第1話 自由奔放な男

「……ああ、寝てしまったのね」

 都心から電車で一時間弱。実家に呼びつけられた幸恵が車内で見た夢は、これまでの人生の中で最低最悪の出来事の記憶だった。思わず独り言を零してから、段々都心とは雰囲気が変わってきている窓の外の景色を眺めながら自問自答する。


(どうして、あんな夢を見たのかしら?)

 しかしすぐに、今春、自分と同じ会社に入社してきた父方の従妹とのトラブル絡みで、つい先程、二十何年ぶりかで騙し討ち的に再会した、従兄弟の事を思い出した。


(最近、あの人の顔を見たからか。全く……、没交渉だと思っていたのは私だけで、父親と次男は何回も家に出入りしてたって、何の冗談よ。しかも兄さんとあいつが、飲み友達って何? 人を馬鹿にして)

 祖母の最期について拘っていたのは実は自分だけで、他の家族が既に君島と次男の和臣とは和解していた上、交流していたと知った時の幸恵の衝撃は半端では無く、その直後に電話で実家の両親を罵倒した程だった。しかし「お前が未だに君島家の事を口に出した途端大暴れするから、なかなか言えなかった」と言われれば、身に覚えの有り過ぎる身としては、それ以上強くは言えなかったのも仕方のない事ではあった。

 その後、従妹である綾乃と和解した事もあり、幸恵はその事については蒸し返さない事にしていたが、その日、そうも言っていられない事態が発生した。


「ただいま……」

 途中で見た夢のせいで、どんよりした気持ちのまま実家に帰り着いた幸恵は、兄嫁の香織に玄関の鍵を開けて貰って挨拶すると、エプロン姿の香織は明るく笑いながら、謝罪の言葉を口にした。


「幸恵さん、お帰りなさい。ごめんなさいね。正敏さんが待てないって言って、皆先に食べ始めちゃったの」

「良いですよ。もうお酒も入ってるんでしょう?」

「ええ。お肉と一緒に良いお酒も頂いちゃったから、お義父さんも喜んじゃって」

 苦笑しながら頷いた幸恵に香織が笑って返した所で、廊下を歩き出した幸恵は、座敷の方から伝わってくる父や兄の笑い声に、思わず渋面になった。


「頂いたって……、お客様なの? それなのに『美味いものを食わせてやるから、偶には帰って来い』だなんて、何を考えているんだか」

「あ、幸恵さん、それでお客様って言うのが」

「ただいま戻りました……」

 香織の話の途中で、座敷の襖を引き開けつつ帰宅の挨拶をした幸恵だったが、そこに本来居る筈の無い人間の姿を認めて、全身の動きを止めた。


「ああ、幸恵。一人暮らしだと碌なものを食ってないだろ。ちゃんと栄養をつけていけ!」

「おう! 今帰ったか、我が不肖の妹!」

「お帰りなさい、幸恵さん。お邪魔してます」

 自分が不機嫌になっている原因の男が、ほろ酔い加減で上機嫌な父と兄と一緒に、違和感無く長方形の座卓を囲んでいた為、幸恵はひんやりとした声を出した。


「…………どうしてあんたが、ここに居るのよ?」

 その問いに、本人が口を開く前に、幸恵の横から香織が口を挟んできた。


「今日のお肉とお酒は全部、和臣さんのお土産なの。凄いわよ? 但馬牛最高等級A5ランクのすき焼き用お肉を、三キロも頂いちゃったの! さっき食べたけど美味しかったわ~! こんな最高級品、うちのスーパーで取り扱え無いわよねぇ。高値過ぎて、下手したら売れ残るもの」

