。いや、左のコップの底にかすかに白い粉のようなものがないだろうか……。


 疑ってかかればコップについた小さな傷までも何かの意味を持っているように見えてきた。くそう、どうすれば……。もう一度彼女をちらと眺める。

 

 穢れを知らぬ美しい目。形のよい弓なりの眉。見るものを魅了する柔らかそうな桜色の唇。さらりと肩から流れ落ちる艶やかな黒髪。ああ、なにもかもが俺の理想だ。視線を下に向けると控え目ながら確かに存在を主張するふたつの膨らみとスカートの下から伸びる白い足が目に入った。その時、目の前に閃光を見た。


 ぐるぐると空転に次ぐ空転を続けていた俺の脳みそが突然に事の真相に辿り着いたのだった――!


 どちらのコップを選んでも結果は同じ。俺は右側のコップに手を伸ばして、躊躇いが入らぬようぐいと一息の内に飲み干した。緊張で乾いていた身体にみるみる水が染み入っていく。

 

 ――男は度胸。

 

 その一言がヒントだった。

 これは、将来娘を守り、自分のあとを継ぐ資質があるかどうかのチェックであり、要は度胸試しだったのだ。毒なんて物騒なものはどちらのコップにも入ってはいない。死と対峙し、それでもなお判断し行動することのできる男であると証明できればよかったのだ。

 

 空になったコップをテーブルに叩き付け、どうだとばかりに彼女の父親を睨みつける。彼は一瞬驚いたような顔をしたが、数度頷きにやりと笑った。金色の前歯が光を受けてキラリと光る。

 

 やったぞ! 一世一代の大勝負に俺は勝ったんだ!


 彼女は俺を慈愛に満ちた笑顔で見てくれている。胸の内にじわりと広がる喜び。口の中にじわりと広がるのは苦味……ん? 苦味?

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