第3話 一本気な女

 トレーを抱えて社員食堂で空席を探していた幸恵は、少し離れた所から声をかけられた。


「幸恵さん、ここ空いてます! 一緒に食べませんか?」

 見るとこれまで色々あったにも関わらず、妙に懐かれてしまった従妹の綾乃が軽く手を振っており、その向かいの席で最近彼女と付き合いだした祐司が微妙な顔をしているのを認め、一瞬考え込んでからそちらに足を向けた。


「……ご一緒させて貰うわ」

 幸恵と祐司が以前付き合っていたのは、元々社内で二人を良く知る者の間では周知の事実だったが、最近の綾乃を巡る騒動で三人の微妙な関係が、社内に知れ渡ってしまった。その為、周囲のかなりの社員が興味本位な視線を向けていたが、綾乃はそれに全く気付いておらず、祐司はもう諦めており、幸恵は無視を決め込んだ。


(この子に悪気は無いのは、分かっているし。加えて祐司と私の事も気にしてないって事でしょうから、問題は無いわよね?)

 そんな事を考えながら綾乃の隣の席に着いた幸恵は、食べ始めてすぐ先週末の不愉快な出来事を思い出し、綾乃に顔を横に向けた。


「ちょうど良かったわ。ちょっとあなたに、聞きたい事があったの」

「はい、何ですか?」

「あなたの次兄って、マザコンなの?」

「はい?」

「いきなり何を言い出すんだ?」

 唐突に切り出された内容に、問われた綾乃と向かいに座っている祐司が当惑した顔を向けたが、幸恵は真顔のまま重ねて問いかけた。


「どうなの?」

 そこで、どうやら冗談の類とかではないらしいと判断した綾乃が、動揺しながらも自分の所見を述べる。


「えぇっと……、ちぃ兄ちゃん、あ、えっと、下の兄の和臣兄さんの事ですが、私から見てマザコンって事は無いと思いますが……。寧ろお兄ちゃん、その、上の兄の篤志兄さんの方が、その傾向は強いと思います。でもそれが、どうかしたんですか?」

 心底不思議そうに問い返した綾乃に、幸恵は疲れた様に溜め息を吐いてから告げた。


「それなら当然、私が週末、どんな目に合ったのかも知らないわけよね?」

「な、何かあったんでしょうか?」

「大ありよ。久し振りに実家に呼びつけられたら、何故かそこにあなたの下のお兄さんが居てね。父や兄と一緒に飲んだくれていたのよ」

「え? 何で? 私に内緒で、ちぃ兄ちゃん一人で伯父さんのうちに行っちゃったの? 今度行く時は一、緒に連れて行くって言ってたのに、狡い!」

 恐る恐る尋ねた綾乃だったが、幸恵の話を聞いた途端、怒りを露わにして文句を言った。それを見た幸恵は、密かに考え込む。


(そう言えば、そんな事を言っていたわね。だったらどうしてあいつ、一人で来たわけ?)

 訳が分からず黙り込んでいると、ここで祐司が口を挟んできた。

「それで? 実家で何があったんだ? お前の家族と和臣さんがただ飲んだだけなら、お前がそんなに不機嫌な顔をしてるわけないだろう」

 その問いかけに、幸恵は腹立たしげにその時の情景を簡潔に告げた。


「自分がマザコンだから、叔母さんに良く似た私の事を好きになれると思うし、嫁き遅れない様に引き受けるから安心して下さいと、私の家族に真顔でのたまいやがったのよ」

「…………」

 途端に綾乃と祐司は沈黙し、揃って困った表情になった。


「しかも、データフォルダ内の歴代彼女の写真を見せて、私の方が美人とかほざきやがったわ」

「…………」

 そう苛立たしげに吐き捨てた幸恵を見て、祐司は思わず額を押さえ、綾乃は顔を引き攣らせる。


「しかもちゃんと客間に布団を用意しておいたのに、いつの間にか私の部屋に入り込んで、私の布団で爆睡してたのよ? これで久方振りに戻った実家で、心穏やかに過ごせると思う!?」