「香織さん……」

 片頬を押さえながら香織がしみじみとそんな事を言った為、幸恵は顔を引き攣らせ、地域密着型のスーパーチェーン店を経営している一家は、苦笑いで応じた。


「香織さん、それは言わない約束だろう」

「そうそう。ちゃんと客層見て仕入れしないと、経営が成り立たないだろうが」

「でも確かにこういう物を、一度は置いてみたいわねぇ……」

 そこで香織が思い出した様に幸恵に声をかけた。


「あ、幸恵さん、大丈夫よ? 幸恵さんの分はきちんと取り分けてあるから。さあ、座って食べて食べて」

「はぁ……」

 兄嫁に向かって怒鳴るわけにもいかず、幸恵は勧められるまま和臣の隣の座布団に座った。そうして香織が手際よく運んできた茶碗や皿の中身で、夕飯を食べ始める。和臣が愛想を振り撒きつつも幸恵には話しかけずに静かに酒を飲んでいるのを幸い、幸恵は卓上コンロに置かれているすき焼き用の鍋に次々肉を放り込んで黙々と食べていたが、少しして両親が溜め息交じりに言い出した。


「幸恵、お前もうちょっとマメに顔を出せ。来いと言わないと来やしないんだから」

「そうよ。お正月の他はお盆とお彼岸位しか顔を出さないで。同じ都内に住んでいるって言うのに」

 その愚痴っぽい響きに、幸恵は思わず箸の動きを止め、皮肉っぽく言い返す。


「そう思っているなら、自然に帰ろうかなと思える様に、もう少しこの家の環境整備をして貰いたいんだけど?」

「何の事だ?」

 そこで眉を寄せた父親に向かって、幸恵は苛立たしげに叫んだ。


「とぼけないでよ! 毎回帰る度に『良い人は居ないのか』とか『良い縁談が有るんだ』とか、一々しつこいし五月蠅いのよ! 自分の将来は自分で決めるわ! …………ちょっと。人の頭で何してんのよ?」

 文句を言っている途中で、何故か頭を撫でられているのが分かった幸恵は隣に座っている和臣を睨み付けたが、和臣は自分の行為を真顔で告げた。


「うん? 幸恵さんをいい子いい子って宥めているだけ」

「酔ってるの? それとも、もの凄い馬鹿なの?」

「幸恵さんがもの凄く謝りたそうだったから、『気にしないで良いよ』って言いたかったんだ。やっと言えたなぁ……」

「はぁ?」

 唐突に、何やら訳が分からない事を感慨深く言われた為、幸恵は毒気を抜かれて首を傾げた。


(やっと言えたって……、何の事を言ってるわけ? この人と接点なんて……)

 思わず考え込んだ幸恵だったが、すぐにある事に思い至った。


(ひょっとして……、昔、泥水を浴びせかけた時の事? 確かに悪い事をしたと思ったし、謝りそびれていたけど……。でもこの人の立場なら、私に文句を言うのが妥当じゃないの?)

 そう考えた幸恵が当惑していると、いつの間にか和臣は幸恵の頭から手を離し、真剣な顔で年長者達に向き直った。


「伯父さん、伯母さん。正敏さん、香織さんも聞いて下さい」

「あら、何? 和臣君」

「どうかしたのかい?」

 姿勢を正して呼びかけてきた和臣に、皆怪訝な顔を向けつつ話を聞く態勢になる。すると和臣は切々と訴えてきた。


「毎回実家に帰る度に、幸恵さんが気の進まない縁談の話を聞かされるのは気の毒です。そっとしておいてあげて貰えませんか? 幸恵さんも気持ち良く、実家に帰りたいでしょうし」

「……ちょっと。そんな事、あんたに言われる筋合いないわよ?」

 流石にむかっ腹を立てながら幸恵が会話に割り込んだが、家族は顔を見合わせつつ、弁解じみた台詞を口にする。


「まあ、それはなぁ」

「私達もねぇ、嫌な思いはさせたくは無いんだけど」

「三十近いんだからな、仕方がないだろ」

「幸恵さんはお仕事を頑張ってるから、ちょっとお義父さん達が気にしているだけなのよ」

「ええ、それは重々分かっていますから」

(何でこいつにしたり顔で、家族間の問題に口を挟まれなくちゃならないわけ!?)

