第2話 イラツボを突かれる女

「いっぺん死んでこい! このど阿呆がっ!!」

「うわっ!?」

 幸恵が怒声と発すると共に、目の前にあった器を掴んで中身を和臣に向かって振りかけたが、和臣は昔とは違いちゃんと腕で顔を庇った為、溶き卵は殆ど袖にかかっただけで済んだ。そして幸恵が腕を払った勢いで倒したお銚子も、座卓を静かに転がり落ちて、中身が和臣の膝辺りを濡らした程度で済む。


「和臣君、大丈夫か!?」

「はい、大丈夫です。ご心配無く」

「まあまあ和臣君、お酒と卵が服にかかっちゃったわ。ごめんなさいね? 年を取っても乱暴な娘で」

「いえ、いきなり結婚云々の話を出すなんて、俺の配慮が欠けていました。幸恵さんが怒るのは当然です」

「いやいや、和臣君はさすがに人ができているなぁ」

「大手都市銀行勤めは伊達じゃないわねぇ」

「あっ、あのねえぇっ!! まず私に頭を下げるべきでしょうがっ!」

 心配そうに声をかけ、謝罪の言葉を口にする両親に神妙に頭を下げる和臣に、そもそもの原因はお前だろうと非難しかけた幸恵だったが、そんな幸恵を半ば無視して事態が推移した。


「取り敢えず、今日は泊まっていきなさい」

「そうね、正敏。着替えを貸してあげて。服を洗濯して明日までに乾かすから」

「分かった。和臣、ちょっと待ってろ」

「すみません」

「幸恵、あんたは台所で食べてなさい。香織さん、卓上コンロと鍋は持って行って良いから。あと他の料理も持って行って」

「はい。じゃあ幸恵さん、行きましょうか」

「……分かったわよ」

(何なのよ、人を馬鹿にして……。そもそも頭を撫でたのだって、上から目線で気に入らないし……)

 すっかり悪者、邪魔者扱いされてしまった幸恵は、ふてくされて座敷をあとにして台所へと向かった。そして苦笑気味に支度を整えてくれた香織に礼を言って、一人で再び食べ始める。しかしそれは先程までとは違い、些か味気ないものとなった。


「……ごちそうさまでした」

(お肉、美味しかったけど……)

 せっかく実家に帰って来たのに、普段と同様に一人で食べる羽目になってしまったせいか、幸恵は(もう少し楽しく食べたかった)と、何となく悔いが残ってしまった。そして椅子に座ったまま鬱々と黙り込んでいると、頃合いを見計らって来たであろう香織が、ドアを開けて顔を覗かせる。


「あ、幸恵さん、食べ終わった?」

「はい。あの……、すみません香織さん。後始末させてしまって……」

 兄嫁が畳に零れた料理や酒の後始末をした事が容易に推察できた為、幸恵が神妙に頭を下げると、香織は笑って歩み寄り、隣の椅子に腰掛けながら幸恵を宥めた。


「良いのよ。確かに和臣さんも酔った勢いでつい口が滑ったみたいだし。流石にあれは拙かったと、反省しているみたいよ? 本格的に潰れてきたから、そろそろ客間で休んで貰うけど」

「酔った勢いって……」

 思わず顔を顰めた幸恵を、香織が再度宥める。


「手土産もね、確かにお酒はお義父さんと正敏さん用だけど、予め『お肉を三キロ持参します』なんて言ったら、絶対正敏さんが幸恵さんを呼び寄せると思ったからじゃない? だから幸恵さんに美味しく食べて貰いたくて、良いお肉を調達してきたと思うんだけど」

「……穿ち過ぎじゃないですか?」

 もの凄く懐疑的な眼差しを向けられた香織は、座敷から持ってきたバッグを幸恵に渡しつつ、苦笑しながら立ち上がった。


「結構、勘は良い方なんだけど。じゃあ、幸恵さんの部屋にお布団を敷いておいたから、お風呂に入って好きな時に休んでね? 使った食器は流しに入れておいてくれれば良いから」

「はい、ありがとうございます」

 恐縮して頭を下げた幸恵に、香織は小さく手を振って台所から消えて行った。そして再び一人になった幸恵は溜め息を吐いて立ち上がり、バッグ片手にかつての自室へと向かう。そして部屋に入ってバッグから手早くパジャマや小物類など必要な物を取り出した幸恵は、風呂場へと向かった。


(私の部屋、かあ……。まだ兄さん達に子供はいないけど、生まれたらその子供の部屋になるんだろうな。それを考えれば、大手を振って帰って来れるのも今のうちか)

 そして浴槽に浸かってリラックスした幸恵は、先程の室内を思い浮かべながら多少感傷的な事を考えた。それに引き続いて、かなり現実的な事を考える。


(この際もう少しお金を貯めて、職場に近い場所にワンルームマンションを買う事を、真剣に考えようかしら?)

 生涯独身を念頭にした様な考えに、幸恵は自分自身でうんざりしながら幸恵は風呂を上がり、着替えを済ませて先程の部屋に戻った。そしてドアを開けて部屋の照明を点けた瞬間、信じられない事態に遭遇する。


「さて、寝ようかな…………。え?」

 目の前に自分用に敷かれていた布団の中には、和臣が既に横たわってすやすやと気持ちよさそうに寝息を立てていた。それを無言で一分近く凝視していても全く起きる気配が無い為、幸恵は枕元に両膝を付いて和臣に声をかける。


「……ちょっと」

「…………」

 相手が熟睡している為、一応控え目に声をかけてみた幸恵だったが、当然と言えば当然の如く和臣は全く反応しなかった。


「起きなさいよ」

「…………」

 今度は幾分声を大きくして軽く肩を揺すってみたが、和臣は煩わしそうに眉を寄せて体を捻って横を向いた。そして背中を向けられた幸恵のこめかみに、青筋が浮かぶ。


「あのね……、客間は他の部屋なんだけど?」

「…………」

 懸命に怒りを堪えつつ再度声をかけた幸恵だったが、無反応に加えて枕元にきちんと畳まれて重ねられている衣類一式を見て、とうとう我慢の限界に達した。


「何、人の部屋で、人の布団で爆睡してるのよ!? この馬鹿ぁぁっ!! しかも脱いだ服をきちんと畳めるなら、状況判断位しなさいよ!?」

「…………」

 そう絶叫しつつ、幸恵は和臣の身体にかかっていた毛布や布団を勢い良く剥ぎ取ったが、和臣はシャツにトランクス姿のまま、特に寒そうな気配も見せずに眠り続けていた。そして幸恵の叫び声を耳にした家族が、次々にその部屋に集まって来る。


「うるさいわよ、どうしたの?」

「相変わらず騒々しい奴だな」

「幸恵さん? あら、どうして和臣さんがここで寝てるの?」

「それは私が聞きたいわよ!!」

「幸恵……、お前、酔い潰れてる男の寝込みを襲うなよ」

「誰が襲うかっ!!」

「でも、この騒々しさでも目を醒まさないなんて、さすがあの君島さんの息子さんねぇ」

「動じなさっぷりは夢乃の息子とも言えるがな。あいつはいつでもどこでも、平気で寝れるタイプの人間だった」

「へえ? 叔母さんってそうだったんだ」

「凄いですね。でも火事とか地震とか起きた時、逃げ遅れないんでしょうか」

 兄嫁には不思議そうな顔をされ、和臣と交互に見られながら兄には呆れた様に溜め息を吐かれた幸恵は、反射的に和臣を蹴り起こそうとしたが、それを家族総出で押し止められ、その夜は客間の布団で休む事になった。



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