 身内のとんでもない醜態を聞かされた綾乃は、鬼気迫る表情で同意を求められた為、恐縮しきって頭を下げた。


「……重ね重ね、兄が失礼しました」

「和臣さん……、懇親会で顔を合わせた時に一緒に少し飲んだ程度だけど、礼儀正しいし頭の切れる人だと思っていたんだが……」

 困惑した表情での祐司の呟きに、幸恵は定食のご飯をかき込みながら、盛大に文句を言った。


「普段どう取り繕ってるかは知らないけど、金輪際あんな変人に関わり合うのはごめんよっ!」

 それから食べる事に集中しようとした幸恵だったが、心なしか顔色を悪くした綾乃が、恐る恐る幸恵に話しかけてきた。


「あの……、幸恵、さん?」

「なあに?」

「その……、誠に申し訳ないんですが……」

「だから何?」

 口ごもっている綾乃に段々苛つきながら幸恵が問い返すと、綾乃は覚悟を決めた様に口を開いた。


「実は……、ちぃ兄ちゃんから『幸恵さんと無事に顔合わせができたし、近いうちに三人で食事でもしたいから、連絡を取り合う為に幸恵さんの連絡先を教えてくれ』と頼まれまして……。この前、幸恵さんの電話番号とメルアドを……」

「ちょっと……」

 尻つぼみになっていく綾乃の話を聞いた幸恵は、思わず箸の動きを止めて隣の綾乃に強張った顔を向けた。綾乃も流石に拙いと思い、勢い良く頭を下げながら謝罪する。


「ごめんなさい! すみません! ちぃ兄ちゃんが幸恵さんにそんな失礼な事をするとは、夢にも思っていなくて! ちぃ兄ちゃんは兄弟の中では一番頭が良くて人当たりが良くて、今まで問題らしい問題を起こした事が無かったものですから!」

「もう良いわ。分かったから。別にあなたが謝る筋合いの事でも無いし」

 涙ぐんで頭を下げる綾乃をこれ以上苛めるつもりは無かった為、幸恵は諦めて軽く手を振って宥めた。すると唐突に携帯電話がメールの着信を知らせて来た為、その場の気まずさを改善する意味もあって、断りを入れてそれを取り出し、メールの内容を確認する。しかしそれを見た幸恵は、気分が落ち着くどころかこめかみに青筋を浮かべながら素早く何かの操作をし、勢いよく閉じて再びしまい込んだ。


「…………」

 そのまま険悪な雰囲気を漂わせつつ食事を再開した幸恵に、綾乃が控え目に問いかけてみる。

「あの、幸恵さん? どうかしましたか?」

 それに対し、幸恵はボソリと面白くなさそうに告げた


「……噂をすれば影」

「はい?」

「あなたの馬鹿兄からメールが来たから、着信拒否にしてやったわ。この際向こうの携番を教えてくれる? 先に纏めて着信拒否にしておきたいから」

「……はい」

 とても反論などできず、携帯を取り出した綾乃は心の中で(ちぃ兄ちゃんの馬鹿……)と恨み言を漏らしながら、幸恵に和臣の携番を教えた。その一連の作業を見守っていた裕司が、困った様に声をかける。


「えっと……、何もそこまで和臣さんを毛嫌いしなくても、良いんじゃないか? 何か大事な用があるかもしれないし」

「無関係な人間の間で、どういう大事な話があるって言うのよ?」

「それはそうなんだが……」

 一応和臣を庇うつもりの祐司だったが、幸恵にぴしゃりと言い切られてそれ以上の議論はできなくなった。

 食べ始めはそんな険悪な雰囲気だったものの、違う話題で三人で話しているうちに幸恵の機嫌も直り、最後は祐司と綾乃を冷やかして楽しむ位まで、気分良く昼食を食べる事ができた。しかし気分が良くなったのも束の間、午後一で設定されていた会議で、幸恵の機嫌は再び急激に悪化した。



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