 こめかみに青筋を浮かべつつ、幸恵は他の者達のやり取りを無視して食事に集中しようとしたが、ここで和臣が静かな口調で言い切った。


「大丈夫です。幸恵さんが嫁き遅れる心配はありません。安心して下さい」

 その口調に、正敏が不思議そうに問いかけた。

「はあ? 和臣、お前何でそんなに自信満々なんだよ?」

「俺がマザコンだからです」

「…………はぁ?」

 今度は正敏のみならず、幸恵を含めた荒川家全員がきょとんとした顔を和臣に向けたが、そんな当惑した視線を一身に浴びながら、和臣はすこぶる冷静に話を続けた。


「今まで出会った女性の中で、幸恵さんが一番母に似ているので、彼女の事を好きになれると思います。ですから幸恵さんの事は俺が引き受けますので、皆さん安心して下さい」

「…………」

 真顔でそんな事を言われた荒川家の面々は、一体どういう反応をすれば良いのか咄嗟に判断が付かず、無言で互いに顔を見合わせた。そんな戸惑いを知ってか知らずか和臣がスマホを取り出し、何かのデータを開きながら他の面々に声をかける。


「因みに、やっぱり俺の歴代彼女より、幸恵さんの方が美人ですよ? 見ますか?」

「おう、見せろ見せろ。どんな綺麗どころと付き合ってやがったんだお前」

「えっと……、こんな感じですが」

 真っ先にいつもの調子を取り戻し、和臣に体を寄せてその手元を覗き込んだ正敏は、素直に感嘆の声を上げた。


「おぉ、色々なタイプの美人が揃ってんじゃねぇか、羨ましすぎるぞこの色男!」

「本当に美人さんばっかり。自信なくすわ~」

 正敏が笑いながら和臣を小突き、香織が残念そうに溜め息を吐くと、すかさず和臣がフォローした。


「いえ、確かに彼女達は表面上は美人かもしれませんが、香織さんの内面から滲み出る人格や気品には、彼女達では太刀打ちできません。自信を持って下さい。本当に、香織さんの様な素敵な女性と結婚できた正敏さんが、羨ましいです」

「もう~、本当に口が上手いんだから!」

「全くだ。他人の女房を口説くなよ」

 そう言って和臣相手に和気藹々と会話している息子夫婦を眺めながら、親達も好き勝手な事を言い始めた。


「そうか……、夢乃がタイプなら、確かに幸恵はストライクゾーンだな」

「性格だって、気が強くて面倒見が良い所は同じだし。良かったわ~、嫁入り先の心配が無くなって」

「ああ、和臣君なら安心だ。和臣君、ふつつかな娘だが宜しく頼む」

「任せて下さい。必ず幸恵さんを」

「ふざけんじゃ無いわよっ!! 本人の意向丸無視で、何寝言ほざいてんのよっ!!」

 自分に断り無く、嫁に貰う云々の話を両親相手にし始めた和臣に、とうとう堪忍袋の緒が切れた幸恵は座卓を拳で叩きながら叱りつけたが、和臣は驚いた表情で幸恵を見つめた。


「幸恵さん? 俺が結婚相手では不満ですか?」

「不満も何も、あんたから何も言われて無いわよ! それ以前に、私はあんたの勤め先すら、知らないんだけど!?」

 自然に声を荒げてしまった幸恵だったが、和臣は少し考えてから納得した様に軽く頷いてみせた。


「……ああ、そうか。もうプロポーズして、了承を貰った気になっていた」

 あっさりとそう言ってのけた和臣に、幸恵は握った拳を震わせながらも、何とか自制しながら問いかけた。

「……っ! それって要は、自分がプロポーズすれば、断られる筈がないとか思ってるわけ?」

「あれ? まさか断る気?」

 その如何にも理解できないと言いたそうな声を聞いた瞬間、何かが幸恵の中で、盛大に音を立てて弾け飛んだ。




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