出発
アブラゼミがやかましい夏休み、3人の男子高校生が探検と称して、自転車片手にあぜ道を歩いている。燦燦と降り注ぐ太陽の熱に浮かされたように、若者たちはささやかな大冒険を謳歌していた。ふと、一人が道の向こうを指さして、入ってみようぜと言うなり全速力でペダルをこいだ。真夏の眩しい日の光に不釣り合いなぼろぼろの小屋が、脈絡もなくぽつんと道の端を占拠していたのだ。
木で出来たその小屋はいかにも古臭く汚い。扉に手をかけると軋んだ嫌な音がした。部屋の隅には藁などが積まれていて、天井に豆電球が一つぶら下がっていた。少年たちはきな臭いその光景に臆せず、はしゃぎながら足を踏み入れる。その顔はキラキラとしていて青春そのもの、まるで何も怖くないと言うかのようだ。ふざけ合っては笑い、小屋の中に積まれた荷物を一つずつ見て周る。彼らの背後の物置らしき戸が、かたりと音を立てたことに気づきもしない。
焦らすような緩慢さで戸はゆっくりと開いていく。ついにはその内側から青白い手がすうっと現れて、人の顔がのぞいた。赤い口紅がやけに目立つ、ぼさぼさの髪の女が、少年たちの背中を見てにやりと笑った。
夢の中の無粋な私は、無慈悲にもそこでリモコンの「一時停止」を押した。時計を見ると18時を過ぎたころだった。アルバイトまであと30分、そろそろ出発しなくてはと腰を上げる。とっくに日は沈んでいたが、部屋は照明をつけておらず薄暗い。身支度をした私は最後に部屋を振り返って一瞥し、テレビの電源を落とさないまま出かけてしまう。停止を命じられたまま放置された女の不気味な顔だけが光っていた。
玄関を出たところで、庭に祖母がいた。芝生が一切見当たらず、土を引っ掻き回した跡ばかりが目立つそこは、庭などと呼べるものではない。カーゲートが取り払われた駐車場で、祖母は腰を曲げてしゃがみ込み、金属の板を一枚一枚、策を作るように地面に突き刺している。「あんたも手伝って」と私の方に向き直った祖母は、とても穏やかな顔をしていた。仕方なく私は金属の板を一枚持ち、見よう見まねで同じようにするが、地面は無情に私の板をはねのける。
「おばあちゃん、これはなんのためのものなの?ゲートはどうしたの?」
「これがないとね。入ってきちゃうから。入ってきちゃうの」
祖母は私の目を見ないまま、ただ「入ってきちゃう」を繰り返した。何を質問してもそれしか答えない。ただ、しびれを切らした私が仕事の時間があると伝えると、「行っちゃうの?」「どうしても行っちゃうの?」と心細い声を出した。薄情な孫は手を振ると、板を置いて外へと歩き出した。
頭の中にはアルバイトのことしかない。この前後輩がミスした件はどうなったかなとか、あの書類の締め切りはいつだったかとか、そんなことばかりが頭の中をぐるぐると回っていた。そしていつもと同じように、卒論と履歴書が脳みその片隅を少なからず占拠していた。いろいろなものを目に映しているようで、実質私は何も見ていなかったのかもしれない。今思えば滑稽なことに、私は夢の中でも当たり前かのように疲れていたのだ。
家からアルバイト先まで約10分。今は18時5分。少し急がなくてはと腕時計から顔を上げる。その時初めて私は立ち止まった。
目の前に広がるのは長い長い高速道路。車一台通らない殺風景のど真ん中を、私は身一つで歩いていた。
見上げた夜空は低く紺色で、ガードレールやアスファルトは薄紫に照らされている。照明灯は電球部分だけがやたらと明るく黄色い。光っているというより黄色く塗られているかのようで、周りを明るくする気はさらさらないように見えた。私は確かにそこに立っているはずなのに、まるでアニメ映画の背景を見ているような、平たい景色が続いていた。
ぼーっとしすぎて道を間違えただろうか。遠くで道路が二手に分かれ、その片方は下り坂になっているのが見えた。その下り坂に見覚えがあると思った私は、引き返すことを全く考えずに歩き出した。遠回りをするだろうという感覚自体はあって、もしかしたらアルバイトに遅れてしまうかもしれない、その時は連絡を入れなくちゃと律義に考えながら、足だけはどんどん前へ進んでいった。
そのうち、進むことそれ自体を愉快だと思っていることに気付いた。私はこの下り坂に間違いなくいい思い出があって、これは楽しい場所へと続く道だと知っているようだった。足取りはどんどん軽快になり、私は半ば走るように下り坂を下りた。そうして見えてきたものは、大きな煉瓦の壁。どこからか漏れるネオンの光でピンク色にちらちら照らされている。壁を伝って歩いていった先には、ピンクと黄色と緑のペンキで色鮮やかに塗りたくられた、眼に痛いほど派手な大きな大きな建物があった。
紺色の夜空の下、高速道路の延長上に、その建物は場違いなほど目立った。入り口には華やかなアーチがあり、「ようこそ」という文字が見えた。要塞のように白い壁に囲まれていて、その壁には子供に書かせたような花や動物のイラストがたくさん描かれていた。奥の方でネオンの照明が動いている。私はさっきまでの楽しい気分を引っ込めて、入り口の前でしばらく呆然とつっ立っていた。
一見すると趣味の悪いテーマパークのようなその建物を、私は明確に「パーキングエリアだ」と思った。そして、この「パーキングエリア」で地元に戻る道を尋ねようと考えた。恐る恐るアーチをくぐり、建物の玄関を目指す。ふと振り返って入り口を見ると、外側からは見えないアーチの内側に文字が見えた。
その時、人っ子一人見当たらなかった空間で、私の耳に見知った声が飛び込んできた。明るい大きな声は、私がその文字を理解する前に言った。
「へえ、『絶望桃源郷』っていうのね、ここ」
シャツの内側で肌が粟立ったのを感じて、アーチに書かれたその文字を睨みつけることしかできなかった。この時になって私は初めて、「ああ、夢を見ているんだ」と気付いたような気がする。
『絶望桃源郷』。極彩色の建物の名前は、今でも私の耳に不快にこびりついている。
絶望桃源郷 おはなみ @knightwell